薄野遊郭跡を歩く
ご存じのとおり、現在の薄野遊郭跡は札幌一の繁華街すすきのとして健在です。札幌に行ったことがなくても、「すすきの」という名前は聞いたことがある人は多いと思います。
その遊郭跡は繁華街の真ん中ofど真ん中。南4条~6条西3~4丁目の範囲にあたります。
遊郭赤線跡を回ってきても、ここまで繁華街の真ん中すぎるところは珍しい。あまりにど真ん中すぎて、数々の遊郭跡を回り目は肥えているはずの私も
ホンマにここでええんやろな?
と、図書館でGETした地図とGoogle mapをを何度も見比べて確認したほどでした。札幌の道筋が、遊郭がここにあった時代と全く変わってなかったのが幸いでした。
しかしながら、遊郭としてはすでに100年前に移転した抜け殻。1世紀の月日がその残滓をきれいさっぱり洗い流しているだろう…
いや、きれいさっぱりどころか先祖返りしたバリバリの「現役」でもあったりするので、大阪市某所のラブホ街といい、血…いや地は争えません。
札幌市は条例で声かけなどの客引きは厳禁だそうで、表面上は至って静かです。
しかし、少し目をやるとこれなんかまさに現代風の「写真見世」やんかと。これもある意味遊郭の残滓と言えないこともない(笑
それはさておき、すすきのには意外な形で残っている遊郭の遺構があります。
この写真をご覧下さい。矢印の方向に撮影したすすきののど真ん中の写真ですが、何か違和感ありませんか?
ん?確かに喉に何か詰まったような違和感が…と思った方は鋭い。
ダイキンの看板がある奥の建物が、手前の道に比べて突き出ていませんか?
これ、気のせいでも撮影角度の問題でもなく、実は遊郭があった証拠の一部なのです。
薄野遊郭の周囲は「廓」、つまり土塁の廓で囲まれていました。遊廓の「廓」はある区画を囲った土塁(堀や板塀も含む)という意味で、「遊廓」とは何かを文字通り説明すると「区画を決めてそこを何かで囲った歓楽街」という意味なのです。
で、札幌の定規で線を引いたような都市区画は、薄野遊郭の土塁込みで形成されました。
よって、遊郭が白石に移転し土塁が要らない子になって撤去されても、道幅は昔のまんまで現在でも反映されていると。
つまり…
この幅の差は、ほぼ土塁の幅でもあったということなのです。
これはGoogle mapにも反映されていない、現地に行って五感を稼働しないとわからないビミョーな差。建物だけではない、これも立派な「遊郭跡」なのです。ど真ん中過ぎて、地元民でもおかしいな…いや気のせいか…程度かもしれません。
そこで、私は考えました。
じゃあ、逆の方向はどうやろか?
逆方向も、東方向ほどはっきりはしていないものの、やはり旧遊郭エリアより突き出ている感じがします。読者の皆さんは写真を見てどう感じますか?
大正時代の地図を見てみると、現在の地下鉄すすきの駅の下の点線で囲まれた遊郭の北の部分が、周囲と比べて気持ち凹んでる感がありますね。
そしてよく見ると…南側も気持ち凹んでいるような…!?
遊郭跡の南側には、上述した「すすきの市場」があります。現在の建物は昭和40年代に住宅整備公団(現UR)が建てたものであり遊郭とは何の関係もありませんが、すでに述べたとおり歴史は遊郭が白石に移った直後から、もうすぐ100周年なのです。
北側の「凹み」を頭に入れると、このすすきの市場もなにやら横(東西)には長いけど縦(南北)はえらい狭いという不自然な形だと思いませんか?
すすきの市場の北側には、なにやら意味深な細い路地が…定規で線を引いたような札幌の道筋の中で、ここは異物感満載。地元の資料によると、これがかつての遊郭の南端だったとのこと。
もちろん、現在はそれを示す痕跡は全くありません。が、現在でも風俗店らしき怪しいお店が並び、すすきのの「先祖返り」の一端を垣間見ることができます。
すすきのの古神社ー豊川稲荷札幌別院
すすきのの南端に、豊川稲荷神社があります。ビルの谷間に埋もれて、こんなところに神社があったの?と気づかない人もいると思います。かく言う私も、存在は知っていたけれども一度は通り過ぎてしまったほど、ビルの谷間に溶け込みすぎています。
そんな神社ですがその歴史は非常に古く、薄野の遊郭が繁盛していた明治27年(1894)、地元の酒造業者の波多野与三郎が遊郭や花街の楼主たちに声をかけ、商売の神様であるお稲荷様を呼び寄せようとお金を集めました。集まった浄財は、現在のお金で1億円ほど。人々の信心深さを象徴すると同時に、娯楽の多様性がほとんどなかった時のお水系商売って儲かってたのねんと思わせるお話です。
完成したのは明治31年(1898)、それ以来すすきのの守護神として同じ場所に鎮座しています。
豊川稲荷って、「稲荷」なので神社と思われがちです。が、実はれっきとしたお寺さん(曹洞宗の寺院)だったのです。洲崎遊郭の探索で東京の豊川稲荷に行った時、境内にただよう寺院臭に、神社と思いこんでいた私は少し混乱したのですが、やはりお寺さんだったのねん。
豊川稲荷は寺院なのですが、すすきのの別院は1階がお寺、2階が神社となっている神仏習合スタイル。お寺なので観音菩薩像があるし、神社なので狛犬がいる。参拝は二拝二拍手一拝、御朱印もあります。
寺の中に神社がある…いや、神社の中に寺がある…西洋の概念で言えばキリスト教の十字架とユダヤ教のダビデの星が仲良く同居しているようなものなので、欧米人がここを見たら敬虔な信者なほど価値観が破壊されるだろうなと。
それはさておき、境内には薄野遊郭にまつわるものがあります。
「薄野娼妓並水子哀悼碑」と書かれた碑があります。境内の入り口横にあるので、豊川稲荷に入ったら視界に入ることも多いこの碑が、すすきのがかつて遊郭だったことを物語る数少ない遺構です。
薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の〝足止め策〟として薄野遊郭を置いたのが起源であります。
「薄野娼妓並水子哀悼碑」の碑文
その開拓を支えた遊郭の娼妓達を供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事堂垣内尚弘氏から碑文を頂き、建立したのが、この哀悼碑であります。
昭和五十一年五月二十五日記
薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌
碑自体は1976年(昭和51)に建立されたものなので、薄野遊郭がリアルタイムに存在していた時の遺構ではありません。が、ここにかつて遊郭があったということを偲ばせる間接的な証拠となっています。
豊川稲荷建立当時の遺構も残っています。
稲荷を囲む玉垣は、周囲の再開発や老朽化で以前よりかなり数が少なくなったそうですが、それでもわずかに残るものを見てみると、薄野遊郭時代の妓楼の名前を発見することができます。
しかしながら、明治から100年以上の風雪に耐えてきたためか、彫られた文字の判別が難しくなってきています。
そんな中、この玉垣には「昇月楼」と書かれており、左側ははっきりその文字を判別することができます。
「昇月楼」は薄野遊郭開業当時からあった老舗で、当時を描いた絵を見ても薄野の中では大妓楼の中に入る大きさです。また、薄野遊郭の記録に残る遊女と客の心中事件第一号が、この昇月楼で起こりました。
資料に書かれた「昇月楼」の楼主は田中いそと書かれており、楼主は女性ということがわかります。
豊川稲荷神社の玉垣にも、「田中」と書かれた玉垣が残っています(黄矢印)。「田中」の下は判別不…ではなく私の確認忘れなのですが、上には「○月楼主」と書かれていたので「昇月楼」の楼主で間違いないでしょう。
「昇月楼」は白石へ移転後の貸座敷一覧にも名前があるので、移転とともに白石へ引っ越したのでしょう。札幌遊廓の老舗、そして札幌遊廓史の生き字引として明治・大正・昭和と札幌遊廓を見続けた稀有な存在だったと言えます。
札幌の不夜城すすきの、その始まりは遊郭だったことに驚きを隠せない人もいるでしょう。遊郭=風俗街みたいなイメージを持っているとなおさらですが、遊郭も経済活動の一種、そこには人もモノも、そしてお金も動いていた「別世界」だったのです。
「おいらんだ国酔夢譚」初めての北海道編でしたが、北の大地の遊郭・赤線跡紀行はまだ続きます。
またの記事をお楽しみに。
他の遊郭の記事はこちらをどうぞ!
◆札幌市史
◆新札幌市史
◆全国遊廓案内
◆札幌区商工新地図(昭和33年)
◆さっぽろの昔話 明治編下 河野常吉編/みやま書房
◆さっぽろ文庫07 札幌事始/札幌市教育委員会編
◆さっぽろ文庫50 開拓使時代/札幌市教育委員会編
◆物語・薄野百年史 すすきのタイムス社
◆メガ歓楽街・ススキノ発展小史 それは官設「薄野遊廓」から始まった 札幌市政研究所/編
◆薄野発展史(札幌創成納税貯蓄組合創立二十五周年記念刊行誌) 札幌創成納税貯蓄組合/編
◆『北の女性史』札幌女性史研究会∥編 北海道新聞社(1986)
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