日本航空輸送研究所と大浜水上飛行場

堺大浜飛行場堺の歴史
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 戦後の復活。そして…

戦争が終わり平和な世の中が訪れると同時に、井上のチャレンジが再び始まりました。

敗戦後は一時期、GHQによって民間航空会社の設立を封印されていましたが、サンフランシスコ講和条約による独立後、井上は「極東航空」という航空会社を設立します。極東航空は大阪を拠点に西日本方面への航空便を充実させ、航空業界のガリバー日本航空に真っ向から挑戦します。

同年、東京では極東航空に1日遅れて「日本ヘリコプター」(通称日ペリ)という会社が設立されました。名前はヘリコプターですが、航空機産業にも進出していたので事実上の航空会社です。縄張りは東日本でした。

その後の民間開放で雨後の竹の子のように航空会社が作られ、青木航空、中日本航空、日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空など16社にもおよびました。

航空会社戦国時代の幕開けとも言えるこの時期、日ペリと極東航空が一歩抜きん出ていましたが、それでも極東航空は「極道航空」、日ペリは「日減り」と新聞に揶揄されたギリギリの経営でした。

その後、運輸省の仲介でこの両社が昭和33年(1958)に合併し、「全日本空輸」が誕生します。全日本空輸略して全日空、今はANAの方が通りがよいかもしれません。わかりやすいのと、全日空と入力しようとするとキーボドを叩く指が絡むので、以後ANAとします。

ここで小噺を。

弟子
弟子

すんまへん師匠、予約いっぱいで年末の航空券取れまへん!

師匠
師匠

お前取れる言うたやん!だから早よ予約しとけ言うたやろ!

弟子
弟子

はい、恥ずかしくてANAがあったら入りたいでごJAL

ちなみに、航空会社にはそれぞれ世界共通のコードを持っています。
JALのコードは「JL」ですが、ANAは「NH」。NHって一体なんじゃ!?と私は長年不思議だったのですが、同じことに疑問を持っていた人も少なくないと思います。

このNH、日本ヘリコプターの略だったのです。

 

大浜飛行場の場所は?

「日本航空輸送研究所」の場所について、ネット上のあるサイトにはこう書かれています。

「大浜飛行場があったところ、今は漁港とヨットハーバーになっている」
堺意外史様より

他のサイトも、Wikipediaも含めこれに右に倣えか同様の記述が続きます。しかしながら、私は堺で生まれ育った人間として、これにすごく違和感を感じるのです。それはなんかちゃうやろと。

 

昭和21年。日本航空輸送研究所格納庫と大浜飛行場

もう一度航空写真で見てみます。今は上の写真の海の部分が埋め立てられていますが、当時はご覧のとおり海岸(海水浴場)でした。

この場所を今の地図に当てはめてみると。

f:id:casemaestro89:20171217122737j:plain

こうなります。黄色の丸が少し見にくいかもしれませんが、ご了承を。

航空写真の横を走っている大阪府道204号線(いわゆる「旧26」)の道筋が昔と全く変わっておらず、場所特定は容易でした。

飛行場があったとされる大浜漁港とヨットハーバーは、

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今昔マップより)

赤丸が同じ位置を示していますが、思い切り海の向こうです…。
右の阪神高速湾岸線がほぼ昔の海岸線に沿っているので、それより左側はすべて海となります。水上機が着陸していたとは言え、出島漁港を飛行場跡とするのはちょっと無理があるんじゃないかと。もしかして、今の海岸線=昔の海岸線とでも思ってたのかな!?

百歩譲って✕ではないにしても、をつけるのも抵抗を感じる。こうして比較してみると私の違和感の理由がわかっていただけたと思います。

お次は、堺の片隅にひっそり残る記念碑のお話!

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