布施新地(大阪府東大阪市)|遊郭・赤線跡をゆく|

大阪の赤線布施新地関西地方の遊郭・赤線跡

戦後の大阪には、「赤線」と呼ばれる売春窟が10カ所近くも存在していました。
大阪の赤線には大きく分けて2種類に分かれます。
一つは戦前の遊郭がそのままスライドしたもの。戦前は日本でもトップクラスの規模だった松島遊郭や飛田遊郭、堺や貝塚、そして北河内の枚方があります。花街という建前ながら「実質遊郭」だった今里新地や港新地もここに分類されます。
もう一つは、戦後のどさくさに誕生した新興売春窟。遊郭の貸座敷経営者が空襲で焼け出され、別の場所で新地を形成するパターンが基本で、東京では「鳩の街」が典型的なモデルケースです。ところが、大阪ではこのタイプが案外少ない。
今回は、後者のレアケース、布施新地のお話。

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布施新地-たった7年しかなかった短命の特飲街

布施は大阪市の東側、中小企業の街で有名な東大阪市にある街の一つです。昭和42年(1967)までは布施市として一つの市を形成しており、現在でも東大阪市の中心地と連想ゲームすれば、布施を思い浮かべる人が多いと思います。
大阪市から電車で一駅という地理的関係もあり、「準大阪市」的な地位を占めていますが、大阪的な下町の雰囲気を残す庶民の街でもあります。

明治大正からの遊郭であれば、いつものように淡々と歴史を書けるのですが、布施新地は昭和26年に誕生し33年に消えた、その寿命わずか7年しかなかった遊里。7年じゃ歴史もへったくれもございません。よって語れるほどの歴史は全くありません。

また、徒歩で行けないこともない距離、近鉄電車なら1駅で、布施より規模も知名度も上であった今里新地があったこともあり、赤線としてはかなり地味だったようです。
府の民生局の資料によると、

1.大阪の赤い巨塔、松島・飛田新地の衰えがなかった
2.布施市内でキャバレーやアルサロの同業他社が繁盛した

「ために振るわぬまま売防法全面施行に遭遇した」と分析しています。

上述のとおり、布施新地は昭和26年(1951)に設立されました。
今里新地の業者が中心になり、戦争で焼け出された旧遊郭の業者が作った「新天地」、業態は待合でタテマエは芸妓の花街でした。しかし、そんなものはただの建前。戦後のこの時期で「新設の花街」はイコール売春窟のようなものであります。

ある時に突然ポンと現れた布施新地。

戦前からここが赤線になる伏線があったんちゃうか?

という何の根拠もない仮説のもと、図書館に篭って調べてみました。
その仮説はハズレのようで『布施市勢要覧』を見てみると前年までそういった存在は見当たらず。少なくても資料に出現したのは昭和26年からでした。
同じ『布施市勢要覧』には、当時の布施市にあった数々の組合の名前も掲載されていましたが、ははん…とカンが働いて見てみると、『布施新地組合』の文字が。

『布施市勢要覧』にはご丁寧に設立年月日まで書いており、新地組合は昭和26年12月1日設立とあります。事実上のお誕生日ですな。
同年末現在の、布施の待合の数は19軒。この待合の数=遊郭でいう貸座敷の数。布施新地スタート時点の待合の数は19軒ということでしょう。

そして、布施新地の待合の数の推移は以下の通り。

 

昭和27年:20軒
昭和28年:22軒
昭和29~31年:23軒
昭和32年2月:24軒 (接客婦数:99人)
売防法施行時:24軒

『布施市勢要覧』及び大阪府民生局の資料より

戦前の遊廓ならさておき、ありそうでないのが戦後の赤線の資料。
しかしながら、あれこれ探しているとほんの断片ながら見つかる時は見つかるもの。やはりアンテナを広げていると見つかるものです。

そしてもう一冊、『布施市商工要覧 1956年度版』も発掘して読んでみました。そしたらここに、昭和31年当時の待合の一覧がズラリ。
世界初公開(!?)、売防法施行直前くらいの時期の布施新地の待合は次の通り。


いろは
福国家
若竹
浜ゆう
阿ゑ美
京玉
蔦屋
海老巣
菊水
一力
五月
多慶家
丸家
梅家
万潮
松びし
平島
美彌袛
長谷川
すずめ
久呂川
花家
みつわ
芦家
合計:24軒
出典:『布施市商工要覧 1956年度版』

 

大阪府民生局のデータと照合しても、この待合の名前はほぼ一致します。なので、待合=赤線の店とみて間違いなさそうです。

そして昭和33年4月1日の売春防止法完全施行を控え、布施新地は3月1日までには廃業。旅当時流行だった「アルバイトサロン(アルサロ)」や旅館、飲食店などに転業し、7年という短い特飲街としての看板を下ろしました。

 

布施新地を歩く

布施新地の入り口布施駅

やって来ました布施駅前。根っからの大阪府民ながら、布施駅で降りる用事がそもそもないため、今回は10年前の新地実地調査以来二度目です。

 

布施新地赤線

布施新地の範囲は、布施駅から北西の方向、歩いて5~6分のところにあるところで、何軒かは1ブロック離れたエリアにあったものの、かなり狭いエリアに十何軒もの待合がひしめきあっていたようです。
布施駅前は、さすがは急行が止まる駅だけあってかなり開発されており、当時の建物はさすがに残ってないだろうな…と、あまり期待はしていませんでした。

 

布施新地の通り

布施新地の待合がひしめいていた通りは、住宅地になっているもののラブホも点在しています。こんな狭いところにラブホとは、やはり「血は争えぬ」ようです。

10年前にここを探索した際は、いくつか香ばしい建物が残っていました。

布施の赤線の建物

たとえばこれ。一瞥してああ…と頷かざるを得ないカフェー風の建物。10年前にはこんなものが堂々と残っていたのです。遊郭・赤線跡エクスプローラーとしては駆け出しの頃だったのでロクな事前調査もしておらず、この建物が赤線の時何の店だったのか、今となっては思い出せません。
10年後の今年に再訪問してみると、この建物はなくなっていました。たぶん。

他にもいくつか怪しい建物が、10年前には点在していました。が、この10年で布施もマンションが建つなど開発が進み、布施の大阪の下町的な雰囲気はだいぶ変わってきていました。赤線の建物と思われるものも、その開発の波に何軒か呑まれてしまった模様。

ところが、逆に前回探索時には見逃していたものも、今回見つかったのです。

 

布施新地の建物

旧新地内にある古そうな建物ですが、ここにはかつて「阿多美」「大海」という二つの店があったと記録にあります。現在も飲み屋さんが二軒…もし建物が赤線時代のものであれば、間違いなく布施新地の生き残りです。

 

布施にあった赤線の建物

こちらは赤線時代は「花屋」という屋号の店でした。同じ建物内に玄関が二つあるのは、客同士が鉢合わせないように「入る」と「出る」を分けているため。赤線建築にはよくあるものです。こういう店でやることは一つ、顔なじみ同士がぶつかったらやはりバツが悪いというわけで、玄関を二つにすることによって気を遣っているのです。
いわゆる遊郭建築でも、玄関は一つでも登楼用とお帰り用の階段が違っていたり、一工夫をしています。

 

布施新地

ピンと直感が働いて裏に回ってみると、やはり表の玄関は飾り看板建築もどきで、奥にはうなぎの寝床のように建物が続いていました。そしていちばん奥にはもう一つの玄関が。これは生き残りやな…自信が確信に変わった瞬間でした。

 

布施新地

こちらは、資料には「技芸養成所」とあります。布施新地は建前上は芸妓の花街のため、「芸」を磨くための練習場が必要でした。これはその建物だと思われます。確証が持てないので「技芸養成所」を鍵括弧をつけておきます。
ただ、民生局の赤線時代の資料でも、布施新地は「純粋に芸だけを売る芸妓」はゼロと書かれています。果たしてここで、どんな「技芸」を磨いていたのでしょうか(笑

 

布施新地

「技芸養成所」の前の道は、現在はいかにも下町という長屋のような住宅が軒を連ねていますが、布施界隈でもここだけ道が異様なのです。なんでこんな石畳に?戦前の遊郭の大通りのミニチュアのようなこの道は一体…?
資料では赤線地帯の圏外なので、違うとは思うのですが…私の直感がしきりにアラームを奏でております。

たった7年間しかなかった特飲街だったので、書けるネタはそう多くはありません。まあ、ここまで書ければ上等でしょう。

ところが、布施新地の話はここで終わりではありません。があればもあり!?
続編は布施新地亡き後(?)の姿を。わかる人にはわかるでしょう、お次はどこかを…

第二弾はこちら、布施のもう一つの姿は!

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