竜宮遊郭(京都府舞鶴市)|おいらんだ国酔夢譚|

京都府舞鶴市竜宮遊郭関西地方の遊郭・赤線跡
舞鶴赤レンガMAIZURU

日本海の天然の要港、そして軍港の町舞鶴。舞鶴市は「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」と3つの地域に分かれています。

西舞鶴が戦国時代から続く「旧市街」なのに対し、東舞鶴は明治時代になって海軍の鎮守府、つまり主要基地となってから発達しました。東舞鶴や中舞鶴地区には海軍の基地はもちろん、海軍関係の施設などが、建設開始から開港までの間に雨後のタケノコのように建設され、軍港として栄えることになります。

道は碁盤の目の如く整然と区切られ、道の名前には軍艦の名前が付けられていました。西舞鶴が良い意味で古い感じの町に対して、東舞鶴は垢ぬけてスッキリした街並みと感じる気がするのですが、それは町が生まれた変遷にもよるのでしょう。同じ舞鶴といっても由来は全く違うので、同じ「舞鶴」ながら全く別の町とも言えます。

今回は、東舞鶴にあった【海軍御用達】の遊郭のお話。

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竜宮遊郭の歴史

東舞鶴にあった遊郭は竜(龍)宮遊郭と呼ばれていました。『舞鶴市史』には朝代遊郭の設立時期は書いてあっても竜宮の方は書かれていません。が、朝代と同じく舞鶴鎮守府の開府に合わせて作られたのは、おおよその流れでわかります。

竜宮は海軍基地の間近に作られたこともあり、海軍を上客と見込んで作られたことは状況証拠だけでもほぼ確定、連日海軍の水兵や下士官で押せや押せやの大盛況でした。
開設当初は妓楼7軒のスタートだったものの(娼妓数は不明)、10年後の明治44(1911)年には貸座敷35軒、娼妓数150人と大増加。

竜宮遊郭は大正時代に入り更に活気を呈し、大正7(1918)年のデータでは貸座敷数40件、娼妓の数300人以上。『全国遊廓案内』にも、年代は不明ながら「貸座敷四十六軒あり、娼妓は三百四五十人も居た」と記されています。

舞鶴竜宮遊郭

それと同時期の舞鶴の地図によると、後述する廓の大通り沿いに「一京楼」や「田中楼」「金華楼」など、見る人が見るとなるほどなと頷ける妓楼の名前が並んでいます。特に、廓の端っこに見える「娼妓検査所」(性病検査を行う場所)は地図に記載されるとかなり生々しい。

竜宮遊郭の「海軍某重大(?)事件」

『遊郭をみる』という本には、竜宮遊郭に実際にあったという事件が書かれています。
上記のとおり、海軍の水兵で大いに賑わった竜宮でしたが、大正7年(1918)に水兵の間で遊郭ボイコット運動が起こります。
理由は「料金が高すぎる」ということ。
遊郭側も強気の対応で、海軍側の値下げ要求を突っぱねて対立。要求を拒否された水兵側は、ついに実力行使に移ります。何と11月に、遊郭の入口にバリケードを張り遊郭を封鎖したのです。
豊臣秀吉もビックリの「兵糧攻め」、客の出入りをストップさせたこの騒ぎは数カ月続き、結局は水兵側の全面勝訴になって料金値下げGETだぜになったそうな。

客は一重に軍人なのと、又営業の挽回策か、時間遊びが馬鹿に安く只の1円である

引用:『全国遊廓案内』より

と『全国遊廓案内』には書かれていますが、もしかして「竜宮遊廓某重大事件」が影響しているのかもしれません!?

龍宮遊郭の「その時歴史が動いた」

そんな龍宮遊郭の大きな転換点となったのが、大正12年(1923)のこと。
ロシアへの脅威に対し開かれた舞鶴鎮守府は、ロシアへの脅威がなくなった日露戦争以後は重要性が減少、軍縮条約によって鎮守府から「要港部」に格下げになったのです。

格下げということは、規模が小さくなり、そこに関わる海軍さんの数も少なくなる。よって、上客が少なくなる…遊郭にとっちゃえらいこっちゃです。

実際、その数年後のデータと思われる『日本遊廓一覧』には、貸座敷数34軒、娼妓数205名となり、昭和初期になると、貸座敷数31軒、娼妓数103名(内務省警保局内部資料より)と少し減少、昭和10年になるとさらに減少しています。

『全国遊廓案内』ではこの原因を、やはり軍縮の結果としています。竜宮遊廓は海軍とおんぶにだっこの関係、鎮守府→要港部に格下げされ上客の海軍さんの数が減少=客が少なくなったというのが主原因でしょう。

そんな竜宮遊郭も、昭和10年代の戦争による特需で一時は盛り返しますが、国民生活が圧迫されてきた昭和15(1940)年、海軍基地拡張という名目で山沿いにある「丸山」という地区に移転させられることになりました。


竜宮遊郭は、ここでひとまず終焉を迎えます。
立ち退きを食らった竜宮遊郭は、他の遊廓と同様に軍需工場の工員の独身寮になったと思われます。遊廓の妓楼は、部屋の大きさが独身寮の一人部屋には程よい大きさ。それが逆に軍需工場の寮として標的にされた原因の一つかもしれません。

そして戦後、丸山に強制移転させられた業者が、全部ではなかったそうですが、竜宮に戻りそのまま赤線へ。売防法施行まで残ったものの、海軍さんという上客を失った戦後は、かつての勢いを取り戻すことはなかった…と『遊郭をみる』は締めくくっています。

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コメント

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