築港大潮湯-大阪の起業家が興した大正時代のスーパー銭湯

築港大潮湯大阪大阪史
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潮湯を作った男-大阪の風雲児森口留吉

築港大潮湯の仕掛け人は、森口留吉という人物。築港大潮湯も森口の個人経営でした。
森口は明治8年(1875)12月、河内国志紀郡田井中村(現在の八尾市)に生まれました。
生家は非常に貧乏だったらしく、あまりに貧乏だったが故に、留吉の父が縁起をかつぎ姓を森口に変えたほどでした。しかし貧乏は改まらず、留吉は十三歳で大工修行に入りました。

森口は、豊臣秀吉を理想の人物としていたようで、

森口
森口

太閤さんのようにデカいことやらなあかん!

というのが口癖でした。彼の伝記を書いた松本栄太郎は、彼を「炎の人」と形容した天性の事業家でした。
その言葉どおり、大工の枠をはみ出して土木建築業や銭湯経営にも乗り出していましたが、関西に興った「スーパー銭湯」ブームに、一世一代の「デカいこと」に乗り出しました。それが築港大潮湯でした。

建築工事の際に出る木くずや廃材がもったいない、これを再利用する手はないだろうか…彼はそれを浴場の湯沸かしに使用します。今も昔も燃料費が銭湯経営をかなり圧迫するほどの出費です。が、こちらは自分の事業で起こした廃材だから、燃料費はほぼ自給自足のタダのようなもの。自分の事業コンボで倍々ゲーム。こりゃ森口さん、ええ商売してまっせ。

そんな森口の商売と潮湯の繁盛っぷりを指でくわえて見ていた、ある若者がいました。
彼も産業界に進出したばかりの新進気鋭の青年実業家でしたが、今をときめく起業家の先輩である森口から商売の秘訣を学びたいと自宅に招待。森口も快諾しました。

彼らが具体的に何を話したのか、それは伝わっていません。ビジョンの違いから気は合わなかったとする人もいます。が、森口の垢は少し煎じて飲んだと思われる青年実業家は、「大衆の生活レベル向上」をモットーにし、現代につながる大会社を築き上げました。彼の名は…

松下幸之助

松下幸之助
写真は1929年の頃のものですが、森口に頭を下げた若き時も、こんな姿だったのだと思われます。

関東大震災と築港大潮湯、そして留吉

関東大震災

大正12年(1923)9月1日、東京で関東大震災が起こりました。関東の地震だから大阪は関係な…とお思いでしょうが、実は地震計で震度4を記録しています。
といっても、人的・物的被害はほとんどなかったので、関西、特に大阪が被災者の受け入れ口となりました。文豪谷崎潤一郎が、震災を機に関東から関西へ移住したことは有名です。

そんな中、関一大阪市長(当時)が森口のもとを訪れます。

関は開口一番、結論から切り出しました。

関市長
関市長

潮湯を被災者収容所として開放してくれないか

人情あふれる森口は、よっしゃ!と一発快諾。それも貸し出し期限は「お気の済むまで」、つまり状況が落ち着くまで。百畳から三八〇畳に拡大されていた大広間を含めた新館は、関東から運ばれてきた被災者の収容所となりました。

築港大潮湯関東大震災森口留吉 築港大潮湯関東大震災森口留吉
(いずれも『炎の人森口留吉・増太郎伝』より)

森口のすごいところは、建物を二つ返事で市に貸しただけではありません。収容者の賄いもすべて引き受け、森口本人もその手伝いをしたそうです。
この大盤振る舞いに、後日、関市長が自ら収容所と化した新館を訪れ、心からの感謝を伝えています。

震災の混乱も落ち着いた大正15年(1926)、留吉は一世一代の大バクチを行います。

なんと、築港大潮湯を売却してしまったのです!

既に前年には新館の一部を、貸事務所として大阪市に寄付してしまったのですが、留吉には何か・・が見えたのか、まるで捨てるように、潮湯の事業も神戸の汽船会社に売ってしまいました。

そして、それが何と…結果的に吉となることに。それは後述します。

その後の事業

潮湯を売却といっても二束三文で売ったわけではなく、莫大な売却金を手にした留吉は、それを元手に新たな事業へと乗り出しました。

阿倍野冨士屋森口留吉

森口留吉冨士屋
(いずれも『炎の人森口留吉・増太郎伝』より)

昭和3年(1928)、彼は阿倍野に『冨士屋』という大レストランを開業しました。場所は現在の天王寺駅の北隣、阪和電鉄(現JR阪和線)の駅舎と道を隔てた向かい側にありました。

ツイッターのフォロワー様提供
阪和ニュース

JR阪和線の前身、阪和電鉄が発行していた『阪和ニュース』にも、『冨士屋』の広告が登場しています。広告からも3階建てという構造がわかります。左端に「新一力」とありますが、ここは明治末期に夏目漱石も訪問しその大きさに驚いた浜寺公園の大料亭でした。森口はここも買収しています。

今でこそ阿倍野といえば日本一の高さのあべのハルカスやキューズモールなど、集客力のあるショッピング設備が目白押しですが、この当時の阿倍野は、何もないとは言い過ぎですが、大鉄(現近鉄南大阪線)が開通したばかりで、ようやく市街地化されてきた土地。当然、当時は近鉄百貨店なんかあるわけがない(ただし、「大鉄アーケード」という大鉄直営の小商店街ならありました)。
留吉の商売のモットーは、築港大潮湯の前の銭湯経営からですが、中・長期的に見て必ず発展する場所に店を作ること。
彼が目を付けた土地の一つに、美章園があります。JR阪和線の天王寺の次の駅ですが、留吉はここは絶対に発展する!と土地を買い、自宅もここに構えます。

美章園温泉
(『炎の人森口留吉・増太郎伝』より)

銭湯としては日本で二番目に登録有形文化財に登録され、近代建築や銭湯マニアには超有名だった美章園温泉も、美章園は必ず発展すると踏んだ彼の手によるものでした。残念ながら2008年に解体されてしまいましたが、12年前まで残っていた森口留吉の唯一の「遺産」でした。(解体前の美章園温泉の内部はこちらをどうぞ

しかし、彼のすごいところはここから。彼が買った土地は、自由に使ってくんなはれと阪和電鉄に寄付してしまいます。さ私欲より公を重視した森口の哲学でした。

で、築港の次は阿倍野というわけで、ここに木造三階建ての大食堂を造り賭けに出ます。
この賭けも結果的には当たり。その商売の身軽さ、まるで越の勾践の如し。

しかし、留吉の運も尽きたか、一人の商売人の力ではどうすることもできない政治の力学が日本をあらぬ方向へ導き始め、事業は頓挫。食糧不足の中、食い物屋はいちばんのダメージを受けましたが森口もダメージを受けたらしく、昭和20年(1945)、失意のうちに世を去りました。同時に『冨士屋』も歴史の大河の底に沈むこととなりました。

…と思ったのですが、フォロワーさんのあるツイートが私の「おや?」に触れることに。

そういえば、あべちかにそんな店あったよな…。そこで私の新たな調査が始まりました。

冨士屋

森口産業ホームページより)

調べてみると、森口産業の前身森口商事は昭和37年(1962)設立、留吉・増太郎の子孫の方の経営には間違いないでしょう。
しかし、気になることが。
息子の増太郎は留吉の背中を見て商売を学んでおり、『冨士屋』を開業した時は一人前の二代目として第一線に立っていたはず。戦後すぐに父の後を継いで事業を行ってもおかしくない。少なくても、留吉の死後から17年のミッシングリングが存在する…それに、現『冨士屋』があの『冨士屋』がルーツなら、昭和37年創業ではなく昭和3年創業としても良いのではなかろうか(私ならそうする)。ここが私の喉元にグサリと引っかかっています。
誰か森口産業さんに聞いてみないか?というか関係者の方、このブログ見てたらこっそりメール下さい(笑

大潮湯の終焉

築港大潮湯の話に戻ります。

森口の手から離れた築港大潮湯は、その後もレジャーランドとして繁盛を続けたそうですが、昭和9年(1934)9月21日、やはりやつ・・が大阪に現れます。
北港潮湯の記事で説明したとおり、現在でも日本史上最強、いや最凶の呼び名の高い室戸台風が大阪を直撃、東日本大震災の津波クラスの高潮(約5m)により大阪湾沿岸は文字通り壊滅しました。

築港大潮湯も、港区のHPや『港区史』によると高潮の直撃を受け、築港地区ごと壊滅したそうです。そういう意味では、森口留吉が潮湯事業を手放したのは「神判断」だったでしょう。今となってはわかりませんが、彼はもしかして、台風による被害を予想していたのか!?

その後も築港大潮湯は営業していたのか、昭和14年(1939)の大阪市の地図には「築港潮湯」として記載はされています。が、本当に営業していたかどうかは定かではありません。

港区のHPには、こんなことが書かれています。

残った建物は、第二次世界大戦中、捕虜収容所となりました。

引用:https://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000342492.html

引用:https://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000342492.html

ふーん、そうなのか…大阪市が書いているのならそうなんだろうな、となりそうです。「あれ」を手元に持っていなければ、見なければ…

1942年大阪市航空写真港区築港

私の歴史資料兵器、昭和17年撮影の大阪市航空写真1の築港の写真です。赤枠が築港大潮湯があった…あれ?

1942年大阪市航空写真港区築港

おい、建物あらへんやんけ!

あの豪華な建物はどこへやら、昭和17年の時点で本館も新館も跡形もなく消え、更地になっております。その跡地には小屋のような建物があるものの、大阪市記述の「捕虜収容所」とは到底思えません。大阪市さん、「捕虜収容所」とやらはどこにありますんやろか?

築港大潮湯大阪港

自分で大阪市を弁護すると、戦後すぐの昭和23年(1948)の航空写真では、潮湯跡に何やら建物があるようです。これが「捕虜収容所」であれば別にそれに異議は挟まないのですが、「残った建物は」とある以上、潮湯の建物でなければならない。しかし、昭和17年の航空写真にはそんなものありゃしません。この矛盾どう説明するの大阪市(笑

真実は一つ。大阪市の記述を信じるか、私のブログ記事を信じるか…そして、新たな真実を掘るか。それはあなた次第。

その築港大潮湯の跡は現在、こうなっています。

築港大潮湯跡

跡地は現在、「財団法人大阪港湾福利厚生協会 築二住宅」となっています。

大阪築港大潮湯跡

無機質な集合住宅の外壁に填められたこのプレートが、かつて大阪一、いや日本一の「スーパー銭湯」があったという名残を留めさせてくれます。これがなければ、百万言を費やしてもここにそんなものがあったと説明しても、信じることはできないでしょう。

大阪史のこんなブログ記事もいかがですか?

・『大正大阪風土記』
・『大阪港史』
・『港区史』
・『大阪港のあゆみ』
・『此花区史』
・『炎の商売人森口留吉、増太郎伝』
・『大阪春秋』第63号 港区
その他いろいろSpecial Thanks(資料・情報提供)
・ワ田さん(銭湯史)Twitter: @wa_da_da_wa

  1. といっても大阪市公文書館所蔵
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