戦前の大阪湾沿いには、短期間ではありましたが「北港潮湯」という現在のスーパー銭湯のような施設がありました。
海水を沸かしただけの単純な施設でしたが、大阪では昔から潮湯に浸かる習慣があったのと、海水浴場とセットにすることによって集客力を増すことによって受け入れられました。
「北港潮湯」があったのは現在のUSJのすぐ北、現在の此花区でしたが、その向かい側、港区の大阪港にも潮湯レジャーランドが存在していました。こちらは比較的有名なので、知っている人や聞いたことがある…という人は多いと思います。
大阪港にあった「スーパー潮湯」
(『大阪港のあゆみ』より)
その名は「築港大潮湯」。
築港(大阪港)周辺は、江戸時代には天保山が行楽地となっていましたが、明治36年(1903)に市電が築港まで開通したことにより、大阪の新開地として娯楽施設が建設されました。
その一つが築港大潮湯で、大正3年(1914)にオープンしたその施設は、ただ海水を沸かしただけの施設ではありませんでした。浴槽だけでも海水だけでなく、真水に温泉と様々な種類を用意していました。
こちらが全景となります。下に説明があるように、左側が本館、右手が新館となっています。
築港大潮湯は、築港(大阪港)のどこにあったのか。
ちょっと…どころか非常に珍しい写真を。
この世で唯一の築港大潮湯を真上から写した航空写真です。黄色で書いたものが、現在の目印になる施設・建物です。こちらでだいたいの場所はわかったでしょう。
航空写真をアップすると、上の全景と併せると、写真のままの形だということがわかります。
『大阪春秋』の港区特集には、「30馬力のモーターで1日約200万リットルに及ぶ海水を汲み上げ、滝にして落とすプール」もあったという記述もありますが、
おそらくこの絵葉書がそれだと思われます。上述の絵はがきから、こちらは旧館の方になります。
また、『炎の人森口留吉・増太郎』という本にはこのような写真もあります。同じ「築港潮湯の滝」とありますが、どうも背景が違います。こちらは新館の方ではないかと推定しています。
築港大潮湯がただのスーパー銭湯ではないゆえんは、他にもあります。休憩室で演劇や映画も中で見ることができ、のちに出来る新館には百畳もの大広間を設け、宴会や宿泊もできる大設備をも備えていました。もはやスーパー銭湯を超えた「総合レジャーランド」です。
(『炎の人森口留吉・増太郎伝』より)
こちらが潮湯内にあった売店です。
至れり尽くせりの築港大潮湯のとどめはこちら。
(『大阪港のあゆみ』より)
本館にあった納涼台です。潮湯から大阪湾へは目と鼻の先、ひとっ風呂浴びた後の夏の潮風はさぞかし気持ちが良かったことでしょう。
一日中いても十分遊べるこんな設備が、入場料30銭(子どもは半額)1さえ払えば1日中利用できるとあって、夏冬問わず大盛況だったと言います。
築港(港区)には、のちに「港劇場」や「市岡パラダイス」、そして遊里の港新地などの娯楽施設が完成しますが、いずれも大正末期~昭和初期の話。築港大潮湯はパイオニア的な存在でした。
実際、大正15年(1926)発行の『大阪風土記』の築港大潮湯の紹介には、
(潮湯が)開かれた時分には、築港の街が今日の如く繁栄していない寂しい状態であったから、市の中心部から遠く離れたかかる場所で、こうした娯楽施設を経営して行くことは、極めて難事であったに違いない
引用:『大阪風土記』
引用:『大阪風土記』
と書かれており、「繁盛しているのは経営者の不断の努力があってのことだろう」と文を締めくくっています。
では、その経営者とは誰か。
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