稲永遊郭跡を歩く
稲永遊郭跡へは、あおなみ線の稲永駅が最寄り駅となっています。
が、前項で述べたとおり港陽園とは目と鼻の先。遊里史に興味がある人は一セットと思って良いかと思います。
港陽園がある築港口から稲永までは、1時間に5~7本くらいあるほどのバス銀座。これ、戦前に稲永遊郭に遊びに行った人たちと同じルートなのです。遊客たちが1円札を握りしめ、息を荒めながらたどったルートをそのままたどるのも悪くはない。
稲永遊郭跡は、現在でも道筋にその面影を残しています。
明治時代に開拓された新田なので、道はある程度整地されていますが、神社マークがある旧遊郭の錦町だけは「申」の字の型になっています。
旧遊郭の敷地はこのように「浮いている」ことが多いのですが、稲永はその典型と言ってよいでしょう。
「申」の真ん中の道が、かつての遊郭の大通りでした。現在の道幅は至ってふつうなのですが…
遊郭時代の大通りは、他の遊郭にも見られる中央線の並木が見られます。昔は現在より道幅が広かったと思われます。
錦町は現在、静かな住宅街になっています。空襲で焼けた上に戦後は別地で赤線として営業していたのは前述のとおりなので、現在の錦町には元妓楼というものは存在しておりません。
錦町内のアパートにある市松模様のタイル…いかにも「見~つけた!!」というものでしょうが、昭和31年の住宅地図で確認しても赤線とは何の関係もありません。なので勘違いしないように。
しかし、何もないと言えば嘘になります。探せば何かがあるものです。
神社に見つけた遊里の残滓
旧廓のちょうど真ん中あたりには、錦神社という神社があります。
稲永遊郭とは間接的に関係があり、熱田からこちらへ移転した際、熱田神宮と津島神社の祭神、日本武尊と素戔嗚尊を勧進しました。後に商売繁盛のためお稲荷さんも建立されました。
資料には「造営された当時は社殿、鳥居などがすべてコンクリート製であった」1と書かれていますが、鳥居も確かにコンクリート製です。裏を見ると昭和7年9月に寄進されており、これも遊郭跡の生きた現物と言えるでしょう。
錦神社の狛犬です。こちらもコンクリート製のようですが…これは何かにおうぞ…志村、後ろ…ではなく裏見ろ、裏…私の第六感はそう耳元でささやいていました。
「お告げ」どおりに裏を見てみると…
ありました。狛犬の寄進者に貸座敷の楼主の名前が。
左は大吉楼と読めるものの、右は入開楼?ちょっと自信がありません。
しかし、こんなこともあろうかと、昭和初期の稲永遊郭の妓楼配置図を手に入れていました。さっそくそれの出番です。さて…と探してみると、神社から道を隔てた対角線側周辺に「八開楼」の文字があるので、八開楼で間違いありません。
大吉楼の方は、廓内に別館もあるのでなかなか羽振りが良かったのだろうと推察します。
もう一つ、灯籠にも寄進者の名前が残っていました。
損壊防止の鉄骨で上の部分が見えないのですが、右はその鉄骨で判別不能。左は「川か州楼」に見えます。それをヒントに妓楼配置図で該当の貸座敷を探してみると、一つ、稲川楼という「川」がつく貸座敷が見つかりました。
ここに間違いないでしょう。
二つ目は、左は判別不能で右は「○吉楼」と見えます。狛犬の寄進者にあった大吉楼で正解。…と思ったら寄進者の名前が違う。
そこでまた妓楼配置図を隅から隅まで見てみると、三吉楼という名前がありました。こちらは大吉楼より規模が大きく、廓内に「第二」「新三吉楼」と3軒も貸座敷を建てていました。稲永遊郭遊女屋稼業のドンファンのような感じか!?
神社の隣には銭湯があります。遊里と銭湯は切っても切れない関係で、貸座敷内にも風呂はあったものの、それは客か楼主用。遊女たちは基本、銭湯で汚れを落とすのが日課でした。
大規模遊里になると何カ所も銭湯があり、神戸の福原には戦前には廓内外含め10ヶ所もあったと言います。戦後の赤線時代の地図を見ても、5ヶ所くらい確認できます。
この銭湯も、戦前からあったことが地図から確認できます。経営者は違うかもしれないですが、場所は変わっていません。
謎の邸宅跡と戦争の傷
そしてもう一つ、遊郭時代と思われる古い遺物が残っています。
錦神社から東、大通りの東側に明らかに古い壁が残されています。
ブログなど写真では何回も見たことがあるのですが、今回は間近で見て見ることにしました。
門柱の装飾から、大正中期~昭和初期のもので間違いないと思います。柱上の装飾は一見豪華そうですが、型がありそれを刻印したり貼り付けただけ。
明治期は職人の一人ひとりの手作業だったのですが、ひな形ができることによって子供の砂遊びのようにペタペタ貼り付けられ、結果的に建築費用が安上がりとなり普及したそうです。
以前京大を散策した際の建築士のガイド氏の受け売りです(笑
間違いなく戦前の貸座敷の一つの柱と外壁だと思います。向かって右側の門柱のへこんだ部分には「○△楼」という表札がはめ込まれていたのでしょう。
遊廓の妓楼配置図によると、この場所には「はなや」という屋号の貸座敷があり、おそらくそれの外壁だったと思われます。
遠く離れた長州の府、萩にもかつては「貸座敷」と書かれた跡がある外壁が残されていました。
(※現存しません)
しかし、これに注目すべきはそれだけではありません。
よく見る…いや、よく見なくても壁や柱には大小様々な孔(あな)が開いていることにお気づきでしょうか。この孔は一体なんなのか。石なのでシロアリに食われたというわけでもありません。
(世の中にはコンクリートを食らうシロアリもいるそうですが)
これ、実は先の戦争の機銃掃射の痕なのです。
機銃掃射の痕は神戸三宮をはじめ全国に点在していますが、こちらは間近で見ることができ、触れることも出来る分生々しさはすごいです。
数ヶ所、大きくしかも深い孔がありますが、弾の口径が違うのか、それとも小さい孔を開けた銃弾が偶然「クリティカルヒット」したのか。そこまで詳しいことはわかりませんが、稲永遊郭に空襲があり、機銃掃射も行われた証拠。稲永は海辺で名古屋港や工業地帯にも近かったので、戦闘機クラスに襲われた数も多かったのではないでしょうか。
近代遊里史はそのまま近代日本史にリンクします。特に遊里と戦争は切っても切れない関係ですが、戦争の生き証人と出会うことも少なくありません。そして、遊里史だけを調べていても、遊郭を知ることは難しいのです。
一つの歴史を掘っていくと様々な側面の歴史にぶつかる…狭いトンネルを抜けた先は広い花園なごとく、視野(知識・見識)がぱっと広がっていきます。一を知ろうとすれば別世界の十を知る…これだから研究はやめられないのです。
稲永のこの遺構も、大東亜戦争という約80年前の悲惨な空襲の跡を間近で体験できる「教材」。遊郭という遺物を飛び越えて戦争遺産だと、私は感じています。
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