松島の最期
そんな繁栄を極めた松島遊廓も、戦争の足跡と共に徐々にその規模を縮小せざるを得ませんでした。
戦争が激化するにつれて「客」である男は兵隊に取られた上に、大阪府も昭和15年(1940)から贅沢や不健全な享楽を制限する方策に入りました。遊郭も貸座敷の新規営業は一切認めず、営業時間や派手な装飾もすべて「自粛」となりました。
昭和19年(1944)の『アサヒグラフ』に掲載されていた松島遊郭です。桜が植えられていた通りの中央線(後述します)は防空壕と化し、道には子供が遊んでいる姿も見受けられます。おそらく遊里としての営業はしていなかったと思われます。
そして、これが写真に残る松島遊郭の最期の姿となります。
昭和20年(1945)3月14日(3月13日深夜)、100機以上のB29が大阪に襲いかかった無差別空襲により松島遊廓は一面火の海になって全滅。日本一の遊里の繁栄を誇った松島の建物はすべて焼け跡形もなくなり、この日が「松島遊郭臨終の日」となりました。
『松島新地誌』には、一面焼け野原になった写真が残っています。すべて焼けたとは頭でわかっていても、いざ写真を見ると、まあ見事にきれいさっぱりと…と言いたくなるほどの更地状態。「焼失」ではなく「消失」という表現の方が正しいでしょう。
『松島新地誌』には、その時の状況を回想した座談会の内容が書かれてあるのですが、回想では娼妓の死者は「詳しいことは知らないけど10人くらい」と。それも全員「防空壕に逃げた人」と。しかし、270人くらいと書かれている書物もあります。
当時、空襲に遭ったある人の回想では、
「飛んでくる炎を避けて(中略)千代崎橋のあたりに来た時、川に着物が何筋も流れているのを見た。
大阪市の資料より
当時の女子の服装は上着(俺註:白のブラウス)にもんぺと決められていたので、なんでこんな所に着物が?と不思議に思ったのを覚えている。
それが実は人間で、その西方にあった松島の娼妓が逃げ場を失って川に飛び込み、流されたものだとわかったのは、(中略)ずっと後のことだった」
この回想だけでも”10人”はまああり得ないかなと。しかし、千代崎橋なら木津川の近くにあった新町(遊郭)の芸妓の可能性もありますね。
その後、7月10日の堺空襲により堺の遊里龍神・栄橋遊郭も灰になるのですが、空襲前に焼け出された松島の業者が現れます。
空襲で火が付いたらすぐ逃げろ。防火しても無駄やから娼妓もすべて逃がせ。
とアドバイスをしたそうで、アドバイスを聞いた業者は、空襲になったら娼妓を全員逃がしたと、堺空襲の回想録に遊廓の元楼主が書いてました。
それでも近くの川には着物を着た女性がたくさん浮き、私が幼い頃にも川底を掃除していたら骨が大量に出てきたなんてニュースがありましたが、回想録によると「ほとんどが芸妓」だったとか。
逃げて生き延びた娼妓はみんな廓に帰ってきたそうで、「そのまま逃げればよかったのにね。故郷に仕送りしなくちゃって思ったのでしょう」と元業者は回想しています。
また、貝塚も7月9日に、おそらく焼夷弾の余り弾が遊郭を直撃し3分の2が焼失しました。当時小学生だった元貸座敷経営者の子女の方から、
空襲の時、お女郎さんと一緒に逃げた
との証言を得たのですが、自分の子供と一緒に遊女を逃がしたのも、後述しますが焼け出された松島の業者が一部貝塚に移転しており、彼らから何かしらのアドバイスがあったのかな!?と思ったり。
松島の業者が、何故堺にまでやってきてアドバイスしたのか。『松島新地誌』によると、空襲時は一通り防火をしようとしたが、それも無駄なくらい焼夷弾は火の周りが速かったと記しており、それを伝えに来たのでしょう。それか、娼妓を逃がさなかった反省からか…。
その真相は、全員墓場まで持って行った当事者のみぞ知る。
松島の業者のその後
『松島新地誌』でむしろ興味深かったのはその後のこと。
空襲ですべてを失い困った松島の経営者たちは、西区の警察署長に相談します。すると、
港新地に移りなさい。あと池田の署長にも電話で伝えてあるから
と支援してくれました。
港新地も快く迎えてくれたものの、池田の方は足元を見てきたのか法外な土地使用料をふっかけてきて交渉決裂。今里や枚方、貝塚などに散っていったそうな。
ここでほう…と思うことは、戦後に赤線として名前が出てくる港新地と池田新地がくっきりと記載されていること。港新地は上述の通りですが、池田は戦後突然出来た赤線ではなく、戦前から種子はあったわけで。特に池田は資料が非常に少なく、ほんの1~2行だけとはいえ貴重な資料になります。
移転先は、『松島新地誌』の記述を図にすると、こうなります。
焼けてしまった遊廓を彼らはどう再建したのか。そして松島新地は何故元の場所に戻らず今の場所を安住の地にしたのか。そういった「戦後編」は次の章で書くとしましょう。
コメント