阪堺線の休止駅・廃駅を考察する

戦後の阪堺電軌(南海電鉄軌道線)の休止駅。海道畑、宮ノ下、大浜支線、中通停留所鉄道史

X(旧ツイッター)のフォロワーさんからいただいた、ある資料があります。

戦後に休止になった阪堺線の駅

昭和27年(1952)の国立公文書館所蔵の資料1です。
当時、阪堺は「南海軌道線」という南海電鉄の一部だったので、当然阪堺電軌は存在しません。が、便宜上本編では「阪堺(電軌)」と表記します。

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国立公文書館の資料から見る阪堺電軌の考察

図を見るといくつか「休止中」の電停のマークが。

1.宮ノ下電停

阪堺線の宮ノ下電停

こちらは空襲で使い物にならなくなり、そのまま休止とされている電停です。
ここについては下の別記事で詳しく考察したので、興味ある方はどうぞ。

2.海道畑

阪堺線海道畑停留所

浜寺駅前停留所から南海電鉄を跨ぐ高架の上につくられた電停。
浜寺公園北部に接続していた新阪堺との連絡も兼ねていたとされていますが、詳細は不明。

こちらも、下の別記事で詳細を記しています。

3.中道

上町線にあった電停。あったことは確かですが、詳細は全く不明の謎の駅です。
あったとされる場所を実地検分したこともあります。上の二つはプラットホームの跡が残っていますが、こちらはその痕跡すらありません。

その他の電停

他にも、休止中になっている電停がいくつか見えます。

1952年阪堺電車の休止中だった電停、駅一覧

「細井川」「花田口」「寺地町」の3つの停留所も、休止駅扱いされています。

花田口・寺地町には特に記載はありませんが、細井川駅のWikipediaには以下のことが記載されています。

細井川停留所、駅の休止中、廃駅の記載

『住吉区史』に記載されているとのことですが、公文書館の南海の資料でも裏打ちが取れたということですね。こちらは廃駅ではなく「休止中」ですが、公文書館の資料は南海が国に出した書類。廃駅ではなく「休止中」が正解でしょうね。
市史や区史でも記載が100%合っているとは限らないのは、米沢遊郭の例で証明済。信頼度は高いけどやはり間違っていることがあるので。

なお、休止中と廃止の違いは、いざ再営業させるときの手間暇が全然違うそうなので、鉄道会社としては少しでも復活の芽があれば、何十年でも「休止中」にしておくと。
それは次の例を見ても明らか。

大浜支線

阪堺休止中の停留所、電停、駅。阪堺大浜支線

かつての「大浜支線」は、点線で表示されているので路線ごと休止中ということでしょう。

大浜支線は、戦前は海浜レジャーリゾートだった大浜公園への足として開業した観光路線でしたが、それ故に戦争中は不要不急路線となり休止、昭和20年(1945)7月の「堺空襲」で大きな被害を受けました。
戦後はどうやら一時期復旧したそうですが、すぐに休止となりました。

昭和31年航空写真

公文書館当時ピッタリビンゴの航空写真はなかったものの、その数年後の昭和31年(1956)の堺駅周辺の航空写真を見ると、土居川を渡る橋も、南海本線を跨ぐ高架も、線路ごと撤去されていることがわかります。
そもそも、南海本線自体が新線に切り替わっていますし。

大浜支線が正式に廃止になったのは、運行休止になってから約40年後、昭和55年(1980)のこと。それまで線路もないのに休止と言い張ってたのですな。

阪堺上町線の住吉公園駅跡の駅舎

そして、この後に廃止になったのは、平野線はもちろん、上町線の住吉〜住吉公園駅間も忘れてはいけません。
しかし、路線は廃止になっても住吉公園の駅舎はまだ健在です。

というわけで、阪堺チンチン電車の休止駅の話はここまで。

  1. 1952年(昭和27年)5月7日付、車甲第279号、南海電気鉄道発、運輸・建設両大臣宛、『車両設計変更認可並びに特別設計許可申請書に対する追伸書』中の第1号図 併用及び専用軌道区別図
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