福島一本杉遊郭(福島県福島市)|遊郭・赤線跡をゆく|

福島一本杉遊郭東北地方の遊郭・赤線跡
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福島の遊郭史

そもそも福島という町は、城下町と同時に奥州街道沿いの宿場町として栄えました。街道沿いにある北町(北裡)は旅籠が集まる通りとして賑わいをみせましたが、その中には飯盛女を抱えた遊女屋兼業もあり、大人の盛り場としての面もあったのは、他の宿場町と同様です。

近代に入って以降も状況は変わらず、遊郭・花街・宿屋が混在する形になっていました。明治12年(1879)の福島の貸座敷数は18軒、娼妓数は114人という記録が残っています1

明治35年(1902)、町の中心にあった遊郭は、当時の福島町長の決断で郊外の一本杉に移ることになりました。遊郭が一本杉に移ったのは明治34年という資料もありますが、ここは郷土史に従います。
その時移った遊女屋は、渡利楼、湯野屋、花野屋、高木屋、丸井楼、大野屋、吉野屋、吾妻楼、常盤楼、えびす屋の10軒。えびす屋はすぐ廃業したそうなので、実質9軒といったところか。移転当時は、それぞれの妓楼に7~13人の遊女を抱えていたといいます。

 

福島市の地図と一本杉遊廓

遊廓があった場所は、現在でも駅から歩いて6~7分のところ。郊外といってもそれほど郊外には感じないかもしれません。
が、遊廓は当時の市街地とは真逆の方向に作られたことが、この地図からわかります。大正後期の地図ですが、郊外だったさまがよくわかると思います。
また、上の地図の頃には市街地から遊郭への道も開かれ、大通りの両側に桜の木を植えることになりました。

福島一本杉遊郭

一本杉遊郭を写した絵葉書には、その桜の木が史料の記述どおりに植えられており、遊里に華を添えられれています。

郷土史によると、一本杉遊郭の主な客は近隣の百姓が多かったそうです。昭和12年(1936)までは、午後3時に鳴る寄せ太鼓の音が近所の田畑をふるわせ、若い男はその音にいてもたってもいられず家へ帰り、良い服に着替えて日賃を懐に入れ、夕方6時の開廓の時間に合わせて遊郭に走っていたという話が伝わっています。
娼妓達(あねさん)も、夏は5時、冬は7時までに食事・入浴・化粧を済ませて髪を結い上げ、店の前に立ちました。

一本杉遊廓の営業時間は日が変わった0時までと決まっており、時間が近づくと金棒を突いて店じまいを知らせていました。が、実際は2時3時、時によってはオールナイトだったと伝えられています。

 

一本杉遊郭の推移

明治34年(1901)以前、つまり遊郭が一本杉に遷る前の貸座敷数は17~18軒、娼妓数も100名を超えてその賑わいが数字でもわかります。
明治10年代はそれで推移していましたが、20年代に入り徐々にその数を減らしていき、一本杉に移転後は貸座敷数10~11軒、娼妓数6~70人台とパワーダウンしています。

おなじみ『全国遊廓案内』(昭和5年)には、以下のように書かれています。

 

貸座敷は目下9軒あって、娼妓は約70人居る。何れも県下の女が多い。

引用:『全国遊廓案内』

『福島県統計書』の数字と照らし合わせると、貸座敷9軒は合っているものの、娼妓数は昭和元年~4年を平均すると約37人。ほぼ半分の数字です。
さらに、『全国遊廓案内』にはこんなことも書かれています。

 

公娼は廃止されても、必ず何等かの形式で、此れと同様なものが出来るから、さうしたら、妓楼は差当り埼玉県、群馬県等に見る様な、乙種料理店に早変わりするものと見られて居る。

引用:『全国遊廓案内』

なんの脈略もなく突然こんな文が出てきて、一体何のこっちゃ!?と首をかしげてしまうような謎の文章です。私も最初これを見た時は頭を抱えてしまいましたが、郷土史料を見ると「ああ、このことか」と謎の文章の背景がわかる話が出てきます。

遊郭は人身売買である、国が売春を認めるのはおかしいという公娼廃止運動は、明治時代から叫ばれていましたが、福島県はその声が強い方でした。そのため、明治23年(1890)と24年(1891)に県議会にて公娼廃止案が審議されましたが、そのたびに流産した模様です。
が、昭和3年(1928)、県議会でついに廃娼が決定します。おそらく数年以内に福島県の遊郭が全廃になり、既に公娼を廃止している群馬県、埼玉県に続く廃娼県となることが決定しました。『全国遊廓案内』の記述は、県議会での議決に対しての反応だったのです。

が、結果的に福島は戦後の売春防止法完全施行まで赤線として残ったので、議決は実行されることなく形骸化しました。
その理由の一つは、私娼の跋扈。公娼は人身売買なので廃止だというのはごもっともではありますが、かといって売春行為がなくなるわけでもないし、その根本にある貧富の差や貧困がなくなるわけではない。

廃娼だ!

といくら叫んでも、売春という面から見るとただの理想論。
密売淫は大正から昭和にかけて全国規模で増えており、福島県でも公娼廃止の声と共に遊郭は規模を縮小していきました。

貸座敷数娼妓数
明治15年(明治期のピーク)18127
大正2年(大正期のピーク)1072
昭和2年932
昭和5年933
昭和10年717

ところが、前述のとおり、遊郭が衰退=売春がクリーンになったわけではありません。私娼がその分増えてしまい、結果的に「売春無法地帯」になってしまうことに。
1950年代、中国では「農作物を食うスズメを退治しよう」運動が行われました。全国規模でスズメを退治し、中国にスズメがいなくなったほどでしたが、天敵がいなくなった害虫イナゴが逆に大増殖。作物を食い荒らし、中国全体で飢饉が起こったことがありました。「害鳥」をやっつけたぜヒャッハーと躍っていたら、「害虫」が大増殖…まるで公娼と私娼の関係に思えませんか。

私娼はヤミなので実態を把握しづらいものの、公娼である遊郭の衰退に反比例して、私娼の代名詞でもある「酌婦」の数が増えています。『福島県女性史』でも、娼妓数の減少と酌婦の増加が表にあらわれており、遊郭を無くしたからといって売春がなくなったわけではないと間接的に認めています。

だから、『全国遊廓案内』の編者は、

どうせ「乙種料理店」と法的な営業形態が変わるだけで、遊郭は実質的に残るんでしょ。。。

と冷めた見方をしているのでしょうね。

結局、廃娼は実行されないまま、しかし公娼は衰退したまま昭和の戦争の時代へと進み、戦後を迎えます。

 

戦後の福島の赤線

残念ですが、戦後の赤線青線ガイド『全国女性街ガイド』に福島の赤線の紹介はありません。代わりにといっちゃなんですが、東北屈指の名湯、飯坂温泉のことは詳細に書かれています。
詳細は省略しますが、飯坂温泉にも遊郭・赤線があり、『全国女性街ガイド』によると13軒に64名。おそらく一本杉を凌駕していると思います。

対して福島市内の方はどうか。
昭和29年(1954)当時の資料を見てみると、「特飲店」は以下の通り。

福島赤線特飲店

ほう…昭和の遊郭衰退期よりは店の数多くなって栄えてるやん。そう思ってしまいますが、店のすべてが矢剣町(一本杉)にあるわけではない。
特飲店=赤線なのは名前からして確定なので、福島の赤線は市街地に複数あったということ。矢剣町の他に、一体どこにあったかというと、福島駅前あたりの陣場町、置賜町近辺その他…それだけ申しておきましょう。

そしていつもの昭和33年(1958)4月の売春防止法全面施行前に、福島の赤い灯は消えたと推定されます。

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  1. 『福島県警察史』より

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