酒田新地遊郭(山形県酒田市)|遊郭・赤線跡をゆく|

山形県酒田の遊郭東北地方の遊郭・赤線跡

山形県庄内地方は東北屈指の米どころとして有名ですが、その中心酒田は北前船の寄港地、そして最上川の河口にあり川沿いの名産が集まる集積地として、江戸から明治にかけ大いに栄えました。戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家も酒田にありました。

人が集まるところ遊里あり。酒田も当然その例外に漏れず、江戸時代から遊里が存在していました。酒田は北前船により京の文化と直結していたところでもあり、遊里も京風味で雅だったことでしょう。

前回の原ゴム工業所の記事で取り上げた「酒田甚句」をもう一度挙げます。

酒田甚句日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野(こや)の浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか

(2番以降略)

歌詞にある酒田の地名「今町 船場町 高野の浜」、実はここが江戸時代~明治初期の色街。「酒田三遊処」と称されていました。
漁師から帝国海軍の士官まで、海の男は総じて金離れが良く、毎日船が着く酒田の盛り場はそれこそ「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」だったことが、容易に想像できます。

ところが、酒田にある災厄がやってきます。明治27年(1894)10月22日、庄内地方をマグニチュード7.0(推定)の地震が直撃しました。「庄内地震」です。
内陸型地震だったので津波は発生しなかったものの、当時の酒田町の建物の半分を倒壊・焼失させ、約160人(庄内地方全体で726人)の死者を出しました。もしこれが庄内”沖”だったら、津波で酒田の町は全滅だったというほどの大地震でした。

遊郭だった今町・船場町・高野の浜も、この地震で壊滅的な被害を受け、これを機会に遊郭のみ新町に移転ということになり、再建とともにそれは実行されました。かくして「酒田遊郭」の事実上の誕生は、地震をきっかけに誕生しました。

ところで、遊郭初心者あるあるでこんなことがあります。
地図などで「新地」の文字を見ると、

遊郭だ!

と色めき立つ人がたまに見受けられます。
ここで、語彙の意味を整理してみましょう。
「新地」とは新しく開かれた土地という意味なのですが、確かにそこに遊郭が移転されることが多く、遊郭も実際に「○×新地」と呼ばれることが多いです。「新町」も同じ意味で使われます。
が、新地がすべて遊郭というわけではありません。新地の同義語に「新開地」があり、出雲市の私娼窟はその名も新開地だったのですが、神戸の新開地は遊郭ではありません。

新開地には福原があるやんか!

と詰め寄る方もいると思いますが、結論だけ言えば歴史的には福原と新開地(湊川)は別物。福原の方が古いのです。

これ、酒田も同じだったりします。
遊郭が新町に集約されたので、新町はその時に作られたものだと思われがちです。が、調べてみると新町の歴史は古く、19世紀の万延元年(1860)に高野の浜の住民が多くなり町に編入された際、「新町」と名付けられたのが由来です。
つまり、遊郭が移転されたとき、そこはすでに新町だったのです。

でも、「新地」を見ると遊郭を思い浮かべるのは仕方ありません。かく言う私も初めて仙台へ行った時…

仙台駅新地行き電車

「遊郭行きやん!」

と思っちゃいましたから(笑
ちなみに、これは常磐線の新地駅(福島県相馬郡新地町)行きという1日2本しかない行き先で、電車ファンの間では

仙台来たら、青葉城より牛タンより新地行き電車だよね!

と垂涎の的となっている行き先です。当然、遊郭とは何ぁ~~んの関係もありません。

酒田の遊郭は、移転後も栄えます。

『全国花街めぐり』では、

 

日和山公園の下もみぢの「新地」は即ち遊廓で、門を入れば青楼(ひさし)を接し、紅橙を連ねて、昼なお弦歌の声湧くがごとくなる歌吹境。(以下略

引用:『全国花街めぐり』(昭和4年刊)

と表現され、その盛況ぶりが想像できます。

酒田の遊廓の繁盛ぶりを、数字で見てみましょう。

酒田遊廓資料

きらびやかさにかけては「西の岐阜 東の山形」と称せられた、山形市の小姓町遊郭とタイマンを張っています。少なくても山形県では文句なしの2番手の規模。山形県だけ見れば「北の酒田 南の山形」といったところでしょうか。

 

時代は戦後に入り、酒田新町はそのまま赤線に移行します。

毎度おなじみ『全国女性街ガイド』には、酒田は『芸妓70、酌婦50』としており、遊郭時代の娼妓数の半分なものの、『日和山公園下のあちらこちら』と旧新町遊郭が依然赤線として栄えていたことがわかります。また、『全国女性街ガイド』と同じ頃の山形県警察調査では酒田の酌婦数は48人、ほぼ一致しています。

そして昭和33年の赤線廃止寸前の3月頭では、酒田は3軒、14人の接待婦たちがギリギリまで営業。当時の新聞を1日ずつ嘗め回すように見てみましたが、酒田の赤線の最期の日は明らかになりませんでした。少なくても3月20日には山形県の赤線青線が総廃業となったので、それまでに紅い灯を消したと思われます。

今回はそそくさと書いてきましたが、それには理由があります。今回の本編は、むしろ次のページ。ここで道草食っているわけにはいきません。

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