共楽園-帝塚山にあった幻の遊園地

帝塚山共楽園万代池大阪史
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帝塚山

帝塚山。この地名に上品さを感じる人も多いと思います。
「帝」という文字がついているだけで、えもいわれぬ高級な気品が字から醸し出される、大阪市南部の住吉区にある高級住宅街は、近代に入り現在の阪堺上町線が開通したことによって交通アクセスの利便さから、ここに住宅街を作ろうというプロジェクトが始まりです。
当時、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれ工業化が進んでいましたが、工場から出る煙害に悩まされ、富裕層は新しい住の環境を求め郊外へと居を移していきました。
その受け皿の一つとして開発されたのがこの帝塚山。大正2年(1913)から船場の商人向けに住宅開発が開始され、その後彼らの要望で子女が通う学校(帝塚山学院)や、当時としては女子大のコンセプトで設立された府立女子専門学校1や旧制中学2も帝塚山に作られ、文教地区としての顔もありました。

コンビニがない、いや反対運動が起こって作れないほどの高級さをキープしている帝塚山ですが、そのシンボルと言えるものがあります。

帝塚山のシンボル万代池。読みは「まんだいいけ」「ばんだいいけ」どちらもOK。閑静な帝塚山地区の憩いの場として、地元の人が集まる場ともなっています。
この万代池、一説によると古墳のできそこないとも言われています。帝塚山には、地名の由来となった帝塚山古墳がありますが、万代池も古墳の一つか、途中まで作られたが放棄されたものと。ググっても出て来ない情報ですが、地元資料に書かれていた万代池伝説の一つです。

そんな万代池の傍らに、かつて「遊園地」があったことは、案外知られていません。その名は「共楽園」。

共楽園とは

私がここの存在を知ったのは、ただの偶然でした。
戦前の大阪市内の地図をなにげなく見ていたところ、帝塚山に「未確認物体」を確認しました。

万代池と共楽園

万代池のところに見たこともない文字が…「共楽園」って何じゃ!?
私も歴史探偵のはしくれとして、大阪、この区域の地図は何十回も見てきたつもりでした。が、その何十回目にしてはじめて「共楽園」の文字に気づく始末。嗚呼自分の目は今まで節穴だったのかと嘆かざるを得ません。

この共楽園とは一体何なのか。それを端的にあらわす文章を引用します。

万代池の東側には共楽園があった。(中略)柵内には、食堂、プール、金魚すくい、ローラースケート場、その他各種遊具が設備され禽鳥も飼われていた。

『帝塚山風物誌』庄野英二著 より

帝塚山に住み帝塚山を愛した学者で、帝塚山学院大学学長でもあった庄野英二のエッセイ『帝塚山風物誌』に書かれた共楽園の概要です。
大正13年(1924)7月に開園した共楽園は遊園地か有料の公園のようなもので、入場料は10銭、15回分の回数券(1円)もあったそうです。
庄野が書いた設備の他にも、図書館や魚釣り場などもあったと別の資料には書かれています。他にも「動物園」と書かれた資料もありますが、庄野は「禽鳥」と書いており、おそらく檻に入った鳥のコーナーがあったのだと推定されます。

共楽園のいちばんの設備は、プールでした。
大人用と子供用の大小二つあったとされ、大人用は35メートル、深さは1.5メートルより3メートルまでの自然勾配式。子供用は20m、深さは50cmと80cmの2段階式でした(『大正大阪風土記』より)。
が、『帝塚山風物誌』には以下のように書かれています。

プールの長さが三十三米という中途半端なもので一往復半泳いでも百米に一米足りなかった。

『帝塚山風物誌』より

私が見た限り共楽園についていちばん詳細に書かれた『都市文化研究24 帝塚山歴史探訪-万代池』も、庄野の文を引用したか33メートルとしていますが、たった2mながらどっちが真実はわかりません。2mの違いなんかどうでもええやんと。しかし今回は、「長い夏休みに一日も欠かさずプールに通った」という庄野説を採ることにしましょう。
今でこそ公立学校には当たり前にあるプール。しかし当時は非常に珍しく、大正5年(1916)の茨木中学(現茨木高校)に設けられた日本初の学校プールと、大阪市立市岡運動場の他には見ることのないものでした。
共楽園が出来た当時、帝塚山はまだ大阪市住吉区ではなく東成郡の一部でしたが、翌年市内に編入され、市内南部では唯一のプールとなりました。そのため、夏になるとプール目当てに連日大人子ども問わず大繁盛したそうです。

万代池と共楽園

昭和3年(1928)の大阪市航空写真による、共楽園唯一の写真です。真ん中にある池が万代池で、その東(右)側にあるのが共楽園です。その対岸にある建物は、大正14年(1925)に設立された大阪女子専門学校です。
大阪市立中央図書館の司書さんによると、共楽園内部の写真はありそうで残っておらず、たまにレファレンスで問い合わせがあるのでひととおり探すものの、やはりないとのこと。

帝塚山万代池共楽園

写真をアップしてみると、南側にプールらしき長方形のものが見えます。その北側には庭園らしきものも見えます。共楽園の敷地案内のようなものも残っていないようで、すべては「そうじゃないのかなぁ~」という推測に過ぎませんが。
こんな遊園地が、帝塚山の真ん中にあったとは、今ではあまり信じられません。

庄野英二は、こんな事も書き記しています。

現在ボート小屋があるあたりからまっすぐ東へ渡し船を往復さすことにした。太い針金を張り渡して、その針金を引っ張って進む仕組みであった。(中略)そのうちにその針金は鋼鉄のワイヤーに改められ、船も特別製のボートになった。三十名位の定員であったがもっと乗ることが出来た。
船の中央の舵にハンドルがつけてあって、そのハンドルを廻してワイヤーをたぐって航行するように改良されていた。共楽園へくる客は往復無料でこのボートに乗ることができて、それも楽しみの一つであった。

『帝塚山風物誌』より

帝塚山の西側から共楽園へ向かう時、万代池が天然の要害として立ち塞がります。池の向こうには共楽園があるのに、行くには池をぐるっと半周以上しなければならない…夏場はそれだけでバテてしまう…。
そんな人のために、池を横断するボートを運行させていたというわけです。
庄野英二には潤三という弟がいたのですが、彼も随筆で「共楽園へ行くのに、万代池のこちらの岸から渡し船が出ていた」と文に残しています3

上に挙げた昭和3年の航空写真には、あるものが写っています。

万代池と共楽園

写真を凝視しないとよく見えませんが、黄矢印の部分にうっすら~と東西にまっすぐ何かが伸びています。その端(ピンク矢印)には船着き場のようなものがあり、東側は共楽園に接している…。これ、『帝塚山風物誌』に庄野が書いた船と鋼鉄のワイヤーのことではないのか。
これを見た時、自分でもかなり興奮しました。庄野英二が書いていた風景が航空写真に残っていると。古文書に書いていたとおりに遺跡があったと息が荒くなる考古学者の気持ちがよくわかります。
ちなみにこれ、橋ではありません。後述しますが、万代池に橋が架かるのは昭和15年(1940)のことです。

さて、こんな遊園地を作った人物は誰なのか。それがかなり意外性のある人だったりします。

NEXT⇒共楽園を作った人物
  1. 戦後の大阪女子大学。2014年大阪府立大学に吸収され廃校。
  2. 現在の府立住吉高校
  3. 『ワシントンの歌 第三回』(『文学界2006年3月号/60巻3号』)より
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