
山形県庄内地方は東北屈指の米どころとして有名ですが、その中心酒田は北前船の寄港地、そして最上川の河口にあり川沿いの名産が集まる集積地として、江戸から明治にかけ大いに栄えました。戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家も酒田にありました。
人が集まるところ遊里あり。酒田も当然その例外に漏れず、江戸時代から遊里が存在していました。酒田は北前船により京の文化と直結していたところでもあり、遊里も京風味で雅だったことでしょう。
本記事では、そんな「東北の京都」にあった遊郭のお話。
酒田新町遊郭の歴史と現在
酒田遊郭の場所は、現在の住所であらわすと南新町1丁目近辺となります。

昭和9年の酒田の鳥瞰図にも、新町に「遊廓」と書かれています。
新町遊廓は、鉄道の酒田駅を起点にすると、えらい遠い位置にあります。
しかし、ここの遊郭のベクトルは鉄道ではなく港。
もう10年以上前になりますか、交通至便な駅前にある遊郭を「駅前遊郭」と造語しましたが、こちらは「港前遊郭」といったところか。

実際、遊郭からちょっと歩いて南へ出ると、貨物コンテナの山が視界に飛び込みました。JR貨物の酒田港駅です。
駅名に『港』がついているように、そのすぐ向こうは海。
遊里跡を実際に歩いたからこそわかること、酒田遊廓はやはり、海にベクトルが向いた「港前遊郭」だと。
酒田の遊郭は、元は別の場所にありました。
そのヒントが、酒田の民謡に隠されていました。
酒田の民謡「酒田甚句」には、こんな歌詞があります。
日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野こやの浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか
(2番以降略)
『酒田甚句』
歌詞にある酒田の地名「今町 船場町 高野の浜」、実はここが江戸時代~明治初期の色街。「酒田三遊処」と称されていました。
海の男は総じて金離れが良く、毎日船が着く酒田の盛り場はそれこそ「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」だったことが、容易に想像できます。
ところが、酒田にある災厄がやってきます。明治27年(1894)10月22日、庄内地方をマグニチュード7.0(推定)の地震が直撃しました。「庄内地震」です。
色街だった今町・船場町・高野の浜も、この地震で壊滅的な被害を受け、これを機会に遊郭のみ新町に移転ということになりました。
かくして「酒田遊郭」の事実上の誕生は、地震をきっかけに誕生しました。

酒田の遊郭跡は現在、他の遊里跡と同じく閑静な住宅街となっています。
当時の遊郭の繁盛ぶりを『全国花街めぐり』では、
日和山公園の下もみぢの「新地」は即ち遊廓で、門を入れば青楼廂を接し、紅橙を連ねて、昼なお弦歌の声湧くがごとくなる歌吹境。(以下略
引用:『全国花街めぐり』(昭和4年刊)
と表現され、その盛況ぶりが想像できます。

酒田の遊里跡には旅館が何軒か残っています。そのうちの一つ「松美屋旅館」。
遊郭の妓楼時代の「海望楼」の看板も残していますが、中は改装され当時の面影はないとのことです。

他のブログ様によると、こちらは内装に当時の面影を残る「松山旅館」。『全国遊廓案内』にある「松山屋」がおそらくそうだと思われます。

松山旅館の隣にあるのは、「西村屋」という旅館。こちらも『全国遊廓案内』にそのままの屋号で掲載されており、イコールだと思われます。
酒田遊郭、ここで終わりではなかった
ここまでは他のブログにすでに書かれていること。
しかし、私は内容が他人と同じなら、わざわざ時間と労力を割いて記事にはしません。同じならTwitterでさらっとツイートして終わり。私の本編は、むしろここからが始まりです。
酒田の遊郭は、下の表を見てもわかるとおり、きらびやかさにかけては「西の岐阜 東の山形」と称せられ、東北でも屈指の遊里だった山形小姓町遊郭とがっぷり四つに組んでいました。

少なくても山形県では文句なしの2番手の規模。
しかし現地へ行ってみると、その割には狭いのです。
既存のサイト・ブログ様は、上記3軒の旅館が残る道沿いをイコール遊郭の範囲としておりますが、

そんなわけがなかろう…
と思うのが筆者。
案の定、調べてみると遊郭のエリア、思ったより巨大だったのです。

資料をもとに作成した戦前の遊郭のエリアです。

酒田の遊郭は「上通り」と「下通り」とそれぞれがメインロードになっており、妓楼が並んでおりました。
現在も旅館があるところは「上通り」の方、つまり、メインロードの一本に過ぎなかったのです。
そして、上通りとした通りをつなぐ「朝顔小路」と呼ばれた道もありました。なぜそんな名前かというと、道沿いに住んでた人が朝顔を植えていたからだそうな。

明治時代には、遊郭の範囲にこれだけの妓楼が建ち並んでいました。その数36軒!
昭和5年(1930)刊行の『全国遊廓案内』には、酒田をこう説明しています。
現在貸座敷が三十一軒あって娼妓は約百人いるが、秋田県及山形県の女が多い。店は陰店を張っていて、娼妓は全部居稼ぎ制である。客は廻し制で通し花は取らない。(中略)
引用:『全国遊廓案内』
娼楼は小川屋、門真楼、福田楼、常盤家、藤見屋(※筆者註:地元資料では「富士見屋」)、緑屋、越後谷(※筆者註:「越後屋」の誤植だろう)、群芳楼、櫻屋、吾妻家、松村屋、本五楼、柿崎屋、吉田屋、出島屋、西村屋、明圓楼、藤屋、下総屋、喜楽亭、海望楼、翠峰楼(※筆者註:地元資料では「翠芳楼」)、松山屋、北海楼、一笑亭、美咲屋、宮崎楼、真田屋、五十嵐屋、清月、高砂屋等である。
地元資料を見ると、記載の貸座敷名がズラリと。これを見ても、「三十一軒百名」は嘘でも誇張でもない。
酒田の遊郭は、戦後も栄えます。
毎度おなじみ『全国女性街ガイド』には、酒田は『芸妓70、酌婦50』としており、遊郭時代の娼妓数の半分なものの、『日和山公園下のあちらこちら』と旧新町遊郭が依然赤線として栄えていたことがわかります。また、『全国女性街ガイド』と同じ頃の山形県警察調査では酒田の酌婦数は48人、ほぼ一致しています。
そして昭和33年の赤線廃止寸前の3月頭では、酒田は3軒、14人の接待婦たちがギリギリまで営業。当時の新聞を1日ずつ嘗め回すように見てみましたが、酒田の赤線の最期の日は明らかになりませんでした。少なくても3月20日には山形県の赤線青線が総廃業となったので、それまでに紅い灯を消したと思われます。

ふつうの家に見えますが、ここは赤線廃止直後の地図を見ると「旅館五十嵐屋」となっています。
『全国遊廓案内』にも「五十嵐屋」と記載されているものと思われます。
地図を見ると、酒田の元妓楼と思われる建物は、ほぼすべて屋号そのままに旅館に転業しており、その分場所特定も容易、「わかりやすい」ものとなっています。

木の囲いにある留め具が、「五十嵐屋」の紋でしょうか、さりげなく贅をこらしています。これもおそらく妓楼時代の残滓だと思われます。
話を戻します。
遊郭の石門①からが遊郭のエリアになるのですが、そこからメインロードにかけては妓楼ではなく、三味線の師匠や髪結い屋、車屋や写真屋などが並び、「廓に出なくても生活ができた」ほどの店が並んでいたとのことです。

その石門①の手前には、「見返り小路」と呼ばれる道があります。

なんのこともない短い坂道ですが、ここが実は廓と娑婆とを分けた境界線。大正時代の市街地図にも表記があります。
遊里時代は私が撮影した位置に「酒田遊廓」と書かれた2.8mの廓門があり、そこから娑婆へは遊女は許可なくして出ることは許されませんでした。
ここまで見送った遊女は、坂を上がる客が見えなくなるまで門の前に立ち、視線を感じた客が振り返る…だから「見返り小路」とのこと。
「見返り小路」はまたの名を「子別れ坂」とも言い、遊郭へ売らなければならなかった親と子が泣きながらここで別れたとの言い伝えから。もっとも、親が直接妓楼へ娘を売るということはなかったと思うんですけどね。ふつうは「人買い」と呼ばれた仲介人を介して遊里へ…あードライな話はやめておきましょう。
絵葉書から読み解く酒田遊廓
ここに酒田遊郭を写した1枚の絵葉書があります。

たった1枚の絵葉書ですが、けっこう情報量は多い。
まずは時期ですが、デジタルアーカイブなので年代は不明です。が、若い女性に明治後期に流行った髪型が見受けられるので、おそらく明治40年代から大正はじめ頃だと思われます。
二つ目は、電柱にある広告。

「醸造元 金谷久吉」と書かれており、酒蔵の広告だということがわかります。
こちらの特定は容易でした。佐藤久吉という人物が醸造の技術を学び、酒田で「金久」という銘柄のお酒を造ったのが明治26年(1893)のこと。

それから「金久」「金久正宗」という清酒を発売していましたが、大正12年頃(酒田市立図書館の資料)、または昭和のはじめ(醸造会社HP)に「初孫」という銘柄を発売、現在も酒田で生産されています。
最後の3つ目は、遊郭とされる道。

改めて絵葉書を見てみると、道が下り基調になっています。
実際に歩いてわかったことですが、遊郭の敷地でこの角度で下り基調になっているのは、

赤い矢印の3ヶ所。このどこかに違いない。背景が山っぽいので、②かなと思うのですが…自信はありません。
そして、酒田市立図書館光丘文庫デジタルアーカイブにはもう一枚、遊郭を写した写真がありました。

幸い、2枚目には令和元年(2019)に撮影した写真も比較材料としてあり、それで場所を特定しました。ここの場所は③だったのです。
ここで、もう一つのことがわかります。

水色の線で示した道、ここにも妓楼が並んでいたのです。

現在はこんな感じになっています。まさかここにも妓楼が並んでいたとは誰も思うまい。しかし、だからこそ、ここに誰もが見逃していたどえらいものが残っていたのです。


この坂の途中には「越後屋」という妓楼がありました。『全国遊廓案内』にも同名の屋号があります。昭和6年(1931)の『大日本職業別明細図 酒田港』にも同じ場所に記載されており、昭和30年代の地図にも同じ場所に転業後の「旅館越後屋」の記載が。
2階の障子の荒れっぷりから、既に人は住んでいないでしょう。
これは間違いない…と勘がそうささやいていたのですが、地元の方の情報によるとどうやら違い、「越後屋」はその隣の隣の更地の部分だったそうです。

「下通り」を見てみると、「酒田遊郭の跡には3軒しか旅館が残っていない」のに反して、「日和山ホテル」という旅館があります。
ここは、赤線廃止直後の地図でも同名のホテルになっており、遊郭との関連は不明です。が、明治時代の地図を見るとここには某妓楼があり、もしかしてもしかするかも…あとは興味ある方の想像と、一次資料での調査にお任せします。
他にも、すでに住宅となって跡形もないですが、遊郭には妓楼が点在しておりました。赤線廃業後の地図を見ても、旅館として残っていたものが多い中、現役だった頃にはかなりの数が建っていたことでしょう。だったのだと。
酒田遊郭まとめ
・酒田遊郭は元は街中にあった
・明治の庄内地震を機に新町へ移転
・そのまま昭和の赤線時代まで続いた
・遊郭跡には、元妓楼が旅館として営業している
・遊郭跡は、資料を見るとかなり範囲が広かった
・遊郭のベクトルは港に向いており、漁民や船員、海運労働者が主な客だったと思われる
「東北の京都」の遊郭は、比較的その形を残しながらも、現在は静かにその余生を過ごしております。

山形県の遊郭まとめ記事をどうぞでありんす
『酒田市史』
『全国花街めぐり』
『全国遊廓案内』
『内務省警保局資料』
『全国女性街ガイド』
『目で見る酒田市史』
『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 酒田』
『酒田の今昔』
『山形県史』
『山形県警察史』
『酒田市住宅明細図 1961』
『大日本職業別明細図 昭和6年酒田港』
『図説庄内の歴史』
『酒田まち歩き「首斬り場のお地蔵さん」~信仰の歴史を訪ねて』
『酒田遊所の賑わい』
『酒田商工名鑑』
『山形新聞』
『荘内新聞』


コメント
越後屋は違いますよ。越後屋かも、と書いてあるところは明治からあった牧野そば屋さんです。越後屋はその左隣、グーグルマップで見れば更地になっているところです。
欅づくり造作をふんだんに使った立派な建物でしたが残念ながらいつの間にか解体されてしまいました。敷地内で建物ごと移設工事したとき係わったので記憶しています。
ついでにもう一つ、遊郭の石門の写真も残っています。うちの母親の生家は遊郭妓楼配置図㉕の常盤屋です。