日本航空輸送の魁!日本航空輸送研究所と大浜水上飛行場

堺大浜飛行場堺の歴史
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忘れ去られた神社

大浜の片隅には、ここが日本民間航空発祥の地だったことを示す、唯一の遺構のようなものが残っています。

 

船待神社御旅所地図

ヨットハーバーの端に、「船待神社御旅所」というところがあります。大浜飛行場や日本航空輸送関連の情報をググってみると、「船待神社」というキーワードがちょくちょく出てきます。

 

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が、「船待神社」をGoogle mapで調べると、「御旅所」とは真逆の方向にある船待神社を指します。実際に訪れる方はご注意下さい。私も、あやうく「逆の方」に行きそうになりました。

 

大浜のヨットハーバー日本航空輸送の跡

現在の出島は漁港というよりヨットハーバーとなっており、至って静かな港となっています。

 

船待神社御旅所への道大浜ヨットハーバー

御旅所へと続く道です。土日だからなのか、それとも土日なのになのか、人が一人もおらず少なからぬ寂しさを感じました。ゴーストタウンならぬゴーストハーバーかよと。

 

出島漁港水がきれい

少しビックリしたのが、海水が予想外に透明だったこと。
ここはかつて遠浅の海岸だったことはすでに述べました。遠浅の海岸は大きな船を着けるには不適なものの、海水浴場としては理想の形。ここから少し南にある「浜寺」は、東洋一の海水浴場と呼ばれた一大リゾート地で、夏には関西中から海水浴客が殺到していました。

 

戦前の堺の海岸

飛行場あたりが埋め立てられる前の、堺の海岸の写真です。

 

 

大正時代昭和初期堺海岸潮干狩

潮が引けば、このように潮干狩も行われていました。
現在は埋め立てられて跡形もなく、私の世代には「むかしむかし、あるところに」の日本昔ばなし扱いですが、両親はリアルに泳いでいた世代でした。その両親に昔の話を聞いたことがあるのですが、戦後はお世辞にも水がきれいだったとは言い難かったそうです。オヤジは男なのでそんなの没問題だったそうですが、女の母親は、あんなきちゃないところで泳がれへんかったわと申しておりました。
それが記憶の片隅に残っているだけに、意外にきれいやんか…と思ってしまったのです。季節が真夏だったら、ヒャッハーと海に飛び込みたいくらいです。
埋め立てにより海水浴場がなくなった結果、人が水に入らなくなり、工業排水や下水の処理も発展した今、かつてはきれいとは言い難かった海が浄化されていっているのかもしれません。

 

堺市船待神社御旅所鳥居

堺市船待神社御旅所

埋立地の端にある、御旅所です。
歴史があり由緒ある神社とは違い鳥居も鉄筋コンクリート製で、血が通っていない無機質な感じがしました。

 

堺市船待神社御旅所航空輸送発祥の碑

神社の片隅に、「日本航空輸送発祥の碑」が残っていました。自然石に文字が刻まれ、海を背にして建てられています。

碑の左右には黒い石版があり、左側には以下のように書かれています。

大正十一年六月四日この地に日本航空輸送研究所を設け日本最初の定期航空を開始し二十有余年航空路開拓の貴き犠牲となられた翼友の芳名を刻み冥福と加護を祈る。
昭和三十四年六月再建 勲六等井上長一

この碑は昭和34年、自分が作った極東航空がANAになった後に作られたことがわかります。
また、碑の右側には航空輸送に貢献したと思われる飛行士の名前が刻まれています。上の言葉から、職務中に殉職した人の名前なのでしょう。

 

ここには、「航空輸送発祥の地」の碑の他にも、ほのかな謎の碑があります。航空輸送の碑をブログなどで書いた人たちも、気づかなかったか、それとも敢えて記載しなかったのか、誰も書いていない。

船待神社御旅所にある支那事変記念皇國萬歳という碑

それがこれ。逆光なので見づらいと思いますが、

「支那事変記念」

「皇國萬歳」

と書かれています。
支那事変とは日中戦争のことで、昭和12年か13年に作られたものと推定されます。
これ自体は特に珍しいものではないのですが、御旅所がある地は戦後に作られた埋立地。明らかに戦前に作られたものが、なぜ戦後に作られた土地に存在しているのか。

どこからか移転されたものかもしれません。しかし、移転するにしてもこれも移転する必要があったのか。私の推定ですが、御旅所は元々違う場所、大浜飛行場の近くの海沿いにあり、戦後埋め立てられた時にここに移転したのではないか。そうでないと、「支那事変記念」の碑の説明がつかないのですよね。

ここに来て真っ先に感じたのは、御旅所のあまりの荒廃ぶり。

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訪れる人も、清掃する人もほとんどいないのでしょう、御旅所は荒れるに任せています。このまま放置プレイだと、おそらくあと2~30年後には草で覆われ容易に人が近寄れない林になっているんじゃないですかね。

高速道路を走る車の音と、風の音、そして波の砕ける音以外は何も聞こえない静寂が、余計に寂しさを引き立てています。

ここで一句。

寂しさや草の紅葉に碑が一基

 

おまけ

ひと仕事終え、大浜飛行場跡の最寄り駅である南海電鉄湊駅前をウロウロしていると、こんなローカルな場所に似つかわしくない建物が。

 

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明らかに大正末期~昭和初期に関西で流行った、中流~中の上家庭向け邸宅です。

 

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こちらはリフォームされていますが、玄関の作りや古風な鎧戸など、家の輪郭はかなり古いと感じました。

で、なぜこれらの建物が「似つかわしくない」のか。

堺は戦争中、米軍の「焼き払うべし都市100選」の24位に選ばれ、昭和20年3月から7月にかけて集中的に空襲を受けた結果、市街地はほぼ完全に焼き払われています。堀に囲まれた市街の「焼け野原率(?)」は確か9割超え。

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終戦から約1年後の昭和21年(1946)6月の堺市中心部の写真ですが、「焼失」というより「消失」。不謹慎な表現ですが、ここまで見事に焼けると逆に気分さっぱりと感じてしまうほどです。

では湊駅前あたりはどうだったのか。空襲の被害をかなり受けているはずなのですが…。

 

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湊駅の北は空襲の被害を受けていますが、駅周辺はギリギリセーフで焼失を免れている模様。
上にも書いたとおり、戦前のここあたりは遠浅の海岸が目の前に広がるリゾート地でした。当然、大気汚染もほとんどなく環境も良かったので、病気療養の別荘地としても最適でした。
おそらくこれらの邸宅は、浜寺などの高級住宅街に対し、大正時代に普及した月賦(住宅ローン)でサラリーマンが購入できた中級所得者向けの住宅だったのでしょう。

こういう洋風、または和洋折衷建築探しにも、ここあたりは最適です。こういう建築が好きな人は、一度ゆっくり回ってみると興味深いと思います。

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