元妓楼から出てきた飛田新地の地図を考察する。

赤線のときの飛田新地の地図 遊郭・赤線跡をゆく
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妓楼から出て来た古い飛田新地の地図

とある遊郭の元妓楼(貸座敷)から、あるものが出てきました。

箪笥の内側に地図が貼られていたそうなのですが、よく見ると

「飛田新地」の文字が!

飛田新地の古い地図

そう、これは在りし日の飛田新地の地図なのですが、これはもはや古文書が見つかったようなもの。かなり貴重な文献です。

細かく見ていくと、この地図情報量がかなり多い。

飛田の桜木通、山吹通、大門通、弥生町通、若菜町通

飛田遊郭の歴史編では、「飛田遊郭」の東西の道には名前があり、それにちなんだ俗的な「町名」があったことを述べました。

半分くらいは伝説と化していたこれですが、

戦前の飛田新地の地図
黄線:桜木町、青線:山吹町、赤線:大門通と書かれている

それが本当であることがこの地図から判明しました。

ここで問題が。

これはいつの時代の地図なんや?

最初、というかパッと見は戦前のようでしたが、どうやらそれにしては引っかかるな…と画像だけながら細かく見ていくことにしました。

今回は、結論から先に申し上げておきましょう。

これは…

戦後の昭和20年代の赤線時代の地図です!

さて、ここからその根拠を述べていきます。

地図が赤線時代の飛田新地である根拠① リンタク

まずは、しれっと書かれている「リンタク」の文字。

リンタクとは一体何ぞや?

戦後の輪タク(リンタク)
昭和館デジタルアーカイブより

リンタク、いや輪タクとは自転車の後ろに乗車スペースをつけて、というより人力車の前に自転車をつけて動力にした乗り物。
海外経験豊富な人は、インドのサイクルリクシャー、マレーシアのトライシャをイメージするとわかりやすい。

戦後すぐのガソリン不足から自然発生した乗り物で、昭和22年(1947)に東京で営業を始めたのが始まりとされています。
その後一気に全国に広まったものの、ガソリン供給が安定してからは急速に廃れ、都市部では昭和30年(1955)にはほぼ見なくなったといいます。

よって、リンタクの文字がある自体、戦前のものではないという理屈が成立します。

地図が赤線時代の飛田新地である根拠② 店の名前

二つ目は、掲載されている「お店」。

戦前の遊郭時代、飛田の妓楼には大きさによって大中小のランクがありました。

飛田新地は遊郭経営史を塗り替えた、不動産屋(デベロッパー)が管理する「オール賃貸遊郭」でした。

既存の遊郭が「商店街」なら、飛田は「郊外型ショッピングモール」。言わば飛田は「遊郭界のイオンモール」だったのです。

そのランクの中には、「特大」が5件だけ存在していました。その名は巴里、御園楼、都楼、日の本楼、世界楼1
うち、世界楼と日の本楼は遊郭時代と同じ場所で、「楼」を抜いた名前で赤線時代も営業していたのは確認済です。
戦前のものなら、公娼なので見世の名前には「◯◯楼」とつくはず。

赤線時代の飛田新地の古い地図

しかし、地図にはついていない。

戦後は公娼制度がなくなりすべて「私娼」となったためか「◯◯楼」を名乗ることはなく、「楼」を省いた名前で営業してたことが多かったため、地図の記載と合致。

地図が赤線時代の飛田新地である根拠③ 遊郭の南半分の記載がない

最後の三つ目は、大通りから南が白紙なこと。

昭和20年3月から始まった大阪の空襲で、大阪の遊郭は軒並み焼けています。

大阪の遊郭と空襲 飛田新地は燃えたのか!?|米澤光司 日本近代史note
序:大阪の遊郭の空襲被害 先の戦争時、周知のとおり大阪も空襲の被害を受けました。大阪府全体で死者12,620人、行方不明者2,173人だと言われ(1945年10月大阪府警察局調べ)、一説によると15,000人を超えているとも言われます(ピー...

飛田も例外ではなく、「一部」が焼失しています。

が、これは他遊郭が

筆者
筆者

こりゃ焼失というより「消失」やな…

と言いたいほどに灰となった中、「一部」だけなら奇跡中の奇跡。

事実、飛田は敗戦後すぐから「大阪で唯一焼け残った遊郭」としてその業界では一人勝ち。戦後の松島の復活資金も出す余裕までありました。

飛田が焼けた部分は…

1945年の大阪大空襲で焼失した飛田遊郭の場所。「百番」はギリギリ焼けていない

実は大通りより南が焼けたのです。だから南半分が「白紙」なわけ。そりゃそうです、焼けてなにもなかったのだから。

ちなみに、地図のとおり現在でも残る「百番」は、ギリギリ焼け残っています。

  1. 『上方』第28号より
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