札幌薄野(すすきの)遊郭の歴史|おいらんだ国酔夢譚|

札幌すすきの遊郭北海道の遊郭・赤線跡
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すすきのは死せず

遊郭は白石に移り、遊郭としてのすすきのの歴史は終わったのではあるのですが、人間の本能というものは「性欲のトイレ」を端っこに追いやり、臭いものに蓋をするだけでは治らないのです。

遊郭が移転した後の薄野は、まるでゴーストタウンのように寂れたと記録に残っています。が、捨てる神あれば拾う神あり、これビジネスチャンスと思った人もいたのです。
移転の翌年から薄野には劇場や映画館が作られ、すすきのに人を集めようと地元の人を中心に「ススキノ振興会」が作られ、人もあつまり活気を取り戻します。

薄野遊郭
すすきの市場。画像はGoogle mapストリートビューより

遊郭移設から2年後、集客も兼ねて遊郭の南端に公設市場が設けられました。ここは地元の人から「現在のすすきの発祥の地」とも呼ばれ、「ゼロ番地」とも呼ばれているそうです。
この建物、後でかなりキーとなる建物となるので、ちょっと覚えておいて下さい。

そして昭和に入り、すすきのにはカフェーなどのいわゆる「お水系」産業が増えていき、現在の歓楽街としての基礎が出来上がります。

そして戦後。
昭和21年(1946)1月24日に遊郭の公娼制度が廃止されましたが、すでに白石に遊郭が移ったせいで売春産業は衰退どころか逆に栄え、すすきのには街娼、いわゆる「パンパン」が街を跋扈し北海道最大の売春街となりました。
昭和23年(1948)に札幌で検挙されたパンパンは1,279人。そのほとんどがすすきので、2年後にはパンパンの数3,600人(推定)と性の無法地帯へ。

その上、すすきのにはいわゆる「特飲店」も出現、赤線地帯として20数年ぶりの復活となってしまいました。
戦後の赤線時代、札幌には以下の組合がありました。

・札幌市中央料理組合

・札幌料理組合

・白石保安組合

・白石料理店組合

下の二つは白石の元遊郭の方ですが、すすきの赤線の主要組合はいちばん上らしく、売るものは”料理”ではなく”性”です。

特飲店の数は不明ながら、資料には従業婦の数字が残っています。それによると、だいたい700人後半から最大900人まで推移しており、規模としてはかなり大きかったと推定できます。
また、業務形態も、モグリを含めると、飲食店、置屋、カフェーなど多岐にわたり、当時のすすきのの住宅地図を見てもどこが特飲店かさっぱりわからず、まるで妖怪屋敷。いや、わからないというより、すすきののお店すべてが特飲店に見えてしまうのです。

昭和30年(1955)刊の『全国女性街ガイド』には、すすきのについてこう書かれています。

赤線32軒100名ほど。

『全国女性街ガイド』。数字の原文は漢数字

もちろん、他にも色々書かれていますが、ブログ記事的にネタになるのはこの数字のみ。筆者はあまり札幌はお気に召さなかったのか、フルボッコとまではいかないけれど文章に「せい」を感じません。

すすきのの赤線がいつ廃止になったのかは、定かではありません。地元新聞をさかのぼると昭和33年(1958)4月の売春防止法完全施行の1ヶ月前の3月、南六西四の特飲店「松なみ」が隠れ売春で摘発された記事が見つかりましたが1、その時にはすでに赤線は解散していたものと推定されます。

さて、売防法施行寸前の住宅地図を見つけたので、その「松なみ」を探してみるとちゃんと見つかりました。
明治時代の遊郭に始まり、100年前にに遊郭が移り、そして現在、元の木阿弥に戻るその姿は、まるで不死鳥のように今日も元気に「現役」として頑張っています。

次ページ:現代の薄野に残る遊郭の残滓

  1. 3月6日付『北海タイムス』
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