四方を海に囲まれた日本には、海水に浸かって病気を治療する「潮湯治」が古くから伝わっていました。平安時代にも潮湯治に関する歌が残っているといいます。
特に大阪には、これも古くから海水を沸かしたお風呂、「潮湯」がありました。他の地域では聞いたことがないので、大阪独特かもしれません。
現在は堺市にある「湊潮湯」だけとなりましたが、私が幼い頃には浜寺公園や高石市の羽衣にも1軒ずつくらいあった記憶があり、実際に浸かりに行ったこともありました。
幼い頃、夏に軽いあせもなどが出てきた時には、潮湯に入ってこいとお駄賃を渡されたものです。
そんな潮湯、大正時代にブームになったのか、大阪のあちこちに造られた時期がありました。それも、ただの銭湯ではなく、現在のスーパー銭湯のようなレジャーランドとして。

その先駆けは、大正2年(1913)に堺に開業した大浜潮湯。こちらはのちに、入湯客のための歌劇団も結成され、昭和9年(1934)室戸台風によって壊滅するまで続きました。
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翌大正3年には、築港(大阪港)に築港大潮湯がオープンしました。
また、潮湯ではないですが、大正2年、新世界に噴泉浴場(ラジューム温泉)が開業しており、一大スーパー銭湯ブームが大阪に花開いていました。
今回のお題「北港潮湯」は、大浜・築港に少し遅れて出現した「第三の潮湯」でした。
北港潮湯とは
「北港潮湯」は大阪市の此花区にあったレジャーランドで、北港土地株式会社によって大阪市北部の北港海岸が開発され、海水浴場や北港潮湯が大正14年(1925)にオープンしました。
「北港」といっても場所はどこなのか。

現在の桜島…というよりUSJといった方が早い、の北部にありました。現在ではスーパー銭湯に海水浴場なんて考えられない場所にありますが、確かに存在していたのです。
この潮湯レジャーランド、最初は交通の便もない陸の孤島のような場所だったのですが、昭和2年(1927)5月にはこの入浴客を目指して市バス路線が開設、4年には市電も桜島駅前まで開通したと『大阪港史 第三巻』に書かれています。それほど好評だったのだとこの文章からは覗えます。
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この世に残る数少ない北港潮湯&海水浴場の写真です。写真を見ると潮干狩りも可能だったようで、おそらくアサリなどの貝も取れたのでしょう。夏場にはたくさんの客が訪れお店も建っていたと当時の文献には書かれています。
そして、ネットでは初公開となるのがこれ。

昭和3年(1928)大阪市撮影の航空写真に写る、この世で唯一の北港潮湯の航空写真です。こっそり調達してまいりました。

黄色で囲った部分が潮湯の本屋で、写真左側が大阪湾(西の方向)となります。ピンクで囲った部分に、桟橋が見えます。
この航空写真からわかることは、市内中心部に続く道沿いに入口があり、お土産屋や食堂が並んでいたと思われる見世をくぐり抜け、本屋や海水浴場にたどり着くというルートになっていること。これは資料ではわからなかった新発見でした。
なお、施設の構造などの記載は、残念ながら史料にはほとんど残っておりません。
そんな幸先好調の北港でしたが、ある悲劇が訪れます…
室戸台風と北港潮湯の最期
昭和9年9月21日、やつが大阪を訪れます。

瞬間最大風速60m/s1、最低気圧911ヘクトパスカル2の化け物台風、室戸台風が大阪を直撃しました。
2019年に東日本を襲った台風は、気圧はこの室戸台風に匹敵するものでしたが、勢いは室戸台風はそれよりまたレベルが一つ上でした。
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60m/sの強風と共に4mを越える高潮が大阪港を直撃し、大阪湾沿いの建物はことごとく壊滅しました。四天王寺の五重塔も、この台風で全壊しています。
上の写真は、高潮によって崩壊した桜島の大クレーンと、運天丸(約1000トン)が座礁したものです。
北港の海沿いにあった北港潮湯も水の壁のような高波をまともに浴びてしまい、施設は崩壊しました。
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この通り、高潮に呑まれて無残な姿に。
写真の説明にも、
「昭和九年九月廿一日 桜じま北港潮湯前 水勢最も甚だしかりし所 四五十軒の家屋の全部何物も残さず 六七十人の死者を出せしと云」
とあり、北港潮湯の周りには民家がそこそこあったとのことですが、それもすべて破壊されてしまったと。
北港潮湯がその後復活することはなく、現在では郷土史の一部にその名が刻まれているのみとなっています。
北港潮湯の跡を歩く

今でこそ桜島はUSJのお膝元としてここだけアメリカンな雰囲気を醸し出していますが、その前、特に戦前は住友金属などの大工場群が桜島線沿線に建ち並ぶ一大工業地帯でした。当時は西成線と呼ばれていた桜島線も、特に昭和10年代になると朝夕はホームでの積み残しが発生するほどのラッシュとなり、あの安治川駅脱線火災事故の遠因ともなりました。
で、その工場群が消えた空き地に出来たのが、かのUSJというわけなのです。
現在はUSJとメーカーの倉庫群となっているそんな場所に、現在のスーパー銭湯的存在の潮湯などあったのか?現在の姿を見ると、私も一抹の疑問を持ちます。

昭和23年の地図を見ても、北港潮湯があった場所は、「何かの建物」があった跡は見受けられるものの、それが潮湯の建物跡なのか、それ以後に建てられ空襲で焼けた工場なのかは、航空写真では全く見当がつきません。

北港潮湯があったとされる場所は現在、このとおりとなっています。
無機質な、何の飾りっ気もないコンクリートの更地は、北港潮湯の痕跡をかき消すかのように地面に横たわり、私の発見を拒むかのようでした。せめて碑の一つでも作ってくれたらまだわかりやすいものの、それすらありません。
たった10年間しか存在しなかった幻のスーパー銭湯でしたが、その跡はコンクリートの塊のみ。その下に、もしかして当時の遺構が眠っているかもしれない…そんな妄想を繰り広げながら今回のお話を終わります。







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