大阪市大キャンパスを歩く
さて、ざっくりと市大の歴史を書いたところで、実際に大学構内を歩いてみます。え?これでざっくりかって?はい、書きたいことを相当端折った超ざっくりです。
市大本館(1号館)
市大のシンボルとも言える校舎が、旧大学本科にある本館です。
少し逆光気味なので見づらいかと思いますが、真正面から見ると白い大鳥が翼を広げているような姿であることはわかると思います。
側面から見ると、「車寄せ」という入口まで車を寄せるための屋根付きの部分があり、独特の姿をしていることがわかります。
昭和9年(1934)に竣工したこの本館は、平成14年(2002)に有形文化財に登録されています。
鉄筋コンクリートなので一見殺風景ですが、曲線を使うことによってデザインチックに見せようとする努力が見える気がします。建築学はド素人だし美的感覚もゼロなので、あくまで「気がする」ですが。
昭和10年代と思われる地図の裏側にあった広告に、小さいものの旧商科大のものがありました。やはりシンボルなのか、本館があいさつ代わりになっています。こうやって見ると、何度かリフォームはされているはずですが、形は昔のまま残していることがわかりますね。
裏側へ回ってみました。
正面にも時計がありますが、裏側にも時計があるのはなんだか不思議でした。それも手元のスマホで確かめるとちゃんと時間も合ってるし。
これが竣工当初からあったのかどうかはわかりません。しかし、裏はグラウンドなので運動をしている人には高いところにあって見やすいのかもしれません。
側面は曲線をより使い、意匠を凝らしています。なんとなく宇宙船に見えなくもない。
中に入ってみました。
建物自体はフルオープンなのですが、人っ子一人いる気配がありません。休日なので当たり前っちゃそうですが、不気味なほど人の気配を感じないのです。その理由らしきものは、後でわかりました。
正面階段の左右に置いてある、たぶんブロンズ製の壺には、
「大正七年」の文字が。
大正七年度の卒業時に作られたものか、それとも大正七年度卒業生が寄贈したのか。どちらにしても大正七年当時は商科大学ではなく専門学校の時です。
中を覗いてみて、凝ってるなーと思ったのは、この中の丸窓。
丸窓は大正時代後期~昭和初期に流行ったものですが、建物の外窓(というのか?)ではなく、建物の中に入らないと見えない中の窓に丸窓を使っているのは、初めて見ました。
階段の両側に丸窓を配置するセンスは、ちょっとションベンをちびりそうになりました(笑
こうして撮影すると、ちょっとファンタジーっぽい内景になる気がします。
(出典:「《論文》戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」より)
杉本町キャンパスができたてホヤホヤの頃の、1号館から正門を臨む写真があったので、人がいないのを幸いに1号館から似た角度で撮ってみました。
80年というのは、大きな歴史の流れで見るとほんの一瞬ですが、その一瞬でもこれだけ風景が変わることに、我々は驚かないといけません。
学生サポートセンター(旧商大図書館)
1号館の横にも、素敵な建物が鎮座しています。
「学生サポートセンター」となっているこの建物、リフォームされているので一見さほど古くない建物に見えます。
しかし、ところどころに残る昭和風モダン建築というのか、大正後期~昭和初期の建物によく見られる残滓がちょくちょく垣間見えます。
休日だったので閉まっており、中を見ることはできなかったのですが、代わりに周囲の外観をじっくり見てみることにしました。
正面から見ると何の特徴もない、当時の学生の言葉を借りれば「味気がない」ものになっていますが、裏側を見ると少しSFチックな形状になっており、1号館と姉妹のような形になっています。設計主が同じ(大阪市土木局)なので、当たり前と言えば当たり前ですが、当時としてはかなり斬新なデザインだったでしょう。
この建物のある意味いちばんの見所は、正面ではなく裏側。
船の艦橋(ブリッジ)を思わせるサンルームです。
昭和初期建築の証明、丸窓がアクセントをつけています。半円形に張り出させ、窓を多く配置して陽光がより多く入るよう工夫されている感じがします。
木が邪魔で全景が写せないのですが、ものすごくモダンというか、未来的なデザインです。
この作り、以前紹介した大阪市港区のハaハaハaというレストランの建物に似ています。
ハaハaハaの方は昭和11年に対し市大のこちらは昭和9年なので、市大のほうが若干先輩格になりますがほぼ同世代。当時はこういうつくりのデザインが流行っていたのでしょうね。
この建物は、規則的な作りかと思いきや、側面が非対称かつ不規則的な、子どもが積み木を重ねたかのような意匠。当時の設計者の遊び心が現れているかのようです。
五代友厚像
旧商大キャンパスを散歩していると、こんなものを見つけました。
像の主は五代友厚という人物で、薩摩藩士ながら大阪に骨を埋め大阪の発展に尽くした大阪財界の重鎮であります。全国の女子には、朝の連続テレビ小説『あさが来た』でディーン・フジオカ演じた、「五代様」と書いた方が早いかもしれません。
で、市大と五代友厚が何の関係があるかというと…。
五代は商都大阪を更にパワーアップさせるために様々なことを行いました。そのうちの一つに、これからの大阪を支える人材を育成するための学校、「大阪商業講習所」の創設でした。当時は最先端の学問だった簿記や商法、貿易のための国際法や英語などを教える学校でしたが、それが市立商業学校→高等商業学校→商科大学→大阪市立大学と発展しました。
大阪商科大学を誕生させたのは元市長の関一でしたが、今の市大の「父」が関ならば、「祖父」は五代と言っても過言ではありません。
しかし、この像は土台からしてかなり新しい…いちおう、五代友厚生誕180年記念として作られたものだそうですが、除幕式の日付が2016年3月。ドラマ放映中、それも五代がドラマ中で死に全国の女性が「五代ロス」に苛まれていた時なので、めちゃ狙っとるやんかと。どうりで像が無駄にイケメンかと思った(笑
ちなみに、除幕式にはディーン・フジオカも参加したそうです。
旧予科・高商科を歩く…ところが
さて、お次は旧予科・高商科のキャンパス。ここは「旧教養地区」とも言うそうで、その名の通りかつてどこの大学にもあった「教養部」があった場所なのでしょう。
大阪市大は、本気で端から端まで歩くとかなりの距離があるのですが、旧本科と旧予科の距離は徒歩でほんの5分ほど。
すると!
どうやら学園祭の様子。(※訪問時は2017年です)
「銀杏祭」と書いていますが、銀杏祭は大阪市大の学園祭の名前で、「第67回」と書いてあるので1950年(昭和25年)から行われているということかな。
中に入ってみると。
とりあえず人多すぎでした(汗
人口密度が非常に低い田舎生活に慣れてしまい、人混みが大の苦手になってしまった私、人多すぎだけで疲れが…。ひ、日を改めて参ります…状態でした。
これでわかりました。本館がある方のキャンパスは、グラウンドで硬式野球部の試合をやっていたものの、それ以外の人の気配がほとんどなくゴーストタウンならぬゴーストキャンパスになっていたのは、「銀杏祭」で学生が全部こちらに吸い取られていたのだと。
これは探索とかなんとか言うてる場合ちゃう…と思ったのですが、ここまで来て人混みくらいでおめおめ引き下がるわけにはいかぬ。
2号館(旧予科校舎)
旧制大阪商大キャンパスは、上にも書いたとおり「大学本科」と「高商科・予科」に分かれていましたが、予科の校舎が現代に残っています。
予科とは聞き慣れない言葉ですが、正式には「大学予科」と言います。「旧制高校」と似たようなものなのですが、大きな違いが一つあります。旧制高校は、卒業すると原則どこの大学でも好きなところへ行ける高校に対し、予科は必ず本科へ進学しないといけない、つまり進学の選択肢がないという大きな違いがありました。
本館こと1号館のパクリというか、本館が曲線を使い意匠を凝らしていたのに対し、2号館はそれがありません。これは味気がない。杉本町校舎を見た学生たちの声を見ると、本館だけを見ると贅沢言うなと思うものの、2号館は確かに味気ない。
と思って側面を見ると。
やはり昭和初期建築の象徴、丸窓がヒョイと顔を覗かせる。これがアクセントになっているようです。でもなんだか味気ないな。
体育館
2号館の横に、コンクリートの三角屋根の建物があります。
市大にはいくつか体育館があるので、ここは正式には「第一体育館」だそうです。ピカチュウが歩いていますが、そこは気にしないで下さい(笑
昭和8年に予科・高商科校舎が出来た当時からの生き残りで、2013年に改修工事が施されていますが、当時の姿を残しています。
前回述べた米軍基地、「キャンプ・サカイ」時代には、病院の病棟にも使われていました。
(「《論文》戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」に加筆)
昭和9~10年(1934-1935)の写真ですが、手前が商大の学生サポートセンター(当時は図書館)、奥が旧予科・高商科の敷地です。小さいですが、体育館が今と同じ形で存在していることがわかります。
もう一つの高商科の建物ですが、これも当時としてはかなりモダンなデザインの建物だったようです。この写真は1号館のてっぺんから撮ったと思うのですが、今なら障害物ありまくりで見えないだろうなと。
学生には「味気ない」だの「コンクリートで血が通っていない」などと言いたい放題言われていましたが、これだけを見ると何を贅沢言ってるんだと。まあ、周りに何もなかったのは仕方ないですけどね。
旧高商部の建物は教養部の主要校舎として長年使われてきましたが、2006年に壊され既になく、このように新しい建物(全学共通教育棟)に変わっています。
12~3年くらい前には、大小合わせて旧商大をしのぶ建物がかなり残っていたそうです。しかし、耐震リフォームするより建て直しのほうが安くするのか、どんどん壊されていったようです。地元だからいつでも行けると高をくくっていると、気づいたら何もなかった…ということは多々あります。建物を残せというのはいろんな意味で無理があるので、せめて写真だけ撮り、デジタルの中では残しておくようにしましょう。
取り急ぎ大阪市立大学歴史を、「赤歴史」も含めてかいつまんでみました。
現在大学に通っている学生諸君、そして卒業したOBも含め、自分の出身校の歴史を調べたことはありますでしょうか。
大阪市立大学も大阪市、いや関一の「百年計画」の一部であったように、出身校には秘められた歴史があるかもしれません。そんな「秘話」を探しに、大学を訪ね歩いてみるのも「学問」ではないでしょうか。
ちなみみ、私は大阪市立大学OBでも何でもありません、好奇心と探究心のリミッターが故障中の部外者に過ぎません。
戦後の米軍接収時代の話はこちら!
姉妹ブログの台湾史からです。こちらもどうぞ!
・『大阪市立大学百年史』
・『戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)』
・温故知新(その2)大阪市立大学に見る伝統の断絶(香川大学解体新書ブログ)
他多数
コメント
ど真ん中のテーマをこれほど詳細に書いていただきありがとうございます。繰り返し何度も読ませていただきました。
大学の歴史というところでいくと、杉本キャンパス北側にあった「杉本寮」と、建物自体は現存している「志全寮」の歴史もまた、冊子にまとめられていますのでよろしければご一読ください。
様々な歴史が刻まれたキャンパスですので、今度お越しになる際は是非ご案内いたします。