池田の赤線を歩く
池田の赤線は、池田駅から北に延びる道路の先にある綾羽地区にあったと記載されています。地図だけ見るとこんなところに赤線なんかあったの!?というような場所ですが、資料にはここにあったと書かれている。それも当時の店の名前まではっきりと。
まずは実地主義、とりあえず百聞は一見に如かずといざ旧赤線地区へ。
資料によると、池田の赤線は他の所とちょっと違った特徴がありました。それを箇条書きすると、
・地区は限定されているとは言え、住宅地に散在していること
赤線というと、基本は特定のエリアに集約されているのが常識です。が、池田の場合は上の地図で囲んだ道筋、つまり特定のエリアであることは確かなのですが、資料を見てみると店が道に沿ってズラリと並んでいるわけではない。一つポツン、そしてまた一つポツンと島のように存在しているのが特徴。
前述のとおり、池田新地は戦前~戦争中に小料理屋が自然に集まってそこで隠れ売春が行われていたエリアで、元は私娼窟だったようです。
戦後になり、豊中の大阪国際飛行場を接収したアメリカの進駐軍の要請で一般の家を改築し、空襲で焼け出された、遊郭経営のノウハウがある別遊郭の業者などによって「赤線」と化しました。
私娼街から赤線へ…というのは「玉の井型」と分類して良いのか、東京にあった「玉の井」のように、「アングラ」から「表」になったタイプの一つです。戦前からあった遊廓からではない「戦後新設型赤線」ともいえます。
今の「綾羽」地区です。
今は何の変哲もない住宅街…なのはどこの赤線跡も変わりません。ホンマにこんなとこに赤線があったのかと首を傾げたくなるくらい、ごくフツーの住宅街です。
しかし、資料にあった地図を見るとこの道筋なことは間違いなし。とりあえず地図とにらめっこしながら散策してみました。
そのごくフツーな家やアパートの間に、いかにも古そうな建物が残っていました。地図と家の位置を見比べると、この建物は「二勝の家」と書かれた店と位置がピッタシ一致。この家の古さからして、たぶん赤線時代の生き残りかもしれません。
資料の地図によると、ここは呉服っという名前の店だったそうで、赤線廃止後は小料理屋に転業したと。そう言われると、小料理屋の形といえばそうかもしれない。
かつて「中○治」という店があったとこです。名前の「○」は、資料の地図が手書きで文字が判別不能につき「○」にさせてもらいました。
建物からして赤線時代の建物ではなさそうですが、敷地はそのままアパートと店になっているようです。なんだかビミョーに面影がありそう!?
資料によると、「池田新地」の組合事務所があった場所です。
入り口がやけに奥まっている上に、玄関が二つあるのにも注目。どうやら構造的に「その後」はアパートにでも転業したようですが、今でも現役のアパートな様子でした。
赤線があった道を一つ外れると、人一人通れるかどうかの細い道があります。ここあたりにも一軒あったらしいのですが、前の建物がそうかどうかはわかりません。
資料によると「一般家屋を改良した」店が多かったらしく、カフェー建築とかのように明らかに「それ」とわかるものがこの「池田新地」には極めて少ないようです。
懲りずに、当時の地図を頼りに建物を求めて歩いていると、かつて「初音」という店があった場所にこんな建物がありました。地図によると隣にはもう一軒店があったそうですが、残念ながら駐車場と化していました。
「池田新地」の地図を見ると、一軒だけポツンと、それこそ孤島の如き店がありました。「大和屋」という名前の店なのですが、まるでハグレ一匹狼のように孤高に(?)あるこの一軒、たぶんもう建物自体は残ってないだろうとダメモトで行ってみると…。
そこにそれらしき建物(?)がありました。たぶんリフォームはされているような感じがするのですが、
玄関が二つあるのと、玄関の妙な斜め具合が私のアンテナをビビビと反応させています。建物の位置と地図を照合すると場所的には間違いないので、当確サインは出しませんが、当時の店の抜け殻の可能性はあるでしょう。
そして、資料にはこういう記述もありました。
「この新地に接続して小料理屋の密集地帯が数カ所あって相当の顧客を吸引しており、(以下略)」
大阪府の資料より
ということは、池田の赤線(綾羽地区)に隣接して「青線」もあったのかもしれません。その跡もあったらラッキーと探してみたのですが、如何せんそこまで詳しく書いてるわけでもなし、周囲を探してみても痕跡らしきものは見つからず。「青線跡」探しは諦めることにしました。
神社に残る池田新地の残滓
赤線跡の突き当たりに、伊居太神社という、漢字をどう読んでも「いけだ」とは読めない神社があります。南部にある呉服神社こと「下の宮」と対をなし、「上の宮」と地元では呼ばれています。
特に何の変哲もない神社ですが、本殿の入り口に一対の狛犬があります。
ふつうの狛犬なので素通りしてしまいそうなのですが、この奉納者の名前を見てみると!
「池田新地」の文字がくっきりと読み取れます。狛犬は新地が奉納したものだったのです。
昭和三十年六月吉日
池田新地組合」
と書かれており、池田が赤線だった頃の時に奉納されたものです。
「拾周年」とは池田新地ができて10年ということで、それが昭和30年ということは、池田新地は昭和20年にできたということが、これで間接的に証明されたということで。昭和20年とは戦争中か、それとも戦後すぐのことか。
池田には戦争前から花街がり、資料には確かに「戦争中にあった」との記述があるものの、
ほぼ期待せずに行ってみたものの、わずかながら痕跡はあったようです。赤線がなくなり60年以上経つものの、諦めずに探せばまだ「つわものどもが夢の跡」は見つかるかもしれません。そこは「遊郭・赤線界のインディージョーンズ」の腕の見せ所ですが、それより金と時間が欲しい(笑)
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