乳守遊郭をめぐる悲しい遊女の物語
一休さんも舌を巻いた室町時代の美女ー地獄太夫
ここの歴史を語る上で避けられないのが、「地獄太夫」のお話。

地獄太夫は室町時代に堺にいたという伝説の遊女で、山賊に襲われ美貌と気品から遊里に売られたと伝えられています。

こうなった(苦海に堕ちた)のも前世の因縁です
と自分の宿命を背負い、名前に「地獄」をつけて前世の罪を今の世で「返済」し、成仏して次生まれ変わったら美しい仏になりたい、と毎日念仏を唱えていたと言います。
「太夫」とは遊女でも最高級ランクの、美貌もさることながら教養も備えた女性のことを言います。相撲なら横綱・大関クラス、容姿端麗・教養抜群、知・美共に極めた遊女しか名乗れることが許されなかった「称号」でもありました。地獄太夫美貌は京にまで伝わったといいます。
そして、その太夫を一目見てみようとある僧侶がやってきます。

彼の名は一休宗純禅師。あの「一休さん」です。
彼女のウワサを聞いて諸国巡業で堺に寄った時にわざと酔いつぶれて地獄太夫を訪ねたところ、彼女は一休さんを見てただものならぬ雰囲気を見抜き介抱しました。一休も彼女の美貌にビックリし、

聞きしより見ておそろしき地獄かな
と即興で句を作ったところ、

しにくる人も落ちさらめやは
と彼女も即興で返し、その教養に一休禅師は驚いたと伝えられています。
数年後、彼女は病気になって死期を悟り、一休も彼女の死を虫の知らせで知り駆け付けました。

我れ死なば焼くな埋(うづ)むな野に捨てて
飢えたる犬の腹を肥やせよ
この辞世の句を残し、一休に看取られながら短くはかない一生を終えました。
一休は彼女の遺志を尊重して四十九日遺体を放置し、その後荼毘に臥して泉州八木郷の久米田寺に骨を収めたと言います。
大坂の陣の悲哀ー高間
地獄太夫の話から約200年後、時代は徳川家康による江戸幕府体制が固まりつつああった大阪冬の陣のころ、堺奉行だった芝山正親という人がいました。
その弟の正綱は、乳守の遊女「高間」と将来の結婚を誓い合う程の深い仲だったのですが、大坂の陣で堺が攻められ市街戦になりました。
奉行の正親は豊臣方として出陣したのですが、目の病気を患い戦の指揮を取れる状態ではありませんでした。
そこで弟の正綱が

兄上は岸和田にでもお逃げ下さい。あとはそれがしが
と手を上げ、死を覚悟した正綱は乳守へ向かい高間に、

万一それがしが死んだら、これで菩提を弔ってもらいたい
とお金を渡しました。
高間は愛する男が死ににいく所、本来は泣いて止めるところを、

ご心配なさるな。必ず菩提を弔います。安心してご出陣下さい
と気丈に振る舞い、二人は悲しい訣別の時を迎えました。
結果、正綱は奮戦むなしく戦死、家臣が彼の遺骸を高間の元まで持ってきました。
高間はそれを見て身体を落として泣き崩れたものの、気が済むまで泣くとサッと髪を下ろし、廓を出て題目堂というお寺に入り尼となり、死ぬまで愛する人の菩提を弔ったそうです。
高間がいつ亡くなったのかは、そこまで『堺遊里史』は触れていません。
戦争が引き裂いた悲しい男と女の物語、なんかこれを入力していると、映画のガンダムの挿入歌の『哀戦士』が頭の中で流れました。
特に、「♪死にゆく男たちは、守るべき女たちに。戦う女たちは、愛する男たちへ。何を賭けるのか、何を残すのか I pray, pray to bring near the New Day♪」ってサビの部分が頭からこびりついて離れない…。
正綱もおそらく高間という好きな女に「新しい時代のために生きろ」というメッセージを残したい、この歌詞の気分だったのかもしれません。