堺と湊の間にあったもう一つの駅
2022年現在、本線の堺駅の次の駅は湊という駅となっています。現在の堺駅のやや南側、現在のフェニックス通りを隔てた側に旧龍神駅が、コンフォートホテル堺の位置に旧堺駅があったのは、以下のブログで説明しました。
実はもう一つ、駅が存在していたのをご存じでしょうか。
堺と湊の間にかつて小さい駅があって、いつの間にかなくなっていた
という話は歴史を調べているうちに気付いていました。実際、調べてほしいという依頼はTwitterでもあったのですが、試しにググってみても出てくるのは軌道線(現在の阪堺電気軌道)の大浜支線のことばかり。調べるといってもその種すらないまま、月日だけが過ぎていきました。
そんな幻のような駅、龍神駅の乗客推移を『大阪府統計書』で調べていくと、奴は唐突にその姿をあらわしました。
奴の名前は大浜(大濱)駅。
堺市の近代史を綴った『堺旧市雑史録』によると、大浜駅は明治40年(1907)に開業しました。統計書にもその年から登場するので、これは間違いないと思います。
絵はがきの右にある多角形の建物は、駅舎でしょうか。この駅については、「あった」ということはわかったものの、それ以上の資料に乏しく詳細は不明です。
この駅の設置理由は、ずばり大浜海岸への海水浴客。
大阪湾の海水浴場と言えば浜寺が有名ですが、大浜も夏場になると納涼を求めて関西中から客が殺到。言わば大浜~浜寺あたりが「大阪海浜リゾート」となっていました。
海岸が埋め立てられ工業地帯になっている現在しか知らないと、ホンマかいなと到底信じがたいことです。が、黄金の日々の最後(昭和2~30年代)を知る私の親世代によると、戦後でも毎年夏には海水浴客が殺到、母方の祖父は夏場だけアイスキャンデーやわらび餅売りのバイトをし、それが飛ぶように売れたそうです。
大浜駅ができた数年後、南海を揺るがす強力なライバルが出現しました。阪堺電気軌道の登場です。
明治45年(1912)、阪堺はより海岸に近い大浜海岸までの支線を開通させ、大阪市内の恵美須町までの直通電車を走らせました。
しかも翌年に大浜公園に潮湯を開業させ、大阪海浜リゾートへの集客に力を入れていきました。
南海と阪堺なんて競争になるんかいな?
とお思いでしょうが、実はいい勝負どころか、大浜までの輸送に関してはむしろ南海が押され気味だったとも言われています。その間接的な証拠がこれ。
阪堺との熾烈な競争の末、なんと期間限定料金半額セールを行っていたのです。南海の圧勝ならこんなセール、やる必要すらありません。
しかし、血で血を洗うような南海vs阪堺のバトルは、お上から待ったがかかります。そして妥協の末、大正4年(1915)に南海と阪堺は合併。阪堺の方は「南海軌道線」となりました。
晴れてライバルを消した南海、大浜リゾートへの輸送を独占することになりましたが、そこで要らない子扱いされたのが大浜駅でした。
大正5年(1916)、『官報』にこんな通知が。
私鉄鉄道停車場旅客取扱廃止
『官報』大正五年十二月二十二日1
南海鉄道株式会社より大浜停車場に於ける旅客取り扱いを本月14日限廃止の旨届出てたり(鉄道院)※原文は旧字体カタカナ
『大阪府統計書』には翌年の大正6年まで客扱いされている数字が出ているのですが、この通知から大正5年の数字だったのでしょう。
そして、国立公文書館での文書でも確認を取りました。
統計書からは大正7年(1918)から旅客の数字が消え、貨物駅扱いとなります。
その貨物取扱量も徐々に減っていき、統計書にあらわれる最後の年が昭和2年(1927)。この年の貨物取扱量は1日あたり1トン。隣である堺駅が貨物ターミナル駅として充実したため、この年をもって要らない子扱いされたのでしょう、翌年から大浜の文字は消えています。
公文書館でも、次の文書が見つかりました。
昭和3年(1928)、大浜駅の縮小を国に申請した文書です。
大浜駅が貨物駅として残った理由の大きなところは、駅周辺が工業地帯だったこと。大浜駅関連に限定した場合、窯業とのかかわりが強かったようで、この公文書も「窯業工場閉鎖につき規模縮小」となっています。
堺の特産といえば、今は包丁に自転車部品ですが、古墳時代からの窯業の中心地でもありました。須恵器・土師器という名称を学校の歴史の時間に習ったことがあると思いますが、その日本一の生産地とされているのが堺。現在の中区・南区で土を掘ると窯の跡があちこちで発掘され、通算1000基近く見つかっています2
近代に入ってもレンガ生産工場が堺のあちこちにあり、建物の材質が鉄筋コンクリートに変わるまで日本中のレンガを生産し続けました。
そして昭和17年(1942)、大浜駅の運命の時がやってきます。
正式に廃駅となる手続きがやって来ました。というか、駅としてはすでに昭和はじめに機能停止だったとしても、廃駅までには10年以上の月日が経っていたというのが、公文書から見える発見でした。
廃止の理由は、大阪窯業という会社の材料の積み下ろしのための駅として細々と存続していたものの、それも工場閉鎖により駅としての存在価値がなくなった。端的に書けばそうこうことです。
Where was 大浜駅?
さて、資料少なすぎで堺市民や鉄道史好きからは半分フィクションと化している南海大浜駅、これで存在は確認した。さて、肝心の場所はどこなのか。
龍神駅開業すぐのころの大正3年(1914)2月26日の『官報』に、大浜停車場の距離が数字で示されています。
私設鉄道停車場位置変更
『官報』大正三年二月二十六日3
南海鉄道株式会社大浜停車場位置変更の結果哩程異動左の如し
堺大浜間 哩分0.4
大浜湊間 哩分0.5
(哩:マイル) ※原文は旧字体カタカナ
0.4マイルは約643m、0.5マイルは約804m。堺~湊間は戦後に路線変更が行われており、現在の路線は参考になりません。が、幸い旧路線は龍神・栄橋遊郭の調査時に合点承知の助なので計測は楽勝。
そして何より、昭和3年(1928)の大阪市航空写真には跡がくっきり残っていてもおかしくない。ほのかな期待を込めて。
すると、見つけました。
貨物駅だったのでそこそこ敷地取ってるだろうなと推定すると、ぴったり0.4マイルの位置にそれらしき跡がありました。
現在の位置になおすと、ここあたりとなります。もちろん、現在はそこに駅があったという面影は微塵もありません。堺の空襲でここあたりは瓦礫の山と化した上に、昭和30年(1955)頃に南海の線路自体も現在の直線的な路線に敷き替えられており、地元民からも完全に忘れ去られた存在となっています。
南海電鉄歴史紀行は他にこちらもあります!
- 国会図書館デジタルアーカイブコマ番号8
- 堺市HPより。
- 国会図書館デジタルアーカイブコマ番号5
コメント
こんにちは。
いつも楽しく読ませていただいております。
大浜駅のほぼ同じ位置を、ストリートビューで見ていますと、海側の線路沿いに南海電気鉄道堺変電所があります。
もしかすると、変電所の敷地は旧大浜駅の駅舎部分の流用なのかもしれませんね。
>はちべ様
こんばんは。いつも拙ブログをご覧いただいてありがとうございます。
変電所は盲点でした。場所を調べてみたらまさにビンゴの位置にあるので、敷地を流用した可能性がありますね。
もう少し調べてみようかと思います。
時系列地形図閲覧サイト 今昔マップ on the web で1892~1910年の地図でも駅が確認できました。駅名は らはしあ?と書いてあるように見えて意味不明ですが。駅の横に窯業会社がありました。
「らはしあ」は「芦原」ですね。「名所旅行案内」(1918)にも記載がありました。
https://www.google.co.jp/books/edition/%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E7%90%86%E9%9B%86%E6%88%90/94D0GXKtVjoC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP371&printsec=frontcover
芦原停留場の時代があったのか、正式名と通称名が違っていたのか、何でしょうね。面白いです。