新庄万場町遊郭(山形県新庄市)|おいらんだ国酔夢譚|

新庄万場町遊郭東北地方の遊郭・赤線跡

新庄駅と山形新幹線

山形の新庄といえば、山形新幹線の終点として覚えている人も多いかと思います。
実際に駅はJRにしては珍しい終端駅となっており、実際に駅に来てみるとここは「終点」なのだなという感を思わせます。
当然のことながら、秋田方面へは線路幅がそもそも違うので、新庄駅で必ず乗り換える必要があります。ここから秋田へは、JR東海静岡地区を上回るロングシート地獄がお待ちしております(笑

新庄まつりの山車

鉄道以外の方なら、「庄内おばこ」や「新庄節」、毎年8月に行われる「新庄まつり」でも知られています。新庄まつりの山車はユネスコ無形文化遺産にも登録されています。

新庄は、羽州街道の宿場町や最上川の水運の町として、江戸時代を通して戸沢家が治める6万石の城下町が置かれていました。戊辰戦争では幕府側に加わり、城下町が焼失してしまうなど手痛い目に遭います。
それから約10年後の明治11年(1878)、英国の旅行家イザベラ・バードが奥州街道の旅の途中、新庄を訪れます。

「新庄は人口五千を越えるみずぼらしい町で、水田の続く平野の中にある」

引用:『日本奥地紀行』

「みずぼらしい町」とはえらい書かれようですが、戊辰戦争の復旧もままならなかった上に、彼女は羽州街道への道中でアブやスズメバチに刺され新庄で体調を壊していたので、かなりご機嫌が悪かったと思われます。
しかし、そこで医者を呼んだところ、その医師が非常に丁寧で好印象だったと記録に残しています。

今回は、新庄の遊郭の話を。

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新庄の遊郭

昔の新庄一の繁華街は、駅から10分ほど北へ歩いた「万場町」というところにありました。雑貨屋から銀行まで羽州街道沿いに店が建ち並び、その姿は「(よろず)の店があった」と言われています。そこから「万場町」という名がつけられました。

新庄の万場町

大正時代の万場町ですが、当時はレアだった乗用車が2台も写っているなど、新庄一の盛り場として恥ずかしくない姿が写真に残っています。

新庄の遊里は、そんな万場町にありました。
新庄の遊里が記録に出てくるのは、どうやら明治10年代の頃になるようです。ふつうの繁華街に混ざって遊郭があったということは、おそらく近世からの盛り場あるあるで、宿場町からの遊女屋稼業が明治になって貸座敷(遊郭)として認められたのでしょう。
この時の貸座敷の数は12軒、娼妓の数は34人という記録が残っています1

新庄市の資料では、新庄遊郭の最盛期は大正時代のこと。大正11年(1922)のデータでは、恵比良屋、松川楼、咲吾楼、千歳屋、伊勢屋、花車、神部の8軒の貸座敷に、41人の娼妓がいたと記録にあります。統計書を見ても、この頃が数字の上での最盛期でした。

昭和5年(1930)刊の『全国遊廓案内』には、新庄遊郭はこのように紹介されています。

新庄遊廓は山形県最上郡新庄町字萬場町に在つて、萬場町遊廓とも云つてゐる。(中略)名は遊廓と云ふ事には成つて居るが、事実上に於ては未だ国道に沿ふた宿場に成つて居る。(中略)貸座敷は現在7軒あつて、娼妓は全部で二十八人居る。店は全部写真式で店は張って居ない。
妓楼は福寿楼、千年(ちとせ)楼、常磐楼、立花楼、伊勢屋、松川楼、恵比良楼の7軒だ。
引用:『全国遊廓案内』

大正11年よりは1軒減り、屋号も変わっているものが何軒か見られます。

新庄の町自体は、昭和に入り人口も増加し、成長期を迎えますが、遊郭は逆に時代を経ていくにつれ衰退していきます。
昭和元年(1926)と12年(1937)の増減率は以下の通り。

新庄の人口変化

他の山形県の遊郭も同じですが、昭和に入ると規模が急に縮小されていきます。昭和初期の東北の凶作は山形県も少なからず影響を受けているので、その影響で景気自体がガクンと落ちたのかなと思いきや、芸妓の数は増えてるし、娼妓の天敵である酌婦も、新庄に限っては微減くらいで済んでいます(山形県全体では増加)。
新庄町の統計を丹念にメモっていると、新庄の遊郭は昭和9〜11年にかけての減少が顕著で、昭和9年(1934)の数字は貸座敷6軒、娼妓12人だったのが、3年後の昭和12年(1937)になると貸座敷2軒、娼妓4軒とどちらも3分の1。遊客数や売上に至っては5分の1に減少。遊郭としてはほとんど死んだに等しい数字になっています。昭和12年と言えば、支那事変の出征で他地域の遊郭は戦前最後の打ち上げ花火といわんばかりの大繁盛だったのに。
13年以降のデータがないのが残念ですが、おそらくそのまま消えてしまったのかもしれません。

ところが、戦後の赤線・青線時代になると、新庄は「復活」を遂げます。
昭和30年(1955)の山形県警察の資料によると、新庄には32人の接待婦がおり、売春防止法完全施行前の昭和33年(1958)2月末でも、2件6人の女性が働いていたとされています。売防法施行寸前でも6人もいたということは、その前は常時2〜30人はいたと推定され、山形県でも中規模程度です。
いつもの『全国女性街ガイド』にも、いちおう新庄は掲載されています。特に詳しいことは書いておらず、歴史資料としては情報に乏しいのですが、書き方から不見転(みずてん)芸者が隠れて売春を行っていたように思えます。

私の推測ですが、万場町の遊郭は戦前に衰退し、そのまま消えてしまった。
が、戦後になり市街の芸者が隠れて春を売る行為を行いはじめたと。後述しますが、万場町の遊郭の妓楼は戦後、旅館や料理屋となっているのと、警察資料も山形小姓町鶴岡酒田と比べて「散娼」としていることが、間接的な根拠です。

肘折温泉

また、新庄からバスで約1時間ほどの山奥に、肘折温泉という温泉郷があります。泉質は素晴らしく、水道も天然の湧き水と水が非常においしい、おもてなしが素晴らしい温泉郷です。炭酸泉を汲み上げて砂糖を入れただけのサイダーは、甘さも控え目で非常においしい。
『全国女性街ガイド』には、ここにも酌婦が何人かいたと記述しています。
ここは、良くも悪くも10分も歩けば町の端から端へと行ける、温泉好きには有名ですが、小さな温泉郷ではあります。私も大雪の中端から端まで歩いてみましたが、ここのどこに酌婦がいたのだろうと、首をかしげてしまうほどでした。

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  1. 『新庄市史』より。明治12年のデータ。

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