立石の赤線(特飲街)(東京都葛飾区)|おいらんだ国酔夢譚|

東京立石赤線東京・関東地方の遊郭赤線跡

戦後の混乱がやっと落ち着きつつあった昭和20年後半、東京には15~6ヶ所の赤線が存在していたといいます。青線や街娼のたまり場などを入れると「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたように、掃いて捨てるほど存在していたのでしょう。

今日の赤線は、そんな東京の赤線の一つ、東京都の葛飾区、立石の紹介を。

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立石にあった赤線地帯

東京立石赤線地図

私の事前調査と実地調査によると、立石の旧赤線のはだいたいこの区域です。
立石駅の北口の北部、商店街の道筋にある「立石駅前交番」の裏近辺が赤線地域と昔の資料にありますが、『全国女性街ガイド』は立石をこう表現しています。

「あそこは公衆便所だよ」
と痛撃する男がいるかと思えば、
「俺、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ…てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。けっ、たまらねえや」
という男もいる。早い話が、銀座人種には嫌われ、浅草民族にはぴったりくるのがこのシマの持ち味。
60軒、約300名のこじんまりとしたところ。美人よりサービスを期待して捨て難い味がある。
(以下略)

『全国女性街ガイド』

巧みな表現で立石の魅力を紹介しています。
ツイッター並みの文字数ながら書くべきところは捨てずに表現し、時にはユーモアを盛り込んだ文章は、『全国女性街ガイド』の著者ならではの文章力。強いて言うならば渡辺節と言うべきか。この人、かなりの文章力をお持ちである。
これは同じ「物書き」としてなかなか簡単そうで難しい。私の場合、いつもダラダラくどくどと書いてしまうので、少しは渡辺寛の爪の垢を煎じて飲みたい気分です。まあ、そんな文字数で良いのなら、ツイッターでいいじゃないかと(笑

特に、

「おれ、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ・・・てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。けっ、たまらねえや」

の記述は、渡辺氏の創作の可能性が大なものの、私ならおねーさんさんにそう諭されたら、「おにぎり作って♪」って甘えて、尻尾振りながら工場に向かいそうなほのぼのとした光景が浮かびます。思わずこの文章を脳内でアニメに変換してまいました。
「性欲解消コンビニ」と化した感がある今の風俗と比べたら、もう赤線経験者最後の生き残りの一人、半藤一利(作家・歴史家)さんの言う「赤線は『雅』があった」という言葉が、この記述だけでもわかるような気がします。赤線も男と女の間に血の通った、風俗や売春という言葉では片付けられない、人間と人間の温かい交流があったのだろうと。

立石の赤線のエリアは、実際に回ってみるとわかりますが、かなり狭いです。
ここで少し『全国女性街ガイド』について疑問が。こんな猫の額ほどのエリアに、「60軒」はわかるけど「約300人」はさすがに大げさではないかということ。
こんなとこに「300人」もいたら「人口密度」はものすごいことになり、窒息するのではないかと。客より女の方が多いんちゃうの?(笑
『全国女性街ガイド』だけではソースが貧弱なので、様々な方面の資料をあさってみた立石の女性の数の推移を見てみましょう。
こういう時、東京の赤線は便利です。残っている統計が他地方よりはるかに多い。

立石赤線の統計データ
▲昭和21年(1946)10月:75人
※昭和23年(1948):104人(業者数41軒)
☆昭和25年(1950):110人(業者数49軒)
●昭和26年(1951)5月:130人(業者数53軒)
▲昭和27年(1952)12月:131人(業者数51軒)
▲昭和31年(1956)12月:140人(業者数54軒)
◎同年:138人(業者数53軒)
▲昭和32年(1957)12月:121人(業者数49軒)

昭和30年(1960)約300人 業者数60軒 (『全国女性街ガイド』)
●:文化毎日新聞調査の数字
☆『モダン日本 臨時増刊 艶笑版』東都歓楽地一覧早見表から抜粋
▲警視庁調査より
◎『あざみ白書』(小林亜星氏の記憶より)
※ソース不明(調査ノートに走り書きしてたのですが、ソース元を書いていませんでした…)

立石の赤線区域に変化なしとしたら、立石の女のキャパはせいぜい130人前後だと思われます。昭和27年や昭和31年のデータ、そして流しのバンドマン時代に全国の赤線を渡り歩いた小林亜星氏の記憶と比べると、『全国女性街ガイド』の数字はいささかオーバーか、ただの誤植でしょう。「300人」は「130人」の誤植ではないかと推定してみます。

立石赤線成立の経緯

立石の赤線は、3月10日の東京大空襲で焼け出された亀戸私娼窟の業者が、新天地を求めて立石に集まり、焼け残った家を改造してそこで商売を始めた。そしてRAAを通して赤線になった。
これが定説になっています。
『赤線跡を歩く』にも、この説支持の前提で立石の歴史を記述し、『全国女性街ガイド』の原型とも言える『赤線涼談』という雑誌記事(著者は同じ)の注釈にも、「終戦の年の6月に」という記述があります。というわけで、昭和20年6月設立は間違いない…。
ところが、こんな資料もあったりします。

東京都接待業組合連合会というのは、戦時中新しくできた慰安施設の業者の集まりであった。
東京近郊の軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が立川、蒲田、亀有、立石、新小岩の工場地帯に新設させた慰安所である。
当局はこれを産業戦士慰安所と呼んだ。

『国策慰安婦をめぐる占領下秘史―敗者の贈り物

いつの時期かの記述はないですが、「戦争中」に立石に「慰安所」が出来ていたのか?
とは言っても、戦争中の「立石慰安所」と赤線につながるデータは存在しません。よってこれはイコールとは一概に言えないわけで、「慰安所」とやらが立石のどこにあったかということが一番の課題になります。
まあ、「慰安所」が「昭和20年6月に出来て」なら話の辻褄は合います。
せやけど、上述の『赤線涼談』は「軍人のための慰安施設」と書かれとるさかい、「東京近郊の軍需工場にかり集められた若い徴用工」のための「産業戦士慰安所」と矛盾が生まれます。
ちなみに、戦前からここに住んでいるという古老によると、立石の赤線はやはり「終戦直前」にできたらしく、それまではそんなもんはなかったと。そこは「謎」としておきましょう。

そして終戦、そのすぐに立石に闇市ができたそうで、それにつれて人も立石に集まってきます。人の集まるところ歓楽街あり、そして赤線あり。
立石の赤線はRAA、つまりアメリカの兵隊用の慰安施設となったのですが、とは言っても「バラックに毛が生えた程度」。
RAAがオフ・リミッツ、つまり「使用禁止」になってそのまま赤線へという流れは他の赤線と同じですが、立石は『モダン日本』によると「新興気分溢れる」雰囲気があったと書かれてます。戦後型の赤線のまだ作られて間もない、出来てすぐの新築マンションのような気分を味わえたようです。
また、「新地の案内灯が立って案内してくれる」という記述があり、駅前に「赤線はこちら♪」って案内があったのでしょう。果たして案内灯の色は何色だったのか、そこが気になります(笑

そして、『全国女性街ガイド』の記述に符号するように、「サービス自慢」と書かれています。
立石は新興の赤線、近くには鳩の街や玉の井など、知名度にかけては東京でもトップクラスの有名どころが君臨していました。新参者は老舗とは違った色、つまり差別化をアピールしなければ客が寄ってきません。古参と同じことしても、いくら需要があってもお互いの潰し合いのみ。赤線を経営学的に見るとそれは火を見るよりも明らか。
そこで、立石は細やかなサービスを持ち味にして、渡辺節でいう「捨て難い味」を武器にしたのかもしれません。

小林亜星氏の著書にも、立石はこのように記述されています。

入口には『立石カフェー街』と書かれた、ベニヤを貼り合わせたような柱が立って居り、門構え、庭付きの、一見、山の手風の新築アパートか、ウエスタン酒場風の店が多かった。

『軒行灯の女たち』より

やはり新興勢力らしい、初々しいというか新しい感を前面に出した赤線だったのでしょうか。

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