堺にあったもう一つの遊里
前回は、堺の海沿いにあった龍神・栄橋遊廓の歴史を記事にしました。
生まれ故郷だからこそ気になる堺の遊廓・赤線。堺の遊廓はここだけかと思いきや、さすがは腐っても東洋のベニスか、他にも遊廓があることが判明しました。その上、「もう一つ」の方が龍神・栄橋より歴史が古い。
その「もう一つ」の遊里とは…
旧龍神・栄橋遊廓より方向にして東南、ちょうど和歌山へ通じる紀州街道沿いにある乳守という遊郭です。
乳守遊郭の歴史
貿易港、港町には遊里が定番だったのですが、この堺も例外ではありません。
乳守遊廓はいつ出来たのか、明確な資料は見つかっていないのですが、古くは堺の街が歴史にあらわれた鎌倉時代から栄えたことは確かだそうです。
江戸時代末期に龍神・栄橋遊廓が出来る前は、乳守とその北にある六間町(高須町。今の北旅籠町東)が遊里として栄え、港町でもあり熊野への詣での途中の宿場、そして住吉大社へと続く道の交差点でもあった場所にあったこの遊廓はかなり繁盛していたといいます。
ここで、江戸時代以前には「乳守」「高須」の遊郭があったってことになるのですが、堺市立図書館で掘った新しい資料によると、「高須の遊郭」は江戸時代以前は乳守遊郭のことを指し、乳守の北(北六間)にあった「高須遊郭」は「北の高須」「北六間」と呼ばれていたのだとか。
資料の原文を引用すると、
「俗に高須と云えば、誰しも北の高須、即ち北六間の廓のことと考えられやすいが、乳守と云うのは俗称で、単に高須と云えば乳守を指したものである。
『堺遊里史』河野文吉著
ということで、のちに「乳守」が正式名称になり、「高須」と言えば「北六間」の方を指すようになったと考えるのが妥当かと。
「新しい資料」とは堺の図書館の書庫で長い眠りについてた(?)『堺遊里史』という本。というか、図書館にあるのは本そのものではなく、著者の河野文吉という人物が書いた原稿のコピー。
『堺遊里史』自体の出版年月はおろか、実際に発行されたかどうかも不明ですが、図書館の原稿には「昭和38.8.4受入」と書かれており、恐らく昭和38年に図書館に寄贈されたのか!?と推定しています。
しかし、ここである疑問が湧き出てきました。
昭和38年とくれば、赤線は廃止になってまだ6年ほど。筆者も当然赤線だった頃の龍神・栄橋のことを知っているはず。どころが、乳守を含めて龍神も栄橋も赤線のことには触れず、戦前の「遊郭」で筆を止めています。
これは何でやろ?と考えてみたところ、著者の興味は「遊郭」であって、赤線にゃ興味がなかったのかもしれません。
河野文吉なる人物は、ググってみると堺の郷土史家らしいのですが、その人が自費出版か何かで堺の遊郭の歴史を書こうと思った。が、何らかの理由で発行されず、原稿のコピーだけ寄贈され書庫の奥深くで長い眠りに…ということだと推定しています。
本気で出版しようとした痕跡はあるようです。このコピーは「本篇」と「資料編」に分かれいるのですが、今風に言えば「堺 遊郭」でヒットした本や資料を洗いざらい参考にしているようで、遊里史を調べている人にはおなじみ『日本遊里史』(上村行彰著)も参考文献にしています。
乳守の遊里も様々な方面の文献を参考にしながら延々と書かれており、今までジモピーのクセに知らなかったことが書かれていました。
ところで、「乳守」という一風変わった名前は、かつてここあたりにあったと伝えられている「乳守神社」に由来すると言われています。
他にも、応神天皇に乳を与えた神様から来ているとか、ここにあった「津守神社」を聞き間違えた女性が「乳が出ますように」と祈ったところ乳が出て「乳守」に変わったとか諸説あるのですが、女性にまつわるゆえんがあることは確かなようです。
ちなみに、「乳守」という地名は全国に何か所かあるらしく、やっぱり女性の「乳」にまつわる伝説があります。
そういうとこに「女性街」が出来たのは果たして偶然か、それとも必然か、それは神のみぞ知る。
大阪の遊廓を主に書いた『日本遊里史』には、神功皇后が長門国の女性をここに置いて五穀豊穣を祈らせ、その子孫が遊女になったと書かれています。あくまで伝説に過ぎないのですが、神功皇后は戦前は常識として学校で勉強していたレベルの人物、この伝説を根拠に乳守遊廓は「日本の遊女発祥の地」と戦前は言われていたそうです。ちなみに、伝説抜きの公式記録に残る「遊女発祥の地」は、確か奈良の木辻遊廓だったはずです…。
住吉大社の「住吉大社御田植神事」は、全国あちこちにある田植え祭りの中でも重要無形文化財に指定されているくらい有名かつ盛大なものですが、この祭りの起源は上に書いた神功皇后の伝説にまつわり、明治時代まで彼女らの「子孫」である乳守の遊女たちが行っていました。
明治時代以降は大阪市内の新町の芸妓が「代理」として行っていたそうですが、ここまで来ると神話の世界ですね。
乳守遊郭をめぐる悲しい女の物語
ここの歴史を語る上で避けられないのが、「地獄太夫」のお話。
地獄太夫は室町時代に堺にいたという伝説の遊女で、山賊に襲われ美貌と気品から遊里に売られたと伝えられています。
「こうなった(苦海に堕ちた)のも前世の因縁です」と自分の宿命を背負い、名前に「地獄」をつけて前世の罪を今の世で「返済」し、成仏して次生まれ変わったら美しい仏になりたい、と毎日念仏を唱えていたと言います。
「太夫」とは遊女でも最高級ランクの、美貌もさることながら教養も備えた女性のことを言います。相撲なら横綱・大関クラス、容姿端麗・教養抜群、知・美共に極めた遊女しか名乗れることが許されなかった「称号」でもありました。地獄太夫美貌は京にまで伝わったといいます。
そして、その太夫を一目見てみようとある僧侶がやってきます。
一休宗純禅師が彼女のウワサを聞いて諸国巡業で堺に寄った時にわざと酔いつぶれて地獄太夫を訪ねたところ、彼女は一休さんを見てただものならぬ雰囲気を見抜き介抱しました。一休も彼女の美貌にビックリし、
聞きしより見ておそろしき地獄かな
と即興で句を作ったところ、
しにくる人も落ちさらめやは
と彼女も即興で返し、その教養に一休禅師は驚いたと伝えられています。
数年後、彼女は病気になって死期を悟り、一休も彼女の死を虫の知らせで知り駆け付けました。
我れ死なば焼くな埋(うづ)むな野に捨てて
飢えたる犬の腹を肥やせよ
この辞世の句を残し、一休に看取られながら短くはかない一生を終えました。
一休は彼女の遺志を尊重して四十九日遺体を放置し、その後荼毘に臥して泉州八木郷の久米田寺に骨を収めたと言います。
地獄太夫の話から約200年後、時代は徳川家康による江戸幕府体制が固まりつつああった大阪冬の陣のころ、堺奉行だった芝山正親という人がいました。
その弟の正綱は、乳守の遊女「高間」と将来の結婚を誓い合う程の深い仲だったのですが、大坂の陣で堺が攻められ市街戦になりました。
奉行の正親は豊臣方として出陣したのですが、目の病気を患い戦の指揮を取れる状態ではありませんでした。
そこで弟の正綱が
兄上は岸和田にでもお逃げ下さい。あとはそれがしが
と手を上げ、死を覚悟した正綱は乳守へ向かい高間に、
万一それがしが死んだら、これで菩提を弔ってもらいたい
とお金を渡しました。
高間は愛する男が死ににいく所、本来は泣いて止めるところを、
ご心配なさるな。必ず菩提を弔います。安心してご出陣下さい
と気丈に振る舞い、二人は悲しい訣別の時を迎えました。
結果、正綱は奮戦むなしく戦死、家臣が彼の遺骸を高間の元まで持ってきました。
高間はそれを見て身体を落として泣き崩れたものの、気が済むまで泣くとサッと髪を下ろし、廓を出て題目堂というお寺に入り尼となり、死ぬまで愛する人の菩提を弔ったそうです。
高間がいつ亡くなったのかは、そこまで『堺遊里史』は触れていません。
戦争が引き裂いた悲しい男と女の物語、なんかこれを入力していると、映画のガンダムの挿入歌の『哀戦士』が頭の中で流れました。
特に、「♪死にゆく男たちは、守るべき女たちに。戦う女たちは、愛する男たちへ。何を賭けるのか、何を残すのか I pray, pray to bring near the New Day♪」ってサビの部分が頭からこびりついて離れない…。
正綱もおそらく高間という好きな女に「新しい時代のために生きろ」というメッセージを残したい、この歌詞の気分だったのかもしれません。
江戸時代の乳守遊郭
そして乳守遊郭は戦争、といっても400年前の大阪の陣ですが、で焼失した後は紀州街道沿いに移転、それが昭和まで存在していました。
江戸時代以前の乳守遊廓は、
「元和以前の乳守は、(中略)西の方は海を望んで高楼が立ち並び、しかもその区域が相当広かったようである」
『堺遊里史』
と書かれているほどに区域が広かったものの、移転後の場所はただでさえ狭苦しい所な上に、今でも同じ場所にある南宗寺が移ってきたため、発展の余地がないくらい手狭な所になってしまいました。これが乳守遊郭の首を、じっくり絞めていくことになります。
とは言うものの、江戸時代初期、寛文・元禄年間には日本中の遊里25ヶ所のうち第12位の地位にあり、気品と教養を身につけた太夫がいる格式高い所だったとの記録があります。
そのせいか、客も学者や芸術家などの知識人が好んで登楼して遊び、遊女もその影響で、
「詩文に巧なもの、又は水墨のあざやかな画を描くもの、香道茶の湯にその技をみせる遊女あり」
『堺遊里史』
とバラエティあふれる遊女がいたそうです。
江戸時代の乳守には遊女に階級があり、記述を表にすると下記のとおり。
最上位には太夫・花魁と呼ばれた最高級の遊女がおり、上述のとおり美人で器量良しだけではなく、頭の回転や教養も要求される名実ともに「スーパー遊女」でした。
乳守では「揚傾城」(あげけいじょう?)と呼んでいたようです。
その下に位置するのが「端傾城」(はしけいじょう?)。俗に「大天神」と呼ばれており、京都の島原とかと同じのようでした。
そのまた下には「小天神」がおり、『堺遊里史』によると最下位ランクの「端女郎」からスタートの遊女はこの「小天神」までは、実力さえあえばなれるものの、それより上は「越えられない壁」のようなものがあったとされています。記述はないですが、「太夫」や「大天神」になるような遊女は、頭の回転や元々備えている「何か」が必要だったのかもしれません。
そして、これを頭に入れておいてもらって。
『堺遊里史』には、元禄15年(1702)の遊女の名前一覧が書かれています。
太夫:くれない
大天神:八ゑざわ、とう山
小天神:れんざん、むさしの、のかぞ、さほ山、唐はし、沢むら、のもと、いづつ、とみおか、おぐるま
鹿子位:こまの助
◎南帯屋
大天神:かづさ
小天神:花むらさき、ゑにし、若むらさき
鹿子位:さど
◎北帯屋
小天神:ゑもん、玉ぎし、竹川、わかば、花月、こむらさき
◎大和屋
小天神:かうざん、くめの助、しなの
◎大和屋いんきょ
大天神:ささ山
小天神:うぢ山、かう山
かこい:さくらゐ
◎近江屋
小天神:ときは、小ぎん、かつやま、さわの、やえぎく、しばぎく、山しろ、やまと、わかさ、わかの
◎河内屋
小天神:しなの、おぐるま、とみわ、もしは、きんご
もちろん、この他にも名も書かれていない「無級」の「端女郎」がたくさんいたことは語るまでもないですが、太夫は一人だけ、大天神も3人しかおらず。
また、小天神はかなりの数おり、やはり『堺遊里史』の記述のとおり大天神や太夫になると滅多に出てこないものと思われ。
(『和泉名所図会』巻之1「堺乳守傾城廊」秋里籬嶌 著 竹原春朝斎 画(国立国会図書館所蔵))
『和泉名所図会』という江戸時代中期(18世紀)のガイドブックに書かれた乳守遊郭の挿絵です。「堺乳守傾城廓」と書かれています。
『堺遊里史』には、江戸時代の乳守の数字が残っていました。
■元禄8年(1695):
茶屋数24軒 遊女数167人
■元禄17年(1704):
茶屋数25軒 揚屋数8軒 遊女数147人
(※元禄17年=忠臣蔵の赤穂浪士討ち入りの2年後)
■享保2年(1717):
茶屋数17軒 揚屋数4軒 遊女数103人
■享保12年(1727):
茶屋数14軒 揚屋数2軒 遊女数89人
(※徳川吉宗の享保の改革の真っ最中の頃)
■宝暦7年(1757):
茶屋数9軒 揚屋数8軒 遊女数21人
時代を経るにつれ、数字が徐々に落ち込んでいます。
『堺遊里史』も「宝暦の頃になると乳守は衰えを見せる」と書かれているのですが、その原因は
2.廓が狭すぎて発展できなかった
3.戎島(現在の南海堺駅周辺)に岡場所(のちの龍神・栄橋遊廓)が出来た
と推定できます。
数字はないですが、幕末の天保13年(1813)に堺に「遊女整理令」が発令され、戎島の遊里がいったん整理され乳守は盛り返すものの、いったん加速がついた老化は逗まることを知らず、近代に入り乳守遊廓が衰退する決定的事項が起こります。