京都府舞鶴市-竜宮遊郭

舞鶴の竜宮遊郭 関西地方の遊郭・赤線
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東舞鶴

注意本記事は、2010年10月に前ブログにアップしたものを、大幅リライトの上転載したものです。
情報が古い場合があるので、ご注意の程宜しくお願い致します。

舞鶴の遊廓を訪ねる旅第二弾です。前回は西舞鶴にあった朝代遊郭について書きましたが、今度は東舞鶴に存在していた遊里について。

前回も述べたとおり、舞鶴市は大きく分けたら「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」と3つの地域に分かれています。
西舞鶴が戦国時代から続く「旧市街」なのに対し、東舞鶴は明治時代になって海軍の鎮守府、つまり主要基地となってから発達しました。東舞鶴や中舞鶴地区には海軍の基地はもちろん、海軍関係の施設などが、建設開始から開港までの間に雨後のタケノコのように建設され、軍港として栄えることになります。
道は碁盤の目の如く整然と区切られ、道の名前には軍艦の名前が付けられていました。西舞鶴が良い意味で古い感じの町に対して、東舞鶴は垢ぬけてスッキリした街並みと感じる気がするのですが、それは町が生まれた変遷にもよるのでしょう。同じ舞鶴といっても由来は全く違うので、同じ地域にありながら全く別の町とも言えます。

 

舞鶴と肉じゃが

舞鶴鎮守府
京都府-総合資料館収蔵品展資料より)

明治34年(1901)舞鶴鎮守府が開府されたのですが、最初の長官はあの東郷平八郎。そして、その時に生まれたというある伝説があります。それが。。。

肉じゃが舞鶴

肉じゃがです。

日本人なら毎度お馴染みの国民食、おふくろの味の一つ肉じゃがは、ここ舞鶴で生まれたという伝説が残っています。
東郷が長官職に就いていた頃、イギリス留学時代に食べたビーフシチューを思い出し、部下にビーフシチューの美味しさへの熱弁を奮ったそうな。部下は長官の食事を作っていた料理長と「ビーフシチューって何じゃ?」と相談。
ところが、ビーフシチューに必ず必要なデミグラスソースなんてわからない。仕方ないので、醤油と砂糖ベースの味付けにした「なんちゃってビーフシチュー」を作りました。これが今の肉じゃがのベースと言われています。
これが意外に(?)美味かったことから海軍の正式な料理に採用、明治後期の海軍お料理レシピこと「海軍厨業管理教科書」にも、「正しい肉じゃがの作り方」なんてものが紹介されています。

肉じゃが舞鶴

まぁ~何と単純かつ豪快なレシピだこと。しかしながら、これが記録に残る最初かつ最古の肉じゃがのレシピなのであります。晩御飯何しよう?って悩んでいるそこの奥さぁ~ん、今日の晩御飯は「元祖肉じゃが」なんかどないでっか?(笑

この「肉じゃが伝説」、舞鶴が発祥ということで落ち着こうかと思ったところ、それに待ったをかけた街があります。それは同じ軍港の広島県は呉。
東郷は舞鶴の鎮守府長官の10年前に、呉鎮守府の参謀長(ナンバー2)として呉にいたことがあり、肉じゃがはそん時に生まれたものだというのが呉の主張。
ちなみに肉じゃが発祥のエピソードはどちらも同じ、何せ双方とも決定的な証拠がなく、今でもお互い「肉じゃがの生まれ故郷」を主張している状態だそうな。
横須賀が「カレーライス発祥の地」としてある意味成功している割には、舞鶴も呉も肉じゃがで町おこしなんてしておらず、横須賀みたいに「海軍肉じゃが専門店」が出来たら面白そうなんですけどね~
採算が合わないのかどうかは定かではないけれども、駅前の商店街が少し寂しげな所を見ると、良い起爆剤になると思うんやけどなと思うのですが…。

その昔、東日本某所出身の元カノが肉じゃがを作ってくれたことがありました。その肉じゃがの「肉」が何と豚肉。

「肉じゃがの肉は牛肉やろ~~!」

「うちじゃ豚だよ~~~!!」

とちょっとした「肉じゃが論争」になり、ある意味カルチャーショックを受けたことがありました。で、この「論争」の始末は、

「そんなにイヤなら捨てるね・・・(涙」

「あ~わかったわかった、食べますって~。だから食べ物粗末にするな!」

と食欲…もとい彼女の愛に負けました(笑

 

話が脱線しまくったので、遊郭の話に戻ります。

 

 

竜宮遊郭とは

東舞鶴にあった遊郭は竜(龍)宮遊郭と呼ばれていました。『舞鶴市史』には朝代遊郭の設立時期は書いてあっても竜宮の方は書かれていません。が、朝代遊廓と同じく舞鶴鎮守府の開府に合わせて作られたのは、おおよその流れでわかります。

竜宮は海軍基地の間近に作られたこともあり、海軍を上客と見込んで作られたことは状況証拠だけでもほぼ確定、連日海軍の水兵や下士官で押せや押せやの大盛況でした。
開設当初は妓楼7軒のスタートだったものの(娼妓数は不明)、10年後の明治44(1911)年には貸座敷35軒、娼妓数150人と大増加。

海軍は陸軍と違い、基本的には船の上が勤務地、海軍では伝統的に休暇のことを「上陸」と呼んでいました。これは現在の海上自衛隊でも同様です。
休暇=上陸は陸上勤務でも同じ。飛行場でも東京の海軍省でも、休暇は全部「上陸」で一般企業で言う「休暇申請」は「上陸許可」。
陸上勤務で「上陸」っておかしいだろうと思うでしょうが、これが伝統。飽くまで「我々の勤務は海(=軍艦)の上である」という海軍のモットーが現れている一面です。
少し生々しい話になりますが、鉄の城(軍艦)の中で何カ月も海に揺られていると、とにかく土と女がむしょうに恋しくなるらしいです。
月月火水木金金の洋上訓練が終わって港に帰り、陸地が見えてきた頃には、

もう”足3本”で立ってるようなもんだよ

という気分だったと。
我々「陸上生物」にはその心境が理解し難いですが、元船乗りにこの話をすると、

おおおお、めちゃわかる~!!

と爆笑していました。
上陸寸前になると、もういてもたってもいられず。上陸地の方も準備態勢バッチリ、水兵や下士官目当ての遊女が港に総出でお出迎えやったそうな。
「総員、要所要所洗え♪」
と上陸寸前に総員爆笑ものの号令を発した某艦長もいました。これはれっきとした命令、命令である以上これって公文書に文字として残ります。だからこそ公文書にも書きやすいように「要所」と表現したのでしょう(笑

そんなことはさておいて。
竜宮遊郭は大正時代に入り更に活気を呈し、大正7(1918)年のデータでは貸座敷数40件、娼妓の数300人以上。『全国遊廓案内』にも、年代は不明ながら「貸座敷四十六軒あり、娼妓は三百四五十人も居た」と記されています。

ある意味、これが竜宮遊郭の最盛期と思われます。何故かというと、ロシアへの脅威に対し開かれた舞鶴鎮守府は、ロシアへの脅威がなくなった日露戦争以後は重要性が減少し、大正12(1923)年に締結された軍縮条約によって鎮守府から「要港部」に格下げになりました。
その数年後のデータと思われる『日本遊廓一覧』には、貸座敷数34軒、娼妓数205名と減ってます。
更に昭和初期になると、貸座敷数31軒、娼妓数103名(内務省警保局内部資料より)と少し減少、昭和10年になるとさらに減少しています。『全国遊廓案内』ではこの原因を、やはり軍縮の結果としています。竜宮遊廓は海軍とおんぶにだっこの関係、鎮守府→要港部に格下げされて海軍さんがどっと減少=客が少なくなったというのが主要原因でしょう。

竜宮遊郭であった「海軍某重大(?)事件」

『遊郭をみる』という本には、竜宮遊郭に実際にあったという事件が書かれています。
上記のとおり、海軍の水兵で大いに賑わった竜宮でしたが、大正7年(1918)に水兵の間で遊郭ボイコット運動が起こります。
理由は「料金が高すぎる」ということ。
遊郭側も強気の対応で、海軍側の値下げ要求を突っぱねて対立。要求を拒否された水兵側は、ついに実力行使に移ります。何と11月に、遊郭の入口にバリケードを張り遊郭を封鎖したのです。
豊臣秀吉もビックリの「兵糧攻め」、客の出入りをストップさせたこの騒ぎは数カ月続き、結局は水兵側の全面勝訴になって料金値下げGETだぜになったそうな。

『全国遊廓案内』より「客は一重に軍人なのと、又営業の挽回策か、時間遊びが馬鹿に安く只の1円である」

と『全国遊廓案内』には書かれていますが、もしかして「竜宮遊廓某重大事件」が影響しているのかもしれません!?

 

そんな竜宮遊郭も、昭和10年代の戦争による特需で一時は盛り返しますが、国民生活が圧迫されてきた昭和15(1940)年、海軍基地拡張という名目で山沿いにある「丸山」という地区に移転させられることになりました。この丸山、後で出てくるので覚えておいて下さい。
竜宮遊郭は、ここでひとまず終焉を迎えます。
立ち退きを食らった竜宮遊郭は、他の遊廓と同様に軍需工場の工員の独身寮になったと思われます。遊廓の妓楼は、部屋の大きさが独身寮の一人部屋には程よい大きさ。それが逆に軍需工場の寮として標的にされ、戦争中に閉館になった原因の一つかもしれません。

そして戦後、丸山に強制移転させられた業者が、全部ではなかったそうですが、竜宮に戻りそのまま赤線へ。売防法施行まで残ったものの、海軍さんという上客を失った戦後は、かつての勢いを取り戻すことはなかった…と『遊郭をみる』は締めくくっています。

NEXT⇒竜宮遊郭跡を歩く。そして新事実が!

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