堺・乳守遊郭(大阪府堺市)|おいらんだ国酔夢譚|

堺乳守遊郭関西地方の遊郭・赤線跡
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近代:乳守の衰退

明治時代には北の高須遊廓が廃止、乳守と龍神・栄橋が明治5年2月に遊女限定地域、つまり明治政府から遊廓として引き続き認められました。
が、南海鉄道が海沿いに路線を開き、龍神・栄橋遊郭の近くに吾妻橋駅(今の堺駅)を建設。大阪からの客が電車一本で行けるようになり、江戸時代の国道、紀州街道沿いにあったものの鉄道という文明の利器から見放された乳守は衰退に更に加速がついてまいました。

ここで、大阪の地理、いや鉄道事情に詳しい人なら「待った~~~!!」とくるはず。乳守の近くには阪堺線、地元では「チンチン電車」と呼ばれています、が通ってるやん!と異議を挟むでしょう。はいはい、わかってまっせ(笑
しかし、阪堺線と南海では輸送力が桁違いな上に、南海の場合は岸和田や和歌山まで開通しているため、泉州からの客も輸送可能。
阪堺線は大阪市方面からのみ、それも松島や大正時代に新設された飛田という遊里界の化け物があった上に、大正以降ですが、事もあろうにその飛田と同沿線に。軍配は「地の利」を得た龍神・栄橋の圧勝、圧勝、大圧勝。

乳守の衰退の原因はこれだけではありません。
現在は海が埋め立てられて到底信じられないかもしれないですが、戦前は堺から南の海沿いはきれいな海岸が広がっていました。
遊廓に近い大浜(今の大浜公園あたり)には大阪港にある海遊館並みの巨大水族館や、海水を沸かした潮湯、そしてタカラヅカも真っ青な少女歌劇団もあった一大リゾート地でした。集客力が全く違う。

これだけではありません。
乳守遊廓は格式の高さから一見さんお断り、金とコネがないと寄りつけない敷居が高い廓でした。つまり伝統と格式にあぐらをかいてしまったと。
明治32年(1899)発行の、南海本線沿線の名所ガイドブックである『南海鉄道案内』には、「乳守は名のみ高くして、実際の繁昌は龍神・栄橋にあります」と、ある種皮肉られています。
このプライドの高さが裏目に出たのか、『堺遊里史』の作者も「この面でも乳守遊廓衰微の一因があったように思われる」と推論しています。
乳守の経営者たちも、この光景を指をくわえて見ていたわけではなく、いろいろ対策を考えたようです。が、「これといった名案も浮かばなかった」(『堺遊里史』)そうで、衰退に身を任せるしかなかったと…。

乳守の衰退を物語る新聞記事があります。

遊廓が近来不景気なることのかねて伝聞もして記載もしたるが、今亦(また)伝聞したる所にては、堺区(※1)南旅篭町遊廓(※2)は其不景気最も酷く、三四ヶ月以前より毎月上納する賦金皆所持金などを売却して得或いは質入れをして得たる者に係り尋常に上納する者は一戸だにあらざる程なるのみかは今は已に売却なさん品物のあらずして此上賦金を得(う)るの道なしと嘆息し居る席主娼妓多しといへり。
左(さ)れば此廓にては昨今是(この)実際を上申して賦金減額の嘆願に及ばんかとの協議中なり。
※1:堺市のこと
※2:文脈でわかるように乳守遊廓のこと

明治17年(1884)9月4日 大阪朝日新聞

こんな記事を見たら、なんだかかわいそうになってくるくらいの有様です(汗

ただ、『上方色町通』には「今なおこの廓(くるわ)は繁盛している」と記載され、『全国遊廓案内』には妓楼40件、女性の数400名くらいと、中~大規模な遊廓として書かれています。
が、『全国遊廓案内』の数字は間違ってると思われ。その前年(昭和4年)の内務省警保局の資料では「貸座敷:39軒 娼妓数:3人」となっており、「妓楼」の数はほぼ一致するものの、「女性の数400名」は芸妓の数を入れたとしても、いくらなんでも盛りすぎでしょうな。

明治~大正時代の数字の変遷を追っていきましょう。

乳守遊郭推移明治大正

「遊廓」なのに娼妓はほとんどいない状態になっていることが、数字からわかります。
その分芸妓が中心だったということで、明治以降の乳守は「遊廓」とついていながら芸妓の街、つまり「花街」となっていました。同様に市内の堀江遊郭も芸妓優位の遊郭でした。

当時の乳守遊郭を写した一枚の写真があります。

堺乳守遊郭
(堺市立図書館デジタルアーカイブより)
現時点で知られている、この世に残る唯一の乳守遊郭の写真です。明治35年(1902)頃の写真とされていますが、狭い道筋に店が並んでおり、大通りがあった龍神・栄橋に比べると確かにあまりパッとしない。廓によくあるパッとした明るさを感じさせませんね。
明治20年~30年くらいの貸座敷の名前と、有名だった名妓の名前が『堺遊里史』に書かれていました。長くなるのでアコーディオン方式に。興味ある方だけどうぞ。

◎泉梅席
春子(追分、相撲甚句が得意)、春松、小三、ふく、光子
◎筆亀席
おいし、しな、ゑつ、鶴吉、加代、国香、岩奴、若石、雛鶴、照吉
◎大清
一春、小新、勝子、八重吉、金時

◎大万
小六 他5~6人
◎大西家
小さん
◎梅の家
豆八 他16人
◎綿竹
米松
◎園家
子若 他5人
◎末廣家
梅松 他2人
◎笹村家
小市 他5人
◎扇家
染子(義太夫)
◎末倉
たま 他3人
◎天富
つる、つる子
◎一ノ家
照葉(他、「住安」「志摩家」「京桝屋」「河富」「河井楼」「泉辰」)
(出典:『堺遊里史』)

明治時代には芸妓中心になった乳守は、大正に入り第一次世界大戦の好景気によってちょっとだけ息を吹き返すものの、焼け石に水。衰退には歯止めがかかりませんでした。近代に入り、敷地の手狭感が災いとなり、関係者もほぼお手上げだった模様でした。
貸座敷業者も、こんなとこから移転してしまえと堺の市街地から離れ、東部の北野田の大美野や南部の踞尾(つくの。今の津久野)に移転する計画もあったそうですが、すべて絵に描いた餅に終わってしまったようです。

昭和に入り、乳守遊郭の衰退は統計書の数字の面からも顕著となります。
こういう商売は世間の景気に左右されやすいですが、大正末期の構造不況で客足がガクンと落ちた後、客数は明治期の半分近くにまで落ち込み、同じ堺の龍神・栄橋に6倍の差をつけられてしまいます。売上に至ってはその差、倍返しどころか30倍返し。もう見てられません…。

しかも、廃娼運動の機関誌『廓清』にも、

堺の乳守遊廓 近く廃止せん

大阪府堺市に在る乳守遊廓は、我が国で最も古い歴史をもって居るものであるが、最近は遊廓30軒に対して、娼妓1名と云う有様であるから、近く移転地を見つけて、移転同遊廓指定地は取消されるであらう。

『廓清』第27巻第9号(昭和12年)p38

と書かれるほど、乳守はすでにオワコンだったのです。娼妓1名では、もはや廓の体裁を維持する体力すら残っていない状態です。

そして戦争の時代に入ります。

堺市乳守遊廓

乳守遊郭を写した最後の航空写真です。この約3年後、ここ界隈は焼夷弾によって焼き尽くされることに…

というわけで、堺は昭和20年(1945)7月の大空襲によって焼き尽くされ、戦後になって龍神・栄橋は赤線として復活します。
が、乳守は空襲で跡形もなく残らぬまま、鎌倉時代から5~600年続いた色街としての歴史を、誰にも知られることなく終えました。その最期は、まことにあっけないものでした。

とされていますが、『堺遊里史』には興味深いことが!
昭和に入って時代は戦争へ、「贅沢は敵だ」の掛け声に全国の花街は営業短縮・自粛を余儀なくされました。
「花街」と化していた乳守も例外ではなく、戦争で営業どころではなくなったのかほとんど有名無実になり、具体的な年月は不明ながら、

「乳守最後の取締木村氏は、乳守の名称と廓章を、南旅篭町東三丁の石材商Y氏に譲って終わりを告げた。それから間もなく、昭和20年7月1日の堺空襲で焼失」

『堺遊里史』

と。空襲で焼けたのは事実ですが、その前に遊廓の営業権を一般人に譲渡し、乳守は空襲で焼失前に消失していた!
という新事実が発覚しました。まあ、数百年も続いた老舗遊廓が、なんともあっけない最期だったことには変わりません。

そして戦後…
空襲で焼けた廓は、次々と赤線として営業を再開していくのですが、乳守の話は全く効きません。『全国女性街ガイド』にも、龍神の記載はありますが乳守のことは「ち」も触れておらず。
遊廓としての血統(?)はあの江戸の吉原や京都の島原にも負けていない、いや、ある意味優ってる乳守遊廓が戦争で焼けたくらいであっけなく消えるもんかな?と私の中で素朴な疑問として残ったりします。
確かに、堺の旧市街は「全滅」って言葉にふさわしいくらい焼失し、『街道をゆく』で司馬遼太郎が堺を歩いた際、「昔の面影が何も残ってない(要約:つまんない)」と司馬流に酷評したくらい何も残っていないので、当時の建物が残っているなんてほぼ100%期待できません。
まあ、これは歴史的文化財を大切にせず、戦争で焼け残った建物を「都市改造」という名目で壊し、せっかくの観光資源を自ら台無しにした戦後の堺市の行政の不手際もありますけどね。

NEXT:現在の乳守遊廓の姿は…

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