日本航空輸送研究所と大浜水上飛行場

堺大浜飛行場歴史探偵千夜一夜

大阪市の南にある堺市は、最近仁徳天皇陵が世界遺産に指定され盛り上がったことでもわかるように、その歴史は古墳時代にまでさかのぼる交通の要衝でした。

そんな堺が大発展したのは室町時代から。商業を中心とした自治都市として栄え、キリスト教宣教師に「東洋のベニス」と言わしめました。

堺は歴史的に「商業」のイメージが強いですが、一つの戦国大名並みに成長した堺の勢力が信長・秀吉・家康によって削られ、商人も全国に分散させられ弱体化しました。
両足をもぎ取られたかに見えた堺ですが、江戸時代には一変、工業都市として発展しました。

職人の町として脱皮した堺は包丁や線香、明治以降に鉄砲鍛冶からジェブチェンジした自転車などで、近代に入っても栄えました。
全国的に有名な企業も、堺が発祥だったり、現在でも本社を堺に置いていたりします。

堺発祥のものは、重箱の隅を突くとけっこうありますが、今回は堺市民もあまり知らない堺発祥の物語を。

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堺の民間航空への挑戦

アメリカのライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功したのは、明治36年(1903)のことですが、早くもその7年後の明治43年(1910)に日本に上陸します。

 

日野熊蔵飛行機

同年12月14日、日野熊蔵という陸軍大尉が代々木練兵場から離陸、50mほど飛行しました。その5日後の19日、フランス帰りの徳川好敏大尉が3000mの飛行に成功しています。
そしてその30年後には世界航空機史の傑作、ゼロ戦を作るこの進歩はすごいと思います。

翌年の明治44年(1911)に所沢に飛行場ができ、大正6年(1917)に羽田飛行場(今の羽田空港)が開港しますが、あくまで軍の利用に限られ民間での使用は閉ざされたままでした。

飛行機を民間利用しようという動きは、大阪から始まりました。
大阪に井上長一という人物がいました。「征空野武士」というあだ名で呼ばれた彼は、堺に日本初の民間航空会社である「日本航空輸送研究所」を大正11年(1922)に設立しました。

すぐに堺~徳島(小松島)の新聞・郵便、そして旅客航空輸送を開始しましたが、なぜ日本初の航空輸送が徳島、それも小松島だったのか。本人がこう述べています。

井上
井上

わし徳島出身だからw

故郷の徳島へ錦を飾りたかったのでしょうね〜。

飛行場(空港)と航空機の格納庫が堺の大浜にありました。

 

昭和4年堺市地図日本航空輸送研究所

昭和4年(1929)の堺市の地図で「日本航空輸送研究所」が確認できます。

 

日本航空輸送研究所大浜飛行場

戦前の昭和17年(1942)の航空写真でも、「日本航空輸送研究所」の格納庫が確認できます。

滑走路がないのに空港?と首を傾げた人もいると思いますが、最初の航空輸送は海軍から払い下げられた水上機を使ったものでした。平たく言うと、水の上が滑走路なのです。

 

日本航空輸送研究所大浜飛行場

堺市立図書館のデジタルアーカイブには、「大浜飛行場」と書かれた格納庫と飛行機の写真が写った絵葉書が残されています。

1922年日本航空輸送研究所大浜飛行場

1922年、ちょうど航空輸送が始まった当時のものと言われる写真です。右上に三角屋根の格納庫が見えます。

昭和4年(1929)には、「日本国際輸送株式会社・・・・という国営航空会社が設立されました。「日本航空輸送研究所・・・と名前が非常に似ているのですが、何の関係もありません。
あまりに名前がややこしい故に、「研究所」の方を昭和4年設立にしたりと、この2つを混同しているブログ記事もあります。しかし、株式会社と研究所の違いだけじゃあ仕方ない。

「株式会社」の方は親方日の丸のバックを利用し、当時としては画期的な国際線(東京~大連間)を飛ばしたりしていましたが、「研究所」の方は主に近距離線が中心でした。

ちなみに、「株式会社」の方は事実上の国営なので今のJALのご先祖様と思われがちです。そのJALの公式な設立は戦後となっており、直接のかかわりはないというのが公式回答です。

また、昭和4年(1929)に木津川河口に飛行場(木津川飛行場)も完成し、航空時代の幕開けがすぐそこまで迫りつつありました。

 

民間航空の終焉

曲がりなりにも空港もでき、高価ながら旅客・貨物航空輸送もようやく軌道に乗り始めた頃、不幸にも支那事変(日中戦争)による「非常時」の声や、国家総動員体制による航空産業の圧迫が始まりました。

旅客輸送は「ガソリン一滴は血の一滴」「贅沢は敵だ」の掛け声のもと縮小させられ、貨物輸送も軍事優先となりました。

そして昭和14年(1939)、日本航空輸送研究所は国営の大日本航空に、航空産業整理の名の下に合併させられ解散、民間航空輸送の歴史は18年で幕を閉じました。

井上は無念だったか、

井上
井上

18年の光栄ある日本航空輸送研究所の無に帰することは愛児を葬る日のごとき惜別の情がひしひしと胸底を往復し、一抹の悲哀は事業の終末の挽歌と思える。

という言葉を残しています。

さて、その後の井上は、航空業界はどうなったのか!次をクリックしてね!

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