
阪和線の和泉砂川駅。
ここまで来ると大阪といってもかなりの南。和歌山県に片足突っ込んだ、静かな住宅地の町でもあります。
和泉砂川駅は、この駅舎の形に特徴があります。
阪和線はかつて「阪和電鉄」という私鉄だったのですが、この赤い屋根の駅舎は阪和線が私鉄だった頃そのままの姿を残しています。この特徴ある屋根の駅舎は、かつては阪和線の至る駅に残っていましたが、今は数えるほどになりました。
実は戦前に、この砂川に一大遊園地があったことをご存じでしょうか。

砂川遊園
と呼ばれたもので、別記事にて説明する砂川奇勝と共に、阪和電鉄が社運を賭けた(?)レジャーランドでもありました。
今回は、もう地元の人も知る人が少なくなった幻の遊園地のお話。
阪和電鉄の夢のあと-砂川遊園とは
大阪の僻地としての砂川が一変したのは、昭和5年(1930)の阪和電鉄の開通でした。

観光資源として価値があると踏んだ地元の地主と泉州の不動産屋と阪和電鉄が組み、砂川を観光名所として開発し、隣に別荘地や住宅地を造成しようと動き出しました。
目指すは「泉州の宝塚」。
近くにあった山中渓温泉とのコラボで、一大観光地として売り出す目論見でした。
この時期は、宝塚が歌劇団の成功などでひなびた温泉郷から脱出、リゾート地や高級住宅街として開発される姿を見て、砂川に第二の宝塚のにおいを感じたのでしょう。宝塚に続け!という声が、史料の隅から聞こえてくる気がします。
まずは「児童遊園」として昭和10(1935)年にオープンし、翌11年(1936)に「砂川遊園」として開業しました。

阪和電鉄時代の天王寺駅(阪和天王寺駅)の看板広告にも、「砂川遊園」の名前がはっきり写っています。
昭和11年(1936):32.9%
引用:『昭和初期における大都市圏郊外電気鉄道の遊覧地開発 阪和電気鉄道を事例として』貝澤 武史
昭和12年(1937):41.3%
昭和13年(1938):25.3%
昭和14年(1939):27.5%
昭和15年(1940):29.2%
阪和電鉄が砂川遊園にかなり期待をかけていたという、統計的な証拠が残っています。
オープンした昭和10年(1935)から昭和15年(1940)間の阪和電鉄の広告389点(住宅広告を除く)のうち、砂川遊園の広告が117点。全体の3割を占めています。
特に、春と秋に広告が集中しており、広告の数だけで、阪和電鉄が砂川に賭けた心意気というものが伝わってきます。
砂川遊園は屋外型行楽地なので、気候が良くお出かけ日和の季節に集客させよう、という戦略が見えてきます。阪和電鉄、ただがむしゃらにやってたわけじゃなかったのですね。歴史をまな板の上に乗せて客観的に見てみると、そうにしか見えなかったのですが(笑)
では、砂川遊園の経営が黒字だったのか赤字だったのかというと、詳しいデータは残っておりません。
駅。伝昭和11年.jpg)
ただし、上の写真のように、行楽シーズンになると、遊園地からの帰りの切符を求める客で和泉砂川駅の改札は大混雑。駅の入場制限も行っていたという話が、伝説として伝わっています。
砂川遊園はどこにあったのか?

昭和13年(1938)の砂川遊園のマップですが、これを元に現在のGoogle mapで見てみると、

…これではちょっとわかりにくいので、ちょっとした奇策を用いました。これならどないや!

Google mapを180度回転、逆方向にしてみました。すると、戦前の全景図と似た角度になり比較しやすくなります。
砂川遊園は、赤い線で結んだところにあったことがわかります。遊園の下にある池がそのままの形で残っているため、位置特定が容易でした。
砂川遊園の写真は、いくつか残されています。

子供向けの遊具や、

サル山もあったそうです。
砂川遊園の最期
阪和電鉄が、おそらく社運を賭けていたのではないかと思われる砂川遊園と奇勝ですが、ここが幻・悲劇の遊園地と呼ばれているゆえんは、大きなポテンシャルを持った施設ながら、オープン(昭和10年)から実質7~8年間しか稼働していなかったこと。
昭和12年に起こった支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉がところどころから叫ばれる時代となってきました。
「非常時」によるレジャー自粛の空気もある中、砂川遊園もだんだんと「軍国化」「全体主義化」していきます。

上に挙げた阪和電鉄時代の天王寺駅ですが、正面の砂川遊園の上に「挙って体位向上」という文字が見えます。
この時は「非常時」の掛け声のもと、頭脳明晰より体力旺盛の健康体がもてはやされ、男子はお国のために兵隊さんに、女子は立派な子どもを生むためにと体位(体格)の向上が叫ばれました。
話は少しずれますが、当時の情勢がわかる地元のお話を。
昭和15年、砂川遊園の近所にあった佐野町(今の泉佐野市)の大阪府立佐野実践女学校1の入試当日、受験番号が書かれた名札をつけた受験生がいくつかの班に分かれ、雑草が生えた運動場に集合しました。
校長先生が登場し、班を運動場に配分した後、

かかれ!!
という掛け声のもとにみんなで草むしり開始。
何の説明も受けていない受験生は、なんでわたしたち草むしりやらされてんの?と首を傾げながら黙々と草を刈っていましたが、これが実は「入試科目」だとわかると、みんな目の色を変えて必死になりました。
そう、この年のこの女学校の入試科目は「草むしり」のみ。頭脳など要らぬ、健康な「兵隊予備軍」を生む健康な身体の方が大和撫子として重要。スタミナはもちろん、効率的な草むしりやチームワーク、積極性が「入試問題」であり「合否基準」だったのです。
ウソのようなホントの、世にも奇妙な入学試験でしたが、これも時代ならではです。
そして同年12月、砂川遊園・奇勝を事実上経営していた阪和電鉄は、ライバル…もとい天敵の南海に吸収合併されます。

赤で囲んだ阪和の記事の横にある緑の「代用食」の記事が時代を感じさせます。もう「贅沢は敵だ」に入っていたのです。
阪和電気鉄道は「南海山手線」と改名されましたが、その後の砂川遊園はめぼしい広告もなく、存在感は徐々に薄くなってきました。
駅名も、昭和16年8月1日に「阪和砂川」から「砂川園」と改名されました。

昭和17(1942)年当時の南海山手線の沿線観光地案内ですが、経営は阪和電鉄から南海に受け継がれて「砂川園」と名前を変え、いちおうは存在していたようです。
「砂川遊園」がそれに含まれるのかは不明ですが、右となりの「さやま園」が狭山遊園地を指していると思われるので、おそらく遊園地を含めたものだと推定できます。狭山遊園地も名を変えていることから、戦争の非常時に「遊園地」とはけしからん!という、上からの指導(=圧力)があった可能性があります。

昭和17年から先は全くの白紙です。戦争とは言え、この白紙が砂川遊園だけではなく、日本全体の暗い時代を感じさせます。ここがイコール砂川遊園・奇勝の大きな謎でもあります。
この砂川遊園がいつ閉園したのか。「何年何月何日閉園」という確実な資料がいまだ発見されておらず明らかではありません。
そして戦争が激化した昭和19年(1944)、「南海山手線」は国有化され、阪和線となりました。。

砂川遊園の「花畑はいも畑になった」のですが、その貴重な写真です。
食糧が足らずみんなお腹をすかせていたこの頃は、「遊」なんて余裕は全くなく、本当に「生きるために食うのが精一杯」の時代でした。
ここで砂川遊園のミステリーが浮かび上がります。
阪和電鉄が「国鉄」となったことにより、阪和→南海のと所有が移った(はずの)砂川遊園と奇勝の所有権はどこへ行ったのか。
展示会には、かすかながらその間接的な記述がありました。
遊園の地主だった田中源太郎は、戦時中か戦後かは不明ながら遊園の土地を文部省に寄付しています。寄付とはなんだか引っかかりますが、それ以上の証拠がないので文字通り受け止めておきます。
その土地は戦後、信達村2に払い下げられていることは確認できました。
しかし、戦後になり復活しないままだった旧砂川遊園に、「遊具」が復活しています。

砂川遊園跡の遊具で遊んでいる昭和45年の写真です。
阪和電鉄が国鉄に吸収された後、砂川遊園は公式には復活していません。が、写真どころか映像にすら残っているので、誰かが復活されたのか!?そこあたりを示す資料はありませんでした。

展示会では、そこは何の説明もありませんでした。
奇勝の土地は、南海電鉄が1960年代前半まで所有していました。
が、いらない子扱いされたのか昭和37年(1962)、泉南市(当時は泉南町)に数百万円で払い下げ、町長が不動産業者に売却。
旧砂川遊園地の部分も昭和39年(1964)、泉南町が不動産会社に、二束三文で払い下げたと泉南市役所発行の広報誌に記載されています3。

昭和22年(1947)の航空写真を見ると、この時は遊園地の区画がまだはっきり残っています。
砂川遊園の案内にはなかった、本格的そうな陸上トラックもはっきり形になっています。航空写真でこれだけ残っているのだから、放置プレイのまま手付かずだったのでしょう。
砂川遊園あたりを拡大すると、この通り。

かなり本格的な遊覧地だったことがわかります。

しかし、昭和36年(1961)には痕跡すらなくなっています。どこに砂川遊園があったのかさえもわからないくらい、きれいに消えています。
砂川遊園の跡はいま
砂川遊園・奇勝跡へは、和泉砂川駅から山の方向へどんどん登っていくことになります。地図だけを見ると実感がないですが、実際に歩いてみたら駅前からいきなり上り坂、不惑の身体では上るのがけっこう辛いです。
で、ちょっと歩くと、


一つは埋め立てられるのか、既に干上がってしまっていたものの、道を挟んで両側に池がありました。

砂川遊園の中は、池があってボートで遊覧できるとか、子供向けの遊具とかもあったそうで、遊具は砂川遊園が消えた後も、子供たちの遊具として最近まで現役で使われていたそうです。
この2つの池も、砂川遊園の夢の跡だと思われます。
しかし、遊園の跡を留めるのはこれだけ。遊園の跡はすっかり住宅街になってしまい、残滓のようなものは全く残されていません。
砂川遊園とコンビを形成していた「泉州のカッパドキア」、砂川奇勝の記事はこちら!

砂川遊園のマスコットに使われた「あのキャラ」とは…