新阪堺線(大阪市電阪堺線)と幻の浜寺駅

新阪堺阪堺電鉄鉄道史

浜寺公園が、かつては海水浴場や大料亭を備えた関西屈指のリゾート地だったことは、前回のブログで述べました。

そこには、かつての繁栄ぶりを示す、もう一つ、いや二つの「駅」が存在していました。
地元からも忘れられ、見向きもされていない駅のお話を2回シリーズで。今回は、南海・阪堺ともう一つ、浜寺まで走っていた「もう一つの阪堺」の話を。

 

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新阪堺

現在の浜寺公園近辺を走っている鉄道は、南海電鉄と阪堺電気軌道の2本のみです。が、昭和初期にはもう一本走っていました。それが俗に「新阪堺」と呼ばれた鉄道です。
短命すぎて歴史のごみの山にうずもれていた感があるこの鉄道、正式名称は「阪堺電鉄」。しかし、現在残る「阪堺電気軌道」とは何の関係もありません。
この阪堺電鉄、路面電車という形態も「阪堺」という名称も、先輩格の「阪堺電気軌道」(当時は南海阪堺線)と非常に紛らわしいため、周囲は「新阪堺」と呼んでいました。
こういう経緯があってややこしいので、以下阪堺電鉄は「新阪堺」、阪堺電気軌道は「現阪堺」に統一します。

新阪堺は昭和2年(1927)3月、新規の鉄道会社として大阪市の芦原橋から堺市北部の三宝車庫前まで開業しました。現在の府道29号線(新なにわ筋)を走り、住之江競艇場を横目に大和川を渡り、堺市へと向かうルートで、同年10月には龍神通(現在の大浜北交差点近辺)まで開通し、浜寺に次ぐ海浜リゾートだった大浜へのアクセスを果たしています。
7年後の昭和9年(1934)7月に湊ノ浜間まで、翌年には浜寺間まで延伸され全区間が開通しました。地元風に言えば、「旧26」をチンチン電車が走っていたというわけです。

 

堺龍神阪堺新阪堺ダイヤモンドクロス
龍神通停留所近辺では現阪堺の大浜支線(戦後すぐ休止≒廃線)と平面交差し、線路は「ダイヤモンドクロス」になっていたはずです。そして龍神通からは、大浜-出島-湊ノ浜-下石津-石津川橋-諏訪ノ浜-浜寺という停留所で続いていたようです。

しかし、「鉄道を敷いてはみたものの」で、経営は四苦八苦の連続でした。
上記のとおり、昭和2年に三宝車庫まで開通するのですが、その1年後の航空写真を見てみると…

 

1928三宝付近航空写真新阪堺

とても集客力のある場所とは思えません。というか、何もありゃしません。
現在は大小の工場や住宅が密集している地域なので、この何もないっぷりはかなりの驚きです。
最終的には浜寺まで線路を敷く計画だったとは言え、これは乗る人いないんじゃないのと。

また、沿線の競争相手は南海鉄道(当時)。当時は「現阪堺」も南海の一路線だったので、まさに大阪南部に君臨する横綱。
新阪堺は同じく海浜リゾートだった堺大浜への観光客も見込んでいたと思われるので、
「堺海浜リゾート」(仮名)の輸送を独占していた南海の客をかすめ取るべく喧嘩を売っているようなものでしょう、
しかしながら、同じ競合でも阪和電鉄は「超高速」を売りにしていた反面、「チンチン電車」だった新阪堺はほとんど差別化できず。むしろ開業当初から負けフラグ。
自分の縄張りを侵す者には容赦ない南海も、ほとんど相手にしていなかったでしょう。
「おい軌道線(現阪堺)、お前相手にしろ。俺は阪和を殺る」
という感じだったと思われます。

NEXT⇒新阪堺、存続のピンチ

コメント

  1. mymy より:

    こんばんは。ちょっと位置が違いますし新阪堺ではありませんが、40年ほど前浜寺公園正面の門あたりから南西に幅の狭い線路状のレンガが埋め込まれたコンクリートの舗道がありました。(今はない?)こちらは阪堺線が現在よりも線路が伸びてて公園内に終点が存在して、そのモニュメントでは?とかいう話を聞きましたが、真偽はわかりません。

    • ちりとてちん より:

      今年64才の元堺市住民です。私もその記憶はあります。阪堺電鉄(第一期)の営業路線申請にも、浜寺から浜寺終点の200Mがあります。父母や親戚からも聞いたことがあり、小学校時代に遊びに行ったときにも見ているはずです。懐かしい思い出を呼び出して頂き、ありがとうございました。

    • 米澤光司 より:

      >mymyさん
      はじめまして、コメントありがとうございます。
      そのコンクリートの舗道みたいなもの、私もうっすらですが記憶があります。40年前ならあそこ界隈でよく遊んでいたので。
      その記憶が当たりかどうかは知りませんが、なかなか面白そうな話ではあります。

  2. 西天王 より:

     西天界隈(西天下茶屋近辺)で生まれ今も住んでいる70才老人です。
     幼少の頃、この電車で大浜へ海水浴によく行きました。市電三宝線と言っていましたが、明治生まれの祖父は「新阪堺線」と呼んでいました。
     津守電停から乗車し、加賀屋付近に至ると、一面の農地の中を電車は走り、線路は無舗装の土の上、しかも電車の横を農夫が牛に荷車を曳かせて通っていました。市電は舗装道路の敷石の上を自動車と一緒に走るものと思っていたので強い違和感を持ちました。
     大和川を渡り三宝電停を過ぎると間もなく国道26号線に合流し、ほどなくガタガタとポイントを横断しました。これが記事に記載のダイアモンドクロスで、既に東西の線路は無くダイヤモンドクロスだけが残っていました、子供ながらどこに行く電車が走っていたのか疑問に思っていました。
     やがて、大浜で埋立が始まり、この電車で海水浴に行かなくなったので、いつポイントがなくなったのかは分かりません。昭和30年代前半の記憶です。

  3. しゅらく より:

    はじめまして。しゅらくと言います。新阪堺のことに興味を持っている堺市民です。
    南海大浜支線と新阪堺線の平面交差の上空写真が見て、興奮して思わず、コメントを寄稿した次第です。
    私も新阪堺線について、少し調べており、両者の平面交差は通行に関し、優劣のあったものだったとのことです。
    つまり、とさでん交通のはりまや橋電停のような平面交差ではなく、
    伊予鉄の大手町駅踏切のような平面交差だったとのことです。
    南海大浜支線が伊予鉄・鉄道線の立場で、新阪堺線が伊予鉄・軌道線の立場となります。なお、国道には遮断器がありました。
    貴サイトにある写真ではたまたま南海大浜支線の龍神駅から大浜海岸方面に車両が出発しているところであり、国道上には新阪堺線の芦原橋方面の車両が遮断棒前で待機しているところが写っています。なお、新阪堺線の車両の手前に国道に対し直行する2つの平行する影が写っています。これが遮断棒と思われます。
    新阪堺線が大浜支線を越えるのにかなり苦労したようで、龍神通から湊ノ浜まで延伸するのに5年かかっています。南海としては浜寺方面に新阪堺が進出されるのはかなり嫌だったようで、この平面交差で色々と要求を出し、延伸のネックになっていたようです。最終的に大浜支線の運行を優先することで平面交差できるようになったとのことです。
    参考になれば、幸いです。よろしくお願いいたします。

    • 米澤光司 より:

      >しゅらく様

      はじめまして。拙ブログを御覧いただきありがとうございます。
      貴重な情報をありがとうございます。なるほど、優先順位があったのですね。
      こちらを本文に反映させたいのですが、追記させていただいてよろしいでしょうか。

      >新阪堺線が大浜支線を越えるのにかなり苦労したようで、龍神通から湊ノ浜まで延伸するのに5年かかっています。南海としては浜寺方面に新阪堺が進出されるのはかなり嫌だったようで、この平面交差で色々と要求を出し、延伸のネックになっていたようです。

      常識的には嫌でしょうね…ほぼ路線が重複しますし。

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