長野新地(大阪府河内長野市)|遊郭・赤線跡をゆく|

河内長野の長野新地関西地方の遊郭・赤線跡

大阪河内の南部に、河内長野市というところがあります。
南は和歌山県に接し、高野山への参拝経路として栄えた場所でした。大阪などから高野山へ続く数本の高野街道がここで合流、一本の道となって高野山へと続きます。距離的には高野山へはまだ険しい道が続くのですが、それでも旅人や参拝者がほっと一息つく宿場町として重要な位置にありました。

そして、もう一つ忘れてはいけないのが、楠公こと楠木正成の本拠地、千早赤坂への玄関口としての一面。近代史において、楠公の存在は皇族に次ぐ「申請にして冒すべからず」でした。楠公はお上に忠義を尽くした忠臣なりとは、戦前に教育を受けた人なら耳になんとかが出来たほど聞かされたお話。

今回は、そんな河内長野にあった遊郭…ではなく歓楽街のお話。

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長野新地の形成

長野新地の歴史を語るには、まずは「長野遊園」のことを軽く書かなければなりません。

 

河内長野にあった長野遊園
長野遊園は、南海高野線の前身である大阪高野鉄道が乗客の誘致のために、明治41年(1908)に石川を隔てた約3万坪の敷地を開いた公園で、計画からわずか2ヶ月で完成させた超スピード開園でした。また、近くには温泉も湧き河内長野荘が温泉宿として営業中です。
さらに、戦前は皇族に次ぐ「神聖なる存在」として祀られた楠公こと楠木正成ゆかりの地への玄関口として、河内長野は大阪有数の観光地として多くの人が集まりました。河内長野にまで近鉄電車が走っているのも、その残滓の一つと言えます。

そんな客を目当てに歓楽街も生まれるのは、ごくごく自然の流れでした。
1933(昭和8)年4月の新聞記事によると、河内長野に散在していたカフェーを遊園地に集約し、「全国でも珍しい」というカフェー街の建設が着手されたということで、「一、二ヶ月中に」長野新地がオープンされるとのことでした。
よって、長野新地の誕生日は1933年には間違いなく、新聞記事から5月+1~2ヶ月と推定されます。その経緯があって、大阪府統計書のデータが1934年から出現したのだろうと。
当時の長野町には35軒のカフェーが町中に散在していたと新聞記事には書かれています。気になるのは、カフェーが「町民から苦情」の対象になっていたということ。何の苦情かは記事に書かれていませんが、もしかして、温泉地でもあるのでやましい営業をしていて、カフェーが売春の温床になっていたのではないかと。
もちろん、これは私の推定に過ぎません。が、長野のカフェー街が商店街などの外れ、まるで遊郭のように隔離された理由がそこにあるのではないかと思いたくなります。

なお、「珍しい」というカフェー街、実は大阪にはもう一つ存在していました。それはまた機会があれば記事にしたいと思います。

『大阪府統計書』には、大正13年(1924)にはじめて「長野」の名前が出てきます。
これは遊廓ではなく「花街」としてですが、「(河内)長野に花街があった」ということだけで具体的な数字は不明です。
具体的な数字が出てくるのは、昭和9年(1934)から。

昭和9年1934年13人
昭和10年1935年18人
昭和11年1936年12人
昭和12年1937年8人
昭和13年1938年12人
昭和14年1939年12人
昭和15年1940年8人

(出典:『大阪府統計書』)

数字だけで分析すると、「花街」にしてはこじんまりとしてる感じですが、確かに戦後赤線になった住吉や港新地などの芸妓数三ケタに比べると、河内長野は知る人ぞ知る奥座敷のような存在だったのかもしれません。

 

河内長野の遊郭の地図

戦後の長野新地は、大阪府や大阪府警の資料によると「青線」に分類されています。
こっちは赤線である松島新地が発行していた『松島たより』にも、河内長野は青線に分類されており、昭和29年(1954)8月当時には、”28軒61人”と具体的な数字が表示されていました。この数字の信憑性は確かめようもありませんが、「同業者」が書いた資料なので数字に血が通っているかのような温かみがあります。つまりそれなりに信頼して良い数字だと。

歴史はこれくらいにして、まずは新地を歩いてみましょう。

 

長野新地跡を訪ねる

河内長野駅と長野新地

長野新地への旅は、河内長野駅から始まります。駅のメインゲートは高野街道側の西口となりますが、長野新地へのアクセスは逆の東口。ここは近鉄の長野駅の入り口のようなもので、看板も「南海・近鉄」となっています。
南海はさておき、なぜ近鉄がこんな所まで鉄道を伸ばしているのか。頭ではわかっちゃいるけれど、やはり違和感があります。高野山への参拝客はもちろん、長野遊園や沿線の温泉需要も見込んでいたことでしょう。

 

長野新地

河内長野駅から坂を下ります。
ここにもかつてスタンドや旅館が何軒も並んでいたと大阪府の資料に書かれております。まさに駅前から歓楽街。河内長野は遊郭ではないけれども、駅前留学もとい「駅前遊郭」の称号を授けられる立地条件です。

 

昭和30年代の河内長野地図

写真と同じところを昭和30年代の住宅地図から引っこ抜いてきましたが、大阪府の資料どおりスタンドの名前があちこちに見え、左側には「芸妓紹介所」の名前も見えます。ここは、府の資料では「検番」となっています。

 

長野新地

現在は「こちらが長野新地」なんて表示はなく、うっかりすると見逃しそうな細い道を入ると、写真のような風景にたどり着きます。
これだけを見ると、どこにでもありそうな温泉街の裏路地。どこからか浴衣姿の観光客が歩いてきそうな雰囲気すら感じます。

 

河内長野の長野新地黄金橋

坂を下りると、古びたアーチ橋が視界に入ります。
これは黄金橋という名前で、橋を渡った向こう側は閑静な住宅地となっていますが、ここがかつての長野新地への入口となります。

1933(昭和8)年の4月の新聞には、「町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工」という文字が見えます。「内一橋」がおそらくこの黄金橋だったのじゃないかと思います。

昔にここ界隈に住んでいた人によると、川の向こうは「新地」と呼ばれていて、子どもが近づいてはいけませんと言われていたそうです。それはいかがわしい区画だけでなく、ヤクザが仕切っているエリアで、情報主の方によると実際に発砲事件もあったんだとか。

 

河内長野の遊郭

黄金橋が跨ぐ石川。河内長野と言わなければ、どこかの温泉町のようなこの風景、まるで大阪とは思えないほどのんびりとした時間が流れています。もう少し水量が多ければ、夏になったら黄金橋からヒャッハーと川に飛び込めるのではなかろうか。

 

「遊郭・赤線跡をゆく」のフィールドワークでは、アンテナ感度を毎度フルパワーにして挑むのですが(だから歩いた距離の割には疲れる)、するとこんなものにも反応することになります。

長野新地電柱遊園地

上述のとおり現在は閑静な住宅街になっている長野新地。しかし、電柱は「遊園地」。住宅街なのに遊園地とは謎かけか頓智のようですが、かつてここが「長野遊園」だった残滓が電柱に残っているのでしょう。

 

橋を渡り左に曲がると、新しい住宅が並ぶただの住宅街です。長野新地と何の関係もなさそうなこの場所ですが、昭和30年代の住宅地図を見ると写真右側に「スタンド」「料理屋」の名前がズラリと。ここは紛れもなく長野新地だったのです。
「スタンド」は、1980年代になると「小料理屋」に変わっています。が、この道を歩いていたら「遣り手」の呼び込みが激しかったという証言があり、おそらく「やっていること」は変わりなかったのだと推測されます。
それにしても、現在の姿を見ても、ここにかつてここが飲み屋街だったなど到底信じられないことでしょう。こう書いている私本人が、資料を見てびっくり仰天しているのだから仕方ありません。

 

長野新地の旅館八重

橋を逆に右へ曲がると、長野新地の生き残りの一つ、「八重旅館」が目の前にあらわれます。黄金橋の入り口にも看板があったそれです。
天然温泉ではないものの岩風呂と季節の会席が自慢の宿ですが、私が再訪問した時はコロナ台風のまっただ中。人の気配すらなく、大丈夫なのかと少し心配になってきました。

 

長野新地現存しない建物

「八重別館」の手前には、かつては見るからに置屋のような建物がありました。1960年代の地図では「奄美屋」というスタンドだったのですが、70年代には廃業したのか民家となっていました。こちらは現存していません。

 

河内長野の遊郭

長野新地には、実は何度か訪れたことがあります。が、最後に訪れたのは2009年なので今回は12年ぶりとなります。
長野新地のシンボルと言えるこの建物は健在でした。12年前と何も変わらないその姿、まるでこの区域だけ時間が止まっていたかのようでした。少なくても私の記憶では。

しかし!

河内長野の遊郭

12年前の写真を取り出し見てみると、屋根には草が生え、(すだれ)がなくなっていたりと、明らかに風化が見てとれます。私が来なかった間に空き家になったのでしょうね。

看板に「すなっく古都」と書かれていますが、大阪府の資料によるとかつては「山陽荘」という屋号の料理屋だったようです。この建物、スナックの割には奥まったところまで建物があるので旅館かなと思っていたら、やはり元料亭だったかと。

とある雑誌には、1970年代の長野新地について以下のように書かれています。

 

ここには元赤線(註1)の長野新地があり、川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
(註1:大阪府や府警の資料では青線)

(中略)河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い。そうしたお客を迎えるため、(中略)『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。

この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。マツタケの季節には河内長野、
牡丹のころは長谷寺というように、季節によってあちこち渡り歩く女たちである。

こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら、季節仲居さんを口説いてごらん。(中略)
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・

引用:1970年代某雑誌より

ソースがソースなだけに内容の信憑性となると「…」ですが、固有名詞は間違いないと思います。ここでは「三陽荘」ではなく「山陽荘」となっていますが、地図も「山陽荘」となっています。でも、現地に転がっていた古い看板は三陽(みはる)荘」。さてどれが正解か…。

 

 

長野新地

『八重別館』と『元三陽荘』の間には、新地の奥へ続く、人ひとりが通れるほどの小路(こみち)が続いています。昼間でも少し薄暗く、街灯なんて当然ないので、夜にはあまり通るのがはばかられます。良い子は夜ウロウロしないようにしよう。

 

長野新地

道を進んでいくと、左側に謎の建物を見ることができます。この建物、見上げると6階建て。現在は草木に囲まれてくたびれているように見えるものの、竣工した当時はかなり立派な建物だったと思われます。おそらく温泉ホテルのようなものだと推測できますが、地元の人でも通らなそうな道の横に何故こんなものが…廃墟マニアが喜びそうな物件です。
昭和の住宅地図によると、ここは「千成山荘」というホテルだったようで、外観からしてとっくに廃業…と思いきや、2019年の地図にもいちおう掲載されています。

 

長野新地

もっと謎を呼ぶのが、小路に開かれたお店の玄関のようなもの。12年前に初めて訪問した時は、RPGの隠し道具屋を見つけたような気分と同時に、なぜこんなところに…とい背筋が少し凍ったような気分に。

長野新地謎のお店

12年前の写真は、周辺が掃除されているような気配を感じました。

この長野新地、前述の1970年代の雑誌記事でもお察しのとおり、バブル期頃まで隠れ売春が行われていたと伝えられています。
「石川沿いを歩いていたら声をかけられた」
「河内長野で飲んでたら『新地で女を…』と誘われた」
昭和から平成になった1990年でもこういう話があったそうです。
あくまで私の推測に過ぎないですが、小路に開くこの扉は、売春行為のための「裏口」だったのではないかと。もちろん、かつては飲み屋か何かで営業していたのでしょう。しかし、飲んで酒が回ってくると、
「ちょっとお兄さん…」
と耳元でささやかれ、言われるがままに奥の部屋へと…。

 

河内長野売春

長野新地跡を歩いた人が、これは…といちばん目と心がときめく建物がこれではないでしょうか。なんというか、「見ぃーつけた♪」感が強くなると思います。

しかし、深く調べてみるとえらいことがわかりました。なんとここ、売春防止法が施行された昭和33年(1958)にはなかったのです!

論より証拠、地図を見てみましょう。

長野新地地図

左(昭和36年)には空き地になっているのですが、右(昭和42年)では創価学会の会館ができています。元料亭(半妓楼?)と思っていたのは、妓楼どころか創価学会ではないですかと。本記事の締めはこれだと決めていたので、地図で確認した時は全身の力が抜けました(笑

なお、2009年に別ブログで書いた記事によると、

 

「画像じゃわからんけど、建物から「オーラ」が出とります。旧遊廊・赤線跡を何回か歩いとったら、建物自体が自己主張みたいに「オーラ」を放っとることがあって、俺もそれを度々感じ取ることがあるんやけど、ここもそこのうちの一つでした」

引用:前々マイブログ

何を偉そうに書いているかと思ったら、大ハズレやないかい(笑
お恥ずかしいったらありゃしない気分ですが、いかんせん12年前。まだ遊郭・赤線探偵としても、人間としても青二才の頃でもあり、若気の至りとしてご勘弁下さい。ということで逃げておきます。

そんな「怪しい建物」の無実を確定させ、横にある落合橋を渡って道をまっすぐ行くと、河内長野駅に戻ることができます。さすが「遊園」だけあって一周回って元通り。

河内長野の遊郭

実はここの道筋にも、1960年くらいにはスタンドや旅館が立ち並び、大阪府の資料にも何軒か「あやすぃ」とマークされている場所でもあります。長野新地は、石川を「具」にしたサンドイッチな新地だったのでしょう。

最初にここを探偵してから12年、多少は建物なくなっているだろうなとある程度の覚悟をして臨んだ再探索ですが、意外にも光景はほとんど変わっていませんでした。まるで時が止まっていたかのように。長野新地は死んだ。しかし死せず。こんな自分でも何を言っているのかわからない複雑な感情を抱えつつ、人ひとりいない新地の抜け殻を去りました。

 

こちらのブログ記事もいかがですか?

 


・『河内長野市史 第三巻近現代』
・『南海鉄道発展史』南海鉄道編
・『開業五十年』南海鉄道編
・『大阪朝日新聞』
・某成人雑誌(情報提供主の希望により具体名は省略)
・『河内長野市全商工住宅案内図帳』1961年、1967年
・『大阪府精密住宅地図 全商工住宅案内図帳』1972年
・『ゼンリン住宅地図 河内長野市』1985年、2019年

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