「反対側」にもあった!?目隠し板
現在こそ呉観光の中心地である呉駅の南部、ここも戦前は軍用地でした。
大和ミュージアムや海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館の正式名称)など、呉の観光の中心となっている部分(地図の④あたり)は、戦前は海軍用地。昭和初期の地図でも、赤で塗ったエリア(番号①〜④)は軍用地につき白紙となっています。何もないのではなく、機密につき表示不許可なのです。
地図では少しわかりにくいですが、昭和10年(1935)に開通し「三呉線」と呼ばれていた呉線の三原〜呉間の呉駅東部は、その軍用地に沿って走っています。
しかも、この部分は高架もしくは半高架のようになっており、線路が軍用地を見下ろす形になっています。
せやから、川原石駅周辺にあった同じ目隠し板があったはず!
いや、ないとおかしい!
私が建てた仮説はこれでした。先達のブログを見てもそこまでの発想はなかったようで、ここからは誰も取り上げていません。
呉線の線路沿いを歩き、私のレーダー感度を最大にして探索してみました。
「この世界の片隅に」で、すずが周作の「用事」で職場近くへ向かう手前にある鉄道の鉄橋、こちらは呉線の高架で、鉄橋自体は2010年頃にリフォームされたようですが、基本的な姿は変わっていません。
かつて、ここには「めがね橋」という橋がありました。
この「めがね橋」が、軍の世界と、海軍用語では「娑婆」と呼ばれた一般世界を隔てる橋となっていました。
遊郭の記事や上野芝向ヶ丘町などいくつかのブログで紹介していますが、橋は「娑婆」と別世界へつなぐ象徴。呉も「めがね橋」がその役目をしていたというわけですな。
呉線のガード奥に見える茶色の建物は、戦前の呉の海軍施設の一つで、下士官・兵の集会所でした。
また、集会所の向かいには呉海兵団がありました。すずの旦那の周作が、文官から武官(法務下士官)へ変わる時に訓練を受けなければならないと言っていた場所で、現在でも海自の教育隊として現役です。
こちらも昔は要塞地帯につき、鎧戸を閉めるよう厳しく言いつけられていた地域だったはず。
ここからは「この世界の片隅に」の聖地巡礼とは何も関係ありません。が、すでに出てしまった小便を止めるわけにはいかない、そんなの関係なしで遺構を探してみることにしました。
線路沿いを目を皿にして怪しい物体を探してみると…
明らかに怪しい構造物が残っていました。下の方は「何か」を引っかけるような突起物がありますが、同様のものが川原石駅〜吉浦駅からの車窓からでも確認が取れました。おそらく塀の遺構と認めます。
舞台を「めがね橋」から東へ移します。
現在も高架ですが、開通当時も高架で一部修復されているものの、コンクリートの土台は昭和10年(1935)の三呉線開通当時と変わっていないと思われます。
目を凝らしてチェックしていくと、高架の無機質なコンクリの片隅にこんな構造物をいくつか発見することができます。
用途は不明ですが、これが目かくし塀の遺構ではないかという間接的な証左があります。謎の鉄骨の反対側、つまり「娑婆」である北側には、このような突起物が一つもないのです。
軍用地である南側にはある謎の突起物が北側には全くない…いや、付ける必要がないと仮定すれば、やはりこれは目隠し塀の遺構だろう。私はそう推定します。
仮にこれを目隠し塀の遺構としましょう、最後にこんな疑問が残ります。
これ、どないして使ってたんやろか…
そんな疑問に対する回答を、神様は現代に遺してくれていました。
この世にただ一つ残っていた、「使用当時」の姿…なるほど、こうして使ってたのか!
本来書く予定がなかった、現地で偶然見つけたネタですが、これだけで呉に来た甲斐があったってもんだい。
他にもこんなブログ記事はいかがでしょうか!
コメント
本文中、
「68キロ619メートルから69キロ380メートルの間」
と記されているのは
「68キロ610メートルから69キロ380メートルの間」
の
現在の三原〜吉浦の営業キロは73.4km
と記されているのは
現在の糸崎〜吉浦の営業キロは73.4km
のそれぞれ誤りです。
そういう訳で、この一次資料は、三原起点68キロ610メートル付近から69キロ380メートル付近の間に目隠し塀を新設することに関して広島鉄道局長が鉄道大臣に提出したものとなります。