『鬼滅の刃 遊郭編』の歴史知識 第一章ー張見世

鬼滅の刃遊郭編吉原張見世おいらんだ国酔夢譚
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張見世→写真見世・陰見世へ

その後の吉原は、「写真見世」(または「写真式」)へ移行します。
写真見世とは、貸座敷の中、壁やガラスのショーケースの中写真が貼られており、客がそれを見て敵娼(あいかた)を決めを決める方式。

洞泉寺遊郭川本楼

金魚で有名な奈良県大和郡山市の洞泉寺遊郭跡には、「川本楼」という昔の貸座敷が市によって保存され、見学も可能です。中は…すごいです…よくぞ残してくれた大和郡山市。これだけを見に奈良県に来ても損ではありません。

奈良県大和郡山市川本楼

その玄関はこうなっています。何の変哲もないように見えますが、一説によるとある仕掛けがあるそうです。
キーは奥にある鏡。なんでこんなところに鏡が?
現役の貸座敷だった頃は、ひな祭りの雛が置いてある場所に写真が飾られていたと伝えられています。鏡は、真偽不明ながら、玄関から壁に貼られた遊女の写真を覗くための道具との説明でした。その証左に、写真ではほぼわかりませんが、鏡はまっすぐ設置されておらず、ほんの少し壁側に傾いています。
あくまで伝説の域を出ないですが、『全国遊廓案内』によると洞泉寺遊郭は「写真見世」。言い伝えの根拠としては成立します。

吉原遊郭の写真見世

そして、これが正真正銘の写真見世の写真。遊郭の絵葉書より抜粋しました。絵葉書の表面より、明治末期〜大正前期のものと推定できます。
「河内楼」と書かれているだけで、どこの遊郭かは「河内楼」以外のヒントがなく不明です。が、吉原の見世に「河内楼」の名前があり、おそらくそこではないかと推定しています。
「写真陳列所」にずらりと並んだ娼妓の写真。数えてみると25人分。立派な額に入っていますが、白黒なせいか遺影に見えてしまうのは私だけでしょうか。

というか、写真見世なら…今でもあります。

写真見世

某風俗街の写真…これが現代の写真見世です(笑

もっとも、この写真見世が曲者でした。
貸座敷も商売、遊女という商品をきれいに見せたいのは当然。楼主は腕に自信がある写真師に撮影を頼みます。写真師も商売なので、マニュアルPhotoshopよろしく驚きの写真加工を行い、撮影された遊女本人が

うそ!?これってあたし!?

と卒倒するほどのキラキラっぷりだったそうです。

そんな写真を見て鼻の下を伸ばしながら二階へ上がると…

遊客
遊客

こら!モノが違うやないかい!!!

と客が肩を怒らせながら1階に降りてくる…これも遊郭の日常でした。

また、遊郭によっては、「陰見世(陰店)」を行っていることもありました。陰店を行う妓楼は「陰店を張っている」と表現します。『全国遊廓案内』(昭和5年刊)という、遊郭史を調べている人には必読バイブルがあるのですが、山形県新庄の遊郭の欄にはこんな説明がされています。

店は全部写真式で(陰)店は張っていない

引用:『全国遊廓案内』新庄萬場町遊廓

こちらは、貸座敷の表ではなく裏や建物内で遊女が張見世と同じく並び、客が好みの女の子を指定するシステム。
これも法的根拠があります。

・第三十九条
「娼妓ハ左ノ行為ヲ為スベカラズ」
一.「道路又ハ道路ニ面スル場所ニ於テ目立ツベキ扮装ヲ為スコト」
(大正五年五月警視庁令第八号改正)

引用:「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」警視庁

「娼妓」とは、遊女の法的な言い方です。
「道路や道路に面する場所で公衆を誘惑するような派手な格好するな」と、間接的に張見世を禁止する条項なのですが、裏をかけば「張見世なら店の中でやれ」ということ。裏でこっそり張見世…だから「陰」なのでしょうね。

京都府橋本遊郭の妓楼大徳入口陰店

某遊郭跡にある某貸座敷の玄関。遊郭時代そのままだというその入口は、まさにTHE遊郭にふさわしいたたずまいでした。
その中に、写真の一角があります。上のステンドグラスに目を奪われがちですが、その下、何かを漆喰で埋めた感がしませんか?

京都府八幡市橋本遊郭大徳陰店

裏には、だいたい4畳分くらいの部屋がありました。この部屋は一体何に使われていた?
これが実は陰店の残滓。漆喰で埋めた部分はおそらく何もない空洞で、窓に仕立てたステンドグラス下には遊女の白首がズラリと…という演出だったのでしょう。
この外観は遊郭時代と変わらないそうなので、ここまではっきり残っているのは、全国でも唯一…とは言いませんが、非常に珍しいと思います。

この「遊郭探偵が『鬼滅の刃 遊郭編』を見てみたら」シリーズ、お次は吉原大門でもいかが?

遊廓の歴史はこの記事で!

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