洲崎遊郭(東京都江東区)|おいらんだ国酔夢譚|

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これだけではなかった!赤線時代の生き残り

洲崎カフェー組合跡

ここにはかつて、洲崎の赤線カフェー協会(組合)の事務所がありました。洲崎の赤線組合はなぜか二つあり、ここはそのうちの一つでした。現在は飲み屋が軒を連ねる長屋になっていますが、建物自体はもしかして当時のもの!?知らんけど。

洲崎遊郭の地図

戦後の「洲崎パラダイス」のカフェーは「洲崎半島」の右側のみと述べましたが、左側にも「特殊喫茶店」が2軒のみあったようです。

東京洲崎遊郭跡

ここには、「富貴」と「幸松」という店がありました。当時の建物は現存しません。なぜここだけ、まるで仲間はずれのように「半島西部」に存在していたのか。その理由はわかりません。

東京洲崎のカフェー建築

「大賀」跡の、南北に貫く道を隔てた隣にはこんな建物が。
13年前は全くスルーしていたのですが、13年間の経験値を下敷きにした直観は今回、これを見逃しませんでした。

筆者
筆者

これは怪しい…

「怪しい」だけで「そうだ」と決めつけず、直観を客観化する作業を欠かさないのも、13年の間に得たスキル。直観を頭に残しつつ資料をあさってみると、やはり私の直観は当たっていました。

洲崎遊郭のカフェー建築

近くにあるこちらも、リフォームはされていますが、当時の生き残りに間違いありません。

逆に、一部のブログでは「あやしい」とされているけれども、資料を突き合わせるとシロなものも存在します。

洲崎遊郭のカフェー建築

いかにも古そうなこの二つの建物。ぱっと見ではもしかして…と淡い期待を抱いてしまいますが、赤線現役時代の地図によるとここは空地だったので、たぶんシロ。しかし、地図は昭和28年なのでそれ以降に作られたという可能性もあり、真っ白とは断定できません。
ちなみに、この右隣、現在はマンションになっている部分には「弁天湯」という銭湯が戦前からありました。遊郭・特飲街のど真ん中にあったので、娼妓や赤線の女たちの御用達だったのでしょう。

東京洲崎のカフェー建築

現在の洲崎ではいちばん目立つ、壁面に生えるトゲのようなものが特徴的な建物。いかにもと思うでしょうが、位置が「洲崎半島」の西半分、つまり赤線の店がほとんどなかった場所にあります。

洲崎遊郭のカフェー建築

昭和33年(1958)の地図では存在がいまいちなものの、4年後の地図では「寿理容館」が確実に確認できるので、おそらくこの時期に作られたものではないかと思います。

そして、赤線の建物ではないですが、こんな建物も。

洲崎の武蔵屋

酒屋の「武蔵屋」です。昭和28年の地図でも存在が確認できる、洲崎パラダイス時代からの生き残り。くどいようですが、酒屋であり赤線の店ではありません

実は、洲崎の調査はすべて完了!と意気揚々と引き揚げる途中、私の直感がこれを見逃しませんでした。これはもしかして…。しかし、手元の地図を調べてみても「武蔵屋」の文字はなし。なんや気のせいかと写真も撮らず通り過ぎ…いや、念のために一枚撮っていたのですが、価値なしと削除していました。
そして帰宅後、ブログ執筆のために改めて地図を見ると…「武蔵屋」があるではないか!
新幹線の時間が迫って乗り遅れの危機が頭の中でチラついていたせいで、現地で見た地図は1枚分地理がずれていたという、なんだか私らしいオチでした(笑

私のような遊郭・赤線跡探偵が、妓楼跡の他に見逃してはならないものがあります。

洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養

「洲崎半島」の南東隅には、警視庁洲崎病院という病院がありました。廓内にあったということと、管理が警視庁ということからお察しのとおり、ここは遊郭の娼妓専用(一般の患者様お断り)の病院でした。
遊郭は公娼なので公が保護しないといけません。そのために遊郭には、大小の違いはあれ主に性病を診たり、入院させたりする専用の病院・診療所がありました。
大阪には府の娼妓を総括する「難波病院」があり、元院長の上村行彰が「日本遊里史」という遊里史の必読書を残しています。

戦後は公娼ではなくなった以上、病院の存在価値がなくなり廃院、その跡には都営団地が建てられています。そこの一角に、古びた碑が一つ残っています。

「洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養」と書かれた石碑は、昭和6年(1931)に遊郭が開廓されて以来の死者を弔うために作られたもの。善光寺からわざわざ尼僧を招いて、開業以来ここで亡くなった霊を慰めたと記録にあります。
「白菊の はなにひまなく おく露は なき人しのぶ なみだなりけり」
という、尼僧が詠んだ歌が石碑に刻まれています。

場所は少し離れますが、

深川浄心寺の洲崎廓追善墓

深川門前仲町の浄心寺に、大正八年九月再建と書かれた「洲崎廓追善墓」と書かれた墓碑があり、脇には「貸座敷」と書かれています。
その右側には、赤線時代の昭和29年(1954)、「洲崎カフェー組合」と「従業婦多津美会」が建立した「供養観世音」が、左側には赤線廃止後の昭和39年(1964)に建立された「元洲崎遊郭無縁精霊之供養塔」が並んでいます。
洲崎や遊里史に興味がある方は、ここも訪ねてみれは如何でしょうか。

洲崎遊郭

洲崎パラダイスの看板があった場所には、こんな看板と掲げられています。
『正しい歴史を受け継ぎ』
歴史を忘れてはいけない…それはごもっとも。ならば、洲崎が遊郭だった歴史も教えなければならない。
遊郭は「性欲のトイレ」として長年隔離され、蓋をされてきた。が、事実である以上、事実として正しい歴史を伝えなければならない。運動家の感情論や色欲の色眼鏡を通してではない、極力客観的に正しい遊郭の歴史を伝えるのも「正しい歴史を受け継ぐ」ではなかろうか。遊郭最後の語り部だった桂歌丸師匠も亡くなった。遊里史を掘り返しても当事者はみんなあっち(・・・)に逝った。掘り返しても傷つく人は既にいるまいに。

13年の月日は、洲崎にわずかに残っていたカフェー建築を跡形もなく消し去りました。上述のとおり赤線時代の建物がすべてなくなったわけではないですが、見た目ですぐわかる残滓が消え新しい住宅が増えている中、ここがかつて東京、いや日本でも指折りの色街だったことは、徐々に歴史の波に消えようとしています。
それが良いことなのか、それとも悪いことなのか、その評価はここでは致しません。

東京の他の遊郭記事はこちらでありんす


 

・『洲崎遊廓物語』
・『洲崎の栞』
・『江東区史』
・『本所区史』
・『全国遊廓案内』
・『全国女性街ガイド』
・『赤線漫談』『赤線涼談』
・『東京特飲街めぐり』
・火災保険特殊地図 本所区(戦前)
・火災保険特殊地図 江東区(戦後)
・洲崎パラダイス(映画)
・東京都全住宅案内図帳(江東区)昭和33年/37年
・江東区の昭和(写真アルバム)
・目で見る江東区の100年 写真が語る激動のふるさと一世紀
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コメント

  1. MA より:

    先日、玉ノ井カフェー街に行ったついでに駆け足で鳩の街も見に行ったのですが、情報が不正確な某サイトを見たために場所を間違えていてなにも見られず、反省して勉強し直しでこのサイトに出会い、大いに学ばせていただきました。ありがとうございます。
    さて、洲崎のページで提言を一つ。「現役時代は「都」という屋号の店」ですが、よく見ると、二階の窓と一階の窓のサイズと位置関係が変わっていないこと、二つある電気・ガスメーターの種類と設置位置が変わっていないこと、一階の窓と玄関の引き戸の位置関係および双方のサイズが変わっていないこと、以上の理由から、実施されたのは「カフェー建築のガワ(装飾部分)」だけ引き剥がして再塗装した工事で、この建物は躯体を全くいじっていないと推定されます。建物の角にあった青いタイル張りの柱に見えたものは、おそらく張りぼての装飾であり、それを撤去することで隣家との間隔が広がったと思われます。おそらく、ネットで「カフェー建築」として有名になったことから、オーナーが自宅の「黒歴史」を知らしめる特徴的な外観を手軽な工事で消失させたものと思われます。もし現地に再訪されるのであれば、隣家との隙間から見えるであろう屋根の形状や二階側面の窓の位置と形状が、改装以前と同じであることを確認なさることをお勧めします。また、写真では判然としませんが、家の前のコンクリ製たたき部分は全くいじっていないようですので、現地でコンクリ表面の経年変化を見てみるのも良いと思います。私は建築は素人ですが、古家を取り壊してから新築するのであれば完全に更地にするはずで、もし家の前に設置から数十年が経過したコンクリのたたきが残っていたら、そこにあるのは元々あった「カフェー建築」と見ていいはずです。

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