
冷房車…そんなの当たり前の時代になりましたが、昔は「そうじゃない時代」もありました。
昭和50年代、母親に手を引かれてよく祖母の家へ行きました。
当時の住まいは南海本線沿線だったのですが、祖母の家が阪和線沿線だったので、東羽衣から阪和線の支線(羽衣線)へ。鳳で乗り換え堺市で下車。そこからタクシーに乗っていました。
いつからか下車駅が浅香駅になり、タクシーが徒歩となったのですが、あの時から家の経済状態が悪くなったんだなと大人になって悟ることもあります。
当時の冷房率は南海の方が断然上でした。当然、南海も非冷房車はあったのですが、それ以上にヤバかったのが阪和線。快速(主に113系)の冷房車率は高かったものの、各駅停車の103系はほとんど非冷房。真夏でも天井に扇風機が、カラカラと音を立てて回っているだけ。たま~~~に冷房車に当たると、ガッツポーズをして喜んだものです。
それから30年、国際空港アクセスラインとして新型車両てんこ盛りぶりを見るに、阪和線の暗黒時代(?)を経験した者として感慨無量です。
さて、日本で初めての冷房車はどこが作ったのか。

大阪南部の私鉄の雄、南海電鉄です。
何かとガラの悪い泉州と河内を走る私鉄ということもあって、「南海もなんだかガラが悪いよね」と風評被害を被っている感がなきにしもあらずの鉄道会社です。
ところが、日本初のトイレ付き長距離電車を走らせたり、戦前から国鉄への乗り入れを行ったり、関空特急「ラピート」のようなクレイジーな(←褒めてます)デザインの電車を走らせたりと、意外なほど斬新なことをやっている攻撃型の私鉄だったりします。
そんな南海が投入した空前絶後の超攻撃型電車、それが冷房車でした。
日本初の冷房車
南海電鉄の母体となった今の南海本線の設立は1884年(明治18)。実は創業130年の「現存する日本最古の私鉄」です。
大阪南部の玄関口となり、今でこそ常時人大杉警報発令中の難波駅界隈ですが、開業当時は
「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」
『開通五十年』1936年南海鉄道編纂
という有様でした。

駅開業前の地図を見ても、今の喧騒ぶりが夢幻のような「何もない」っぷりです。むしろ右隣の南北に延びる赤線の部分(今の堺筋とでんでんタウン)の方が、「訳あり地区」だけれども全然栄えていました。
現在の和歌山市まで開通したのは1903年(明治36)、日露戦争寸前の頃となります。
昭和に入るまで、阪和間を結ぶ鉄道は南海一本のみ。よって旅客も貨物も独占。我に敵なしと鼻くそをほじくっていました。
が、胡座をかいていた南海に強敵が出現します。天王寺~和歌山を結ぶ阪和電気鉄道(阪和電鉄)、現在のJR阪和線です。
すでに人口密度が高い紀州街道沿いを南海に占有されていたので、阪和電鉄は人なき原野を突っ走る暴走電車を運転し、阪和間の高速移動を売り物にしました。所要時間はノンストップで45分。

それが、今でも鉄道マニアの間で伝説となっている「超特急」です。
今でこそ特急「くろしお」が同じ区間を42~44分1で走っているので、「阪和間45分」なんて大したことないじゃないかと思うかもしれません。
しかし、よく考えて下さい。今の特急車両の性能をもってしても42分です。80年前に45分で走らせた自体、気の一つくらい狂っていたんじゃなかろうか。
南海もスピードで対抗しようとします。が、元々人口密度が高いところを縫うように建設しているため、阪和の45分に対し、南海はどれだけ飛ばしても53分が限界2。真正面からスピード競争に挑むと、撃墜されるのは南海の方。

ええい、阪和の超特急は化物か!!
嘆きの一つも言いたくなります。
かといって、新参者に白旗を振るつもりもない。

まだだ、まだ終わらんよ!
南海が繰り出した阪和電鉄殺戮兵器、それが日本史上初の冷房車でした。
冷房車とは具体的にどんなものだったのか
日本初の冷房車は、1936年(昭和11)7月に誕生しました。この5ヶ月前、東京で二・二六事件が起こっています。

試運転が行われた当時の新聞記事が残っています。
貴重な記事なので、チョー面倒くさいけど下記引用します。
こんどは冷房電車ー省線の「食堂車」よりお先に
きょう南海で初めての試運転いよいよ盛夏のころを迎えてお芝居でもデパートでも流行の冷房サービスに汗だくだが、こんどは「冷房電車」があらわれて日本最初を誇っている。
南海鉄道がこのほど大阪金属工業会社に委託して設備した一両がそれで八日午後二時二十五分から難波・和歌山間で試運転を行ったが成績まづ良好、だいたい車内の温度は外気より五、六度低くなり、これなら外気三十五度盛夏の時分でも満員電車の中で二十七度の爽涼さが楽しめるだろうと……。
設備は車の床下に二十馬力の冷凍機をとりつけ、コンデンサーで窒化メタンを高圧液化させ、これをパイプで屋根裏の四ヶ所に分配、膨張弁を通して得た低温空気を車内にファンで送りこむ。気化したガスはまたコンデンサーへという循環をくりかえすもので、車内温度が二十三度に下ると自動的にスイッチが切れるようになっている。
電車一台に設備する費用ざっと一万五千円というから安くない。
南海では成績次第ではもう少し作ってもいいような話だがこの中旬には実際に使用するというから鉄道省がいま食堂車にとりつけている冷房装置よりもひと足お先にお目見得するわけ。
なお車両の冷房装置は現在満鉄の列車が蒸気式のものを採用しているだけで全国にも例がない。世の中はだんだん便利になる。真夏の電車に乗っても『みなさん窓を開けないで下さい』という貼紙が見られるようになった。

これが日本初の冷房車の有名な写真です。
制御車一両に冷房装置が組み込まれ、車掌室に空気冷却装置が設置されました。電源は隣の車両(電動車)から供給という形です。
冷風は車両の屋根中央部に設けられたダクトによって、車内の数ヶ所に吹き出す構造となり、客室から車掌室に空気が戻るように設計されました。また、新聞記事にも書いてあるとおり、車内温度が23℃を下回ると自動的にエアコンが切れる原始的なセンサーまで搭載していました。

実際の車内です。冷房車は特急・急行用だったので今でいうセミクロスシートです。

赤で囲んだ窓のところに、何か貼られています。これは冷房車という初の試みに、
「窓を開けぬようお願いします」
と窓に貼られた注意書き。上述の新聞記事に書かれていたことは本当でした。
冷房車の試運転が好調だったので、7月19日から営業運転に入りました。が、冷房車に改造された車両自体が大型モーター搭載の電気代キラー。その上さらに電気を食う冷房装置がフル稼働なので、電気代がものすごいことになったそうです。

乗客全員にコーヒーおごりの方が安上がりやわ!
ある役員は、こう嘆いたといいます。
また、冷房車の好評ぶりはある弊害も起こしました。乗客が非冷房車に乗らず冷房車の到着を待ち、ホームに人があふれてしまったのです。冷房車が来ても車内は乗客ですし詰めとなり、かえって非冷房車より暑かったという伝説も残っています。
冷房車というだけでも当時はかなり画期的な試みでしたが、南海の冷房車は3つの意味で画期的でした。
1.私鉄が自己資本(持ち銭)で搭載したこと
2.特別料金不要の一般車両に搭載したこと
3.「電車」に搭載したこと
日本初の冷房車というけれど、細かく分けると3つの意味で日本初だったのです。特に3.に関しては、客車空調なら1929年にアメリカに先例があるとは言え、私が調べた限り電車では1941年のアメリカ以外記録が出て来ず、私の中で「世界初疑惑」が持ち上がっています。何か知っている方は情報を下さい。
ネットでは出てこないもの、それは冷房のスペック表。つまり仕様です。
1.圧縮機
形式:A-1000 V型
容量:20冷凍トン気筒数:6回転数:350回転/分電動機:直流直捲(ちょっけん)式 600V 15kw 1400回転/分
2.凝縮器および送風機
1)冷却方式:空冷にして送風機で強制通風を行う。しかし、その補助として空気冷却器において生じた凝縮水をこれに導き、注水するようになっている。
2)送風機:多翼型 電動機 600V 3.75kw 2000回転/分
3.空気冷却器
二組あって一組6個の蒸発器からできていて、各組1個ずつガス濾過器、感温膨張弁を備えている。
4.室内送風機形式
多翼型 800回転/分電動機:600V 37.5kw 2000回転/分
5.冷媒ガス
メチルクロライド(CH3Cl)
※死なない程度の有毒で発がん性もあるので現在では劇物扱いとなり、冷媒としては法律により使用禁止。
(出典:『南海鉄道株式会社 電車の空気調整装置』昭和12年5月 電気協会関西支部発行)
さて、この冷房車、もといエアコン自体を作った会社は一体どこでしょうか?
日立?東芝?それとも…あの会社です。
冷房車を製造した会社とは?
この冷房車を作った会社は一体どこなのか。
当時エアコン製造の大手であった荏原製作所や日立製作所、外資系ではなく、大阪金属工業という地元企業でした。
大阪金属工業は1924年(大正13年)創立の小さなメーカーで、南海の冷房の製造を受け持った時は、まだ10年ちょっとの歴史しかありませんでした。しかし、冷媒を利用した冷却装置の国産と商品化に成功するなど、野心あふれるベンチャー企業でした。
そんな会社が、電車に冷房を載せてみませんかという試みに燃えないわけがありません。
大阪金属工業という名前は、現在我々が耳にすることはありません。しかし、倒産したわけでも、どこかに吸収合併されたわけでもありません。

大阪金属工業なんて聞いたこともないと思っていても、「ダイキン」と言えば日本国民ほぼ全員、膝を叩いて納得すると思います。そう、「大阪金属工業」とは今のダイキン工業のことなのです。大阪金属工業、略して「大金」と昔から言われていたのでしょう。
「大阪金属工業株式会社」が「ダイキン工業株式会社」に社名変更したのは、東京オリンピック開催前年の1963年(昭和38)のことでした。
ちなみに、中国語でダイキンは「大金」と書き、大阪金属工業だった名残がわずかに残っています。
…と先日ツイッターに書いたら、台湾人が

そうか!「大金」って「大阪金属工業」の略だったんだ!
という、日本人とは逆の発想のリプをしていました。
南海とタッグを組んだダイキンは、冷房車の成功がよほど誇らしかったのでしょう。公式HPの沿革にも、

日本初の電車冷房装置はうち製やで~
と胸を張って掲載されています。
戦前の冷房
エアコンと言えば、戦後に発明されたものだというイメージが強いと思います。確かに、一般に普及したのは戦後です。高度経済成長時代の「三種の神器」の一つとしても有名でした。
が、エアコン自体は戦前から存在していました。冷凍機(冷却機)を使って冷風を発生させる現在の方式だけでも、日本でも大正時代から存在しています。
1921年(大正10)日本興業銀行本店に日本初の完全冷房を実施
1922年(大正11)帝国人絹広島工場に設置
1923年(大正12)小田良治邸に個人宅として初めて冷房を設置
1927年(昭和2)三越演芸場に劇場空調第一号
1930年(昭和5)国産ターボ冷凍機が製造され(日立、荏原製作所)、これ以降建物冷房が普及
(出典:住環境調整の歴史(その4)「冷房の歴史」(熊本県立大学 環境共生学部 居住環境学科 准教授 辻原万規彦論文) http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~m-tsuji/kougi.html/jyuu.html/jyuu10.html/jyuu1005.pdf)
鉄道車両も、南海以外にもありました。
1933年、鉄道省工作局車両課技師佐竹達二により発表された論文3によると、空調装置の研究最先端はアメリカで、気候が安定していた欧州では盛んではなかったようです。
鉄道冷房も世界初は米国で、昭和4年(1929)にバルチモア・オハイオ鉄道で空調付き客車が運転されたのが始まりとされています。
それが成功したのか、翌年になると雨後の筍のように冷房車が増え、1931年には同鉄道の急行列車の車両すべてでオール冷房車化を達成しています4。

有名なところでは、満洲国になりますが、特急『あじあ』号が冷暖房完備だったことは有名です。
『あじあ』に採用された冷房装置は「キャリア式」といい、蒸気機関車から蒸気を取り、その気化熱で冷気を出す米国のキャリア社の特許でした。技師をアメリカに派遣して採用した技術ですが、最初は故障続発、それも夏のいちばん暑い時期に頻発したそうです。新聞に「これじゃあ”あじあ”じゃなくて”あふりか”だ」と茶化されたほどでしたが、数年後には故障も激減したそうです5。
また、省鉄こと国鉄の特急『燕』『鷗』の食堂車に冷房が積まれていたことも有名です。

戦後の写真ですが、これが冷房付き食堂車です。
『燕』の冷房は川崎造船(後の川崎重工)が開発した「川崎式」といい、列車の車輪から動力を取り、ベルトを通してコンプレッサーを作動させるという原始的なシステムでした。
このシステムは構造が複雑ではなく動力も車輪から取るので電気代ゼロ、その上取り付けも簡単でローコストだと当時の鉄道省が食いつき採用されました。
しかしこの装置、風力は車輪の回転数に比例するという、致命的な欠点を持っていました。35km/h以下では作動せず食堂車は低温サウナと化し、全速力で走っている時は逆に冷蔵庫かよというほど寒かったそうです。
なお、省鉄の『燕』などに搭載された冷房は南海より早かった、つまり日本初は「省鉄」の方という説もあります。
確かに、省鉄も昭和11年に試験運用はされているのですが、それでも8月からです。この時のエアコンは荏原製作所製だったそうですが、不具合多発で使い物にならず、本格運用は昭和12年、上述した川崎式が運用されるのは翌13年から。「営業運転」は南海の方が早いのです。
上の新聞記事に「省線の「食堂車」よりお先に」と書いてあったのは、そのため。
ガセネタ乙と言われないよう、いちおう証拠を提示しておきます。
現在の冷房車は?
南海とダイキンは、ちと面白いデータを残してくれています。

冷房車が営業運転を開始して一週間後に調査された、冷房車と非冷房車の温度・湿度比較です。純粋な「気温」は、乾球の方の温度を見ていただければ結構です。
残念ながら天気は掲載されていないのですが、気象庁には当時の気象状況が残っていました。
・最低気温:23.8℃
気象庁のデータより
・最高気温:33.1℃
・湿度:74%
・平均風速:2.5m/s
表の非冷房車の温度と気象庁の記録が33℃と一致しているので、資料的に間違いないと思われます。この表を見れば、冷房車がかなり涼しかったことがわかります。
これを、現代の冷房車と較べてみます。
現在の首都圏の冷房の設定温度は以下の通り。青字は会社HPに書いてある公式回答です。
26℃(弱冷車は28℃):東京メトロ、首都圏の私鉄のほとんど
23~26℃(同26~28℃):JR東日本
25℃(同28℃):都営地下鉄 (※大江戸線は22℃(弱冷車24℃))
関東は、ほぼ26℃デフォルトの横並びなことがわかります。東京は地下鉄を経由した複雑な相互乗り入れがあるので、逆に横並びにしないと混乱してしまうという事情があるのでしょう。
一方、関西はというと。
26℃(弱冷車28℃):南海電鉄、京阪電鉄
26.5℃(同27.5℃):阪急電鉄
27℃(同28℃):阪神電鉄、OsakaMetro(※大阪市営地下鉄時代の回答)
28℃(同29℃):近鉄
25~27℃(同26~28℃):神戸電鉄
26℃(弱冷車なし):京都市営地下鉄
23~26℃(同25~29℃):神戸市営地下鉄(※車両・路線によって異なる)
企業秘密につきノーコメント:JR西日本
(※だいたい26~27℃くらい(弱冷車は+1~2℃との個人の独自調査あり)
けっこうバラバラ。
京阪は、「27℃:暑い!25℃:寒い!という声が多かったので、なら中間取って26℃」という設定基準。26℃は良い塩梅の適温のようです。公式回答ではないものの、阪急は最近0.5℃上げたようです。
今の新型車両は、至るところにセンサーが設置され、温度をコンピュータ制御で微調整して乗務員の負担を軽くしているそうです。それゆえ、

お客様に『暑い』『寒い』と車内で言われても、新型車両はマニュアル調節できませんww
(by某関東私鉄)
という弊害も発生しています。
さらに、最近の車両には強力な除湿機能がついており、除湿だけの運転も行っています。
戦前の話に戻すと、表に挙げた南海の冷房車の温度を見ると、平均は24.3℃。最低が23℃となっていますが、これは相当寒いと思います。1990年代、近鉄が試しに25℃にしたことがあるそうですが、寒いやんけ!というクレームが殺到したそうです。
25℃で「寒い」のだから、23℃とかだとカーディガンが要るんじゃないか!?というほどの体感温度かもしれません。
が、「乗客が冷房車に殺到して、非冷房車より暑かった」という伝説が今に残っています。これは果たして本当なのか。
上の現在の電車の設定温度を見ると、トンネルの深さの都合などで低くしている都営大江戸線・神戸市営地下鉄以外にも、出典は孫引きですが、JR東日本に「23℃(寒」に設定している路線があります。これは混雑率が特にひどい埼京線・中央線だそうで、山手線・京浜東北線はおおむね24~26℃だそう。大阪の大混雑路線である地下鉄御堂筋線はラッシュ時に24℃にしていると、大阪市交通局時代の公式回答にあります。
つまり、「超満員」だと23~24℃でちょうどいい塩梅と、冷房バンザイの現代社会でもみなしているということ。「非冷房車より暑かった」はまんざらオーバーでもなかったようです。
南海夢の「量産型冷房車計画」
アメリカには7年遅れたものの、南海が導入した冷房車はすこぶる好調でした。
スタート当初はお試しの制御車一両だけだったものの、翌年には一気に4編成分(8両)を冷房化、主に特急に導入され「冷房特急」の名がつけられました。

昭和11年(1936)7月、難波駅のものですが、これがいわゆる「冷房特急」です。

こちらは、おそらく昭和12年の方になると思いますが、南海の夏の海水浴案内パンフです。水着女子に目が向きがちですが、右に「冷房特急電車」の文字が見えます。
これに焦ったライバル阪和電鉄は、車内に大きな氷を置いて涼を取らせたり、冷たい水の無料サービスを行っていたと乗客の回想に出てきます。が、ソースは客の回想のみで記憶違いの可能性もあり真偽は不明です。
当時は南海の難波と阪和電鉄の天王寺から国鉄に直通する、白浜行きの「黒潮号」が運転されていました。JRの特急「くろしお」のご先祖様です。

目的地は同じなので、客サイドから見るとどっちに乗ってもいいのですが、南海は和歌山市まで冷房車に連結させ、「冷房黒潮」としてアピールしたのに対し、阪和は暴走超特急に連結させ阪和間45分。さてどちらに乗りますか?と両者は必死の客の奪い合いを繰り広げていました。
予想外の好評ぶりに調子に乗った南海は、冷房標準装備の流線型電車量産計画を立てました。

冷房車の試運転の新聞記事にも、「冷房完備の流線型電車作っちゃおうっかなー♪」なんて口を滑らせて(?)いますが、どうも翌年には「本気モード」になったようです。
南海の流線型電車設計は、これに始まったことではないようです。
冷房車から2年前、南海はある電車の製作を考えていました。

昭和3~4年(1933-34)頃から登場した「流線型」は当時の列車の流行スタイルとなり、東西の鉄道会社にいろんな流線型が登場しました。
その流行に遅れまいと(?)南海も、

流線型電車作っちゃおうかなー♪
と計画はしていたようです。
しかし、ただ流行に乗っただけではありません。
当時の南海は阪和間60分の壁を破り、上記の『黒潮号』が55分で結んでいました。今の特急「サザン」でも、停車駅多めとは言え57~8分なのを考えると、常軌を逸した速度で走っていたと思われます。それでも十分速いのに、さらに阪和電鉄の「超特急」の45分に迫る47分で結ぶ高速列車を考えていたようです。もう南海やめろと全力で止めたくなります。
その計画の延長に、

冷房車成功したから、実験中の流線型電車に冷房載せちゃわない?
とひらめき、「冷房完備量産型流線型電車」が浮かび上がったのかと推測しています。
しかし、この「流線型冷房車」は実現していません。
バス冷房計画!?
さらに、電車に飽き足らずバスにも冷房車を投入するという前提で、実験まで行っていました。

ダイキンの公式社史には、「1937年【日本初】バス内に冷房を納入」と書いていますが、どこに納入したかまでは書かれていません。
しかし、ダイキンか南海の公式社史に、「バスにも冷房を導入すべく実験を始めた」とかなんとかの記述がありました。ダイキンHPの記載は、おそらく南海で当たりでしょう。
歴史好きや鉄道マニア的には、南海の冷房電車など今さら何を言っているんだ的な知識ですが、バス冷房チャレンジは初耳でした。
ただし、「日本初の量産型冷房電車」となるはずだった流線型電車は戦局の悪化でボツとなり、バスの方も同じ理由で実験倒れに終わったはずです。だから「納入」なんだと思います。ダイキン目線では確かに「納入」はした、あとは知らねーですから。
南海よ、目の付け所は非常に良かったのだけれども、時代が…ただ投入した時代が悪すぎた。
冷房車の結末
地元のベンチャー企業と組んだ南海の野心的な賭けは、成功を収めたかに見えました。
が、一民間企業ではどうすることもできない歴史の大きな渦が、鉄道史の名車となるはずだった南海の冷房車を「悲劇の迷車」に陥らせることとなりました。
1937年(昭和12)の盧溝橋事件に始まった支那事変(日中戦争)の泥沼化は、国民の生活にも徐々に影響を及ぼすこととなりました。
上に書いたように、冷房車は好評につき昭和12年には4編成分を改造し、本格運用させました。
「幻の量産型冷房電車」も製造するはずだったのですが、昭和13年度に

贅沢じゃ!資源の無駄遣いじゃゴルァ!!💢
とクレームが入り、わずか2シーズンで終了となりました。冷房は非常に電気を食ったため、その分をお国のために回せということです。
戦争によって潰された「南海冷房王国」の夢。悲しいけど、これ戦争なのよね。
その後は対米戦争に入り、南海も国策で合併させられたり、空襲で多数の車両が戦災に遭ったりと踏んだり蹴ったりでしたが、近鉄から分離した昭和22年から経営がV字回復していきます。
冷房車となった車両は、装置が取り外された後も廃車になることなく、1960年代まで走り続けました。しかし、これらに再び冷房がつくことはなく、南海のその後の冷房車は昭和36年(1961)製造の「こうや号」こと20000系まで待つこととなります6。
すべての冷房車は南海に通ず
南海が満を持して登場させた日本初の冷房車は、どうしようもない時代の濁流により悲劇的最期を遂げました。
しかし、この冷媒式電車冷房はその後の鉄道冷房の標準スタイルとなりました。
戦後の電車冷房は昭和32年の近鉄特急や、翌年の「こだま型」こと151系から始まり、34年の「日本初の量産型冷房車」が名古屋鉄道に誕生、関東では京王が積極的に冷房化に取り組んでいました。今では日本の民鉄の冷房化率は99.9%7となっています。
そんな彼らも、元をたどると南海に行き着きます。
南海の冷房車は中止という理不尽に対し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、後世のために太平を開いた、現在の冷房車のパイオニアです。今我々が、夏の暑い時にも快適に電車で移動できるのも、すべてはこの短命に終わった「迷車」のおかげなのです。
「すべての道はローマに通ず」という諺がありますが、日本の鉄道車両史・技術史においては「すべての冷房車は南海に通ず」と言って良いでしょう。
そんなことを知ってか知らずか、今日も南海電車は黙々と走り続けています。

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