冷房車を製造した会社とは?
この冷房車を作った会社は一体どこなのか。
当時エアコン製造の大手であった荏原製作所や日立製作所、外資系ではなく、大阪金属工業という地元企業でした。
大阪金属工業は1924年(大正13年)創立の小さなメーカーで、南海の冷房の製造を受け持った時は、まだ10年ちょっとの歴史しかありませんでした。しかし、冷媒を利用した冷却装置の国産と商品化に成功するなど、野心あふれるベンチャー企業でした。
そんな会社が、電車に冷房を載せてみませんかという試みに燃えないわけがありません。
大阪金属工業という名前は、現在我々が耳にすることはありません。しかし、倒産したわけでも、どこかに吸収合併されたわけでもありません。
大阪金属工業なんて聞いたこともないと思っていても、「ダイキン」と言えば日本国民ほぼ全員、膝を叩いて納得すると思います。そう、「大阪金属工業」とは今のダイキン工業のことなのです。大阪金属工業、略して「大金」と昔から言われていたのでしょう。
「大阪金属工業株式会社」が「ダイキン工業株式会社」に社名変更したのは、東京オリンピック開催前年の1963年(昭和38)のことでした。
ちなみに、中国語でダイキンは「大金」と書き、大阪金属工業だった名残がわずかに残っています。
…と先日ツイッターに書いたら、台湾人が
そうか!「大金」って「大阪金属工業」の略だったんだ!
という、日本人とは逆の発想のリプをしていました。
南海とタッグを組んだダイキンは、冷房車の成功がよほど誇らしかったのでしょう。公式HPの沿革にも、
日本初の電車冷房装置はうち製やで~
と胸を張って掲載されています。
戦前の冷房
エアコンと言えば、戦後に発明されたものだというイメージが強いと思います。確かに、一般に普及したのは戦後です。高度経済成長時代の「三種の神器」の一つとしても有名でした。
が、エアコン自体は戦前から存在していました。冷凍機(冷却機)を使って冷風を発生させる現在の方式だけでも、日本でも大正時代から存在しています。
鉄道車両も、南海以外にもありました。
1933年、鉄道省工作局車両課技師佐竹達二により発表された論文1によると、空調装置の研究最先端はアメリカで、気候が安定していた欧州では盛んではなかったようです。
鉄道冷房も世界初は米国で、昭和4年(1929)にバルチモア・オハイオ鉄道で空調付き客車が運転されたのが始まりとされています。
それが成功したのか、翌年になると雨後の筍のように冷房車が増え、1931年には同鉄道の急行列車の車両すべてでオール冷房車化を達成しています2。
有名なところでは、満洲国になりますが、特急『あじあ』号が冷暖房完備だったことは有名です。
『あじあ』に採用された冷房装置は「キャリア式」といい、蒸気機関車から蒸気を取り、その気化熱で冷気を出す米国のキャリア社の特許でした。技師をアメリカに派遣して採用した技術ですが、最初は故障続発、それも夏のいちばん暑い時期に頻発したそうです。新聞に「これじゃあ”あじあ”じゃなくて”あふりか”だ」と茶化されたほどでしたが、数年後には故障も激減したそうです3。
また、省鉄こと国鉄の特急『燕』『鷗』の食堂車に冷房が積まれていたことも有名です。
戦後の写真ですが、これが冷房付き食堂車です。
『燕』の冷房は川崎造船(後の川崎重工)が開発した「川崎式」といい、列車の車輪から動力を取り、ベルトを通してコンプレッサーを作動させるという原始的なシステムでした。
このシステムは構造が複雑ではなく動力も車輪から取るので電気代ゼロ、その上取り付けも簡単でローコストだと当時の鉄道省が食いつき採用されました。
しかしこの装置、風力は車輪の回転数に比例するという、致命的な欠点を持っていました。35km/h以下では作動せず食堂車は低温サウナと化し、全速力で走っている時は逆に冷蔵庫かよというほど寒かったそうです。
なお、省鉄の『燕』などに搭載された冷房は南海より早かった、つまり日本初は「省鉄」の方という説もあります。
確かに、省鉄も昭和11年に試験運用はされているのですが、それでも8月からです。この時のエアコンは荏原製作所製だったそうですが、不具合多発で使い物にならず、本格運用は昭和12年、上述した川崎式が運用されるのは翌13年から。「営業運転」は南海の方が早いのです。上の新聞記事に「省線の「食堂車」よりお先に」と書いてあったのは、そのため。
ガセネタ乙と言われないよう、いちおう証拠を提示しておきます。
現在の冷房車は?
南海とダイキンは、ちと面白いデータを残してくれています。
冷房車が営業運転を開始して一週間後に調査された、冷房車と非冷房車の温度・湿度比較です。純粋な「気温」は、乾球の方の温度を見ていただければ結構です。
残念ながら天気は掲載されていないのですが、気象庁には当時の気象状況が残っていました。
・最低気温:23.8℃
気象庁のデータより
・最高気温:33.1℃
・湿度:74%
・平均風速:2.5m/s
表の非冷房車の温度と気象庁の記録が33℃と一致しているので、資料的に間違いないと思われます。この表を見れば、冷房車がかなり涼しかったことがわかります。
これを、現代の冷房車と較べてみます。
現在の首都圏の冷房の設定温度は以下の通り。青字は会社HPに書いてある公式回答です。
関東は、ほぼ26℃デフォルトの横並びなことがわかります。東京は地下鉄を経由した複雑な相互乗り入れがあるので、逆に横並びにしないと混乱してしまうという事情があるのでしょう。
一方、関西はというと。
けっこうバラバラ。
京阪は、「27℃:暑い!25℃:寒い!という声が多かったので、なら中間取って26℃」という設定基準。26℃は良い塩梅の適温のようです。公式回答ではないものの、阪急は最近0.5℃上げたようです。
今の新型車両は、至るところにセンサーが設置され、温度をコンピュータ制御で微調整して乗務員の負担を軽くしているそうです。それゆえ、
お客様に『暑い』『寒い』と車内で言われても、新型車両はマニュアル調節できませんww
(by某関東私鉄)
という弊害も発生しています。
さらに、最近の車両には強力な除湿機能がついており、除湿だけの運転も行っています。
戦前の話に戻すと、表に挙げた南海の冷房車の温度を見ると、平均は24.3℃。最低が23℃となっていますが、これは相当寒いと思います。1990年代、近鉄が試しに25℃にしたことがあるそうですが、寒いやんけ!というクレームが殺到したそうです。
25℃で「寒い」のだから、23℃とかだとカーディガンが要るんじゃないか!?というほどの体感温度かもしれません。
が、「乗客が冷房車に殺到して、非冷房車より暑かった」という伝説が今に残っています。これは果たして本当なのか。
上の現在の電車の設定温度を見ると、トンネルの深さの都合などで低くしている都営大江戸線・神戸市営地下鉄以外にも、出典は孫引きですが、JR東日本に「23℃(寒」に設定している路線があります。これは混雑率が特にひどい埼京線・中央線だそうで、山手線・京浜東北線はおおむね24~26℃だそう。大阪の大混雑路線である地下鉄御堂筋線はラッシュ時に24℃にしていると、大阪市交通局時代の公式回答にあります。
つまり、「超満員」だと23~24℃でちょうどいい塩梅と、冷房バンザイの現代社会でもみなしているということ。「非冷房車より暑かった」はまんざらオーバーでもなかったようです。
南海夢の「量産型冷房車計画」
アメリカには7年遅れたものの、南海が導入した冷房車はすこぶる好調でした。
スタート当初はお試しの制御車一両だけだったものの、翌年には一気に4編成分(8両)を冷房化、主に特急に導入され「冷房特急」の名がつけられました。
昭和11年(1936)7月、難波駅のものですが、これがいわゆる「冷房特急」です。
こちらは、おそらく昭和12年の方になると思いますが、南海の夏の海水浴案内パンフです。水着女子に目が向きがちですが、右に「冷房特急電車」の文字が見えます。
これに焦ったライバル阪和電鉄は、車内に大きな氷を置いて涼を取らせたり、冷たい水の無料サービスを行っていたと乗客の回想に出てきます。が、ソースは客の回想のみで記憶違いの可能性もあり真偽は不明です。
当時は南海の難波と阪和電鉄の天王寺から国鉄に直通する、白浜行きの「黒潮号」が運転されていました。JRの特急「くろしお」のご先祖様です。
目的地は同じなので、客サイドから見るとどっちに乗ってもいいのですが、南海は和歌山市まで冷房車に連結させ、「冷房黒潮」としてアピールしたのに対し、阪和は暴走超特急に連結させ阪和間45分。さてどちらに乗りますか?と両者は必死の客の奪い合いを繰り広げていました。
予想外の好評ぶりに調子に乗った南海は、冷房標準装備の流線型電車量産計画を立てました。
冷房車の試運転の新聞記事にも、「冷房完備の流線型電車作っちゃおうっかなー♪」なんて口を滑らせて(?)いますが、どうも翌年には「本気モード」になったようです。
南海の流線型電車設計は、これに始まったことではないようです。
冷房車から2年前、南海はある電車の製作を考えていました。
昭和3~4年(1933-34)頃から登場した「流線型」は当時の列車の流行スタイルとなり、東西の鉄道会社にいろんな流線型が登場しました。
その流行に遅れまいと(?)南海も、
流線型電車作っちゃおうかなー♪
と計画はしていたようです。
しかし、ただ流行に乗っただけではありません。
当時の南海は阪和間60分の壁を破り、上記の『黒潮号』が55分で結んでいました。今の特急「サザン」でも、停車駅多めとは言え57~8分なのを考えると、常軌を逸した速度で走っていたと思われます。それでも十分速いのに、さらに阪和電鉄の「超特急」の45分に迫る47分で結ぶ高速列車を考えていたようです。もう南海やめろと全力で止めたくなります。
その計画の延長に、
冷房車成功したから、実験中の流線型電車に冷房載せちゃわない?
とひらめき、「冷房完備量産型流線型電車」が浮かび上がったのかと推測しています。
しかし、この「流線型冷房車」は実現していません。
バス冷房計画!?
さらに、電車に飽き足らずバスにも冷房車を投入するという前提で、実験まで行っていました。
ダイキンの公式社史には、「1937年【日本初】バス内に冷房を納入」と書いていますが、どこに納入したかまでは書かれていません。
しかし、ダイキンか南海の公式社史に、「バスにも冷房を導入すべく実験を始めた」とかなんとかの記述がありました。ダイキンHPの記載は、おそらく南海で当たりでしょう。
歴史好きや鉄道マニア的には、南海の冷房電車など今さら何を言っているんだ的な知識ですが、バス冷房チャレンジは初耳でした。
ただし、「日本初の量産型冷房電車」となるはずだった流線型電車は戦局の悪化でボツとなり、バスの方も同じ理由で実験倒れに終わったはずです。だから「納入」なんだと思います。ダイキン目線では確かに「納入」はした、あとは知らねーですから。
南海よ、目の付け所は非常に良かったのだけれども、時代が…ただ投入した時代が悪すぎた。
冷房車の結末
地元のベンチャー企業と組んだ南海の野心的な賭けは、成功を収めたかに見えました。
が、一民間企業ではどうすることもできない歴史の大きな渦が、鉄道史の名車となるはずだった南海の冷房車を「悲劇の迷車」に陥らせることとなりました。
1937年(昭和12)の盧溝橋事件に始まった支那事変(日中戦争)の泥沼化は、国民の生活にも徐々に影響を及ぼすこととなりました。
上に書いたように、冷房車は好評につき昭和12年には4編成分を改造し、本格運用させました。
「幻の量産型冷房電車」も製造するはずだったのですが、昭和13年度に
贅沢じゃ!資源の無駄遣いじゃゴルァ!!💢
とクレームが入り、わずか2シーズンで終了となりました。冷房は非常に電気を食ったため、その分をお国のために回せということです。
戦争によって潰された「南海冷房王国」の夢。悲しいけど、これ戦争なのよね。
その後は対米戦争に入り、南海も国策で合併させられたり、空襲で多数の車両が戦災に遭ったりと踏んだり蹴ったりでしたが、近鉄から分離した昭和22年から経営がV字回復していきます。
冷房車となった車両は、装置が取り外された後も廃車になることなく、1960年代まで走り続けました。しかし、これらに再び冷房がつくことはなく、南海のその後の冷房車は昭和36年(1961)製造の「こうや号」こと20000系まで待つこととなります4。
すべての冷房車は南海に通ず
南海が満を持して登場させた日本初の冷房車は、どうしようもない時代の濁流により悲劇的最期を遂げました。
しかし、この冷媒式電車冷房はその後の鉄道冷房の標準スタイルとなりました。
戦後の電車冷房は昭和32年の近鉄特急や、翌年の「こだま型」こと151系から始まり、34年の「日本初の量産型冷房車」が名古屋鉄道に誕生、関東では京王が積極的に冷房化に取り組んでいました。今では日本の民鉄の冷房化率は99.9%5となっています。
そんな彼らも、元をたどると南海に行き着きます。
南海の冷房車は中止という理不尽に対し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、後世のために太平を開いた、現在の冷房車のパイオニアです。今我々が、夏の暑い時にも快適に電車で移動できるのも、すべてはこの短命に終わった「迷車」のおかげなのです。
「すべての道はローマに通ず」という諺がありますが、日本の鉄道車両史・技術史においては「すべての冷房車は南海に通ず」と言って良いでしょう。
そんなことを知ってか知らずか、今日も南海電車は黙々と走り続けています。
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