性地巡礼 長浜遊郭跡を歩く
遊郭があったエリア(南片町)は、長浜駅から東へ歩いて5〜6分の場所にあります。
実際に歩いてみるとわかりますが、遊郭のエリアはさほど広くもありません。猫の額ほどの区画に妓楼がひしめき合ってたのでしょう、そんなイメージです。
実は5年前の2020年に訪問したことがあり、2025年に再訪という流れでした。
が、たった5年では風景はほとんど変わっていませんでした。

遊郭跡は、現在も飲み屋が並ぶ歓楽街となっています。
血…いや、「地」は争えぬか。

南片町を目印に長浜の大通りを歩くと、目立つのはこの建物。
艶めかしいくらいの赤色の壁にベンガラ格子…これは間違いない。誰が見てもわかる。
ここはJazz&Pizzaという名前のお店だったのですが、残念ながら閉店となったようです。
Googleマップでここをロックオンすればすぐに遊郭跡にたどり着けたので、初探訪の人にとっては絶好の目印だったのですが、今はマップ上の登録も消えてしまいました。
ここは、赤線がなくなって数年後の地図によると、「美ふく」という料理屋になっています。
個人名が書いていれば、私が手元に持っている赤線時代の業者リストと照合して店を特定できるのですが、残念ながら見当たりませんでした。
が、店名から察するに、おそらくですが『全国遊廓案内』にも書かれている「福助楼」ではないのかというのが、私のささやかな推測です。

遊郭跡で次に目に付くのがこれ。現在は韓国料理屋になっていますが、周囲から明らかに浮いている洋風の看板建築。
alon-Mishimayaと正面には書かれており、昔の地図と照合してみるとここは「三嶋屋」という洋食レストランだったようです。
見た目は小さな映画館っぽかったのですが、長浜の遊郭跡周辺の中でもかなり奇抜な建物でした。

遊郭のメインロードはここでした。
右側は駐車場になっていますが、かつては5〜6軒の家が並んでいたのが、航空写真から確認できます。
そして、住宅地図の名前と赤線時代のお店の主の名前を照合すると、当時の店の名前と一致。

昔の航空写真を見てみると、現在駐車場になっている場所に、大きめの建物が所狭しと並んでいることがわかるでしょう。これ、全部妓楼でした。
上の写真の元妓楼群の解体跡にできたものでしょう、この道筋には「仲見世」と呼ばれた飲み屋街があったそうですが、それも跡形もありません。昔の写真はこちらのサイトにあるので、興味がある方はどうぞ。

こちらの建物、元妓楼をリフォームしたものと思われます。なんとなく面影を残しているのはもちろんですが、裏口へ回ってみると。

裏へ回ると「高崎屋」の文字が!これは『全国遊廓案内』にも記載がある妓楼の屋号ではありませんか。これは否定しようもない。

こちらは赤線廃止後の地図の所有者と、赤線現役時代の業者名簿を照合すると、『全国遊廓案内』にも記載がある「富久美屋」で間違いありません。

正面から見るとそんな大したことはないものの、横の奥行きがやけに深いのも遊郭の妓楼の特徴でもあります。
こいつも、横から見るとけっこうデカい。


カフェー建築とまではいかないけれども、長年遊郭・赤線跡をまわっていると「!!」となるもの。
ここは地図と昔の航空写真、そして赤線業者の名簿を照合してみると、おそらく『全国遊廓案内』記載の「島屋」だったのではないかと推定しています。

なんというか、この窓が赤線感を漂わせているのですよね。

この窓の装飾も独特すぎて思わずカメラを向けてしまいましたが、長浜遊郭を取り上げたブログやサイトでもこの窓をアップしている人はほとんどいませんね。
こんな「おいしい」窓を見逃すとは!?
…といっても、私も5年前は見逃してたんですけどね(笑

この建物、妓楼あるあるですが奥行きが広いというか深いというか、表玄関の小ささの割には大きいのが特徴。
カタカナの「コ」の形をして中庭があることがわかります。隣の家がなくなり更地になったからこそわかることで、外からは絶対に見えない構造になっています。

「コ」の部分はやはり中庭になっていたようです。

中庭の装飾の一つとしての灯籠がそのまま放置され、主なき家の死んだモニュメントとして放置されています。草の生え具合が年月を物語っていますね。

お宅…いや元妓楼の裏は水路になっています。
もしかしてですが、大昔はこの水路を船で客がやってきて、裏口から登楼していたこともあったのだろうか。そんな想像をたくましくさせる水路でした。
水路といえば…

『長浜百年』という写真集に、「長浜遊郭の娼妓」というお題の写真が残っています。
果たしてここはどこか。遊女がこんな集団で廓外に出るのはちょっと考えられないので、遊郭内または近くに違いない。右側の川がヒントになりそうです。
そうやってあたりを散策してみたら…

おそらくここじゃないかと。この写真の手前が遊郭なので、何かの帰りだったのかもしれません。
長浜遊郭生みの親!?の妙法寺

そして長浜遊郭生みの親(?)とも言え無くもない妙法寺。
遊郭の真ん中にドン!と鎮座するこの存在感よ(笑
妙法寺は秀吉の命で浅井長政の小谷城から遷されたお寺で、長浜の町ができた当時からここの歴史を見守ってきました。

遊郭とは関係ないですが、この妙法寺には秀吉の長浜時代に生まれた長男の秀勝(石松丸)の墓があります。
秀吉の子どもが眠る…それはしばらくは伝説のままだったのですが、平成に入り科学的な調査が行われ、「高貴な人」が葬られていたことがほぼ確定となりました。
写真では閉じられていますが、この中に秀勝の墓石が保管されています。
秀勝は実在を怪しむ説もあるほど謎の人物なので、これが秀勝の墓という確証はありませんが、それでも歴史のロマンを感じさせます。
なお、長浜遊郭を訪れる際、Googleマップの絶好の目標だったJazz&Pizzaがなくなったしまった今、この妙法寺をセットすると良いです。
ただし、油断するとGoogleさんが気を利かせて神戸の妙法寺などに飛ばしてくれます(笑

そして廓との境には妙法寺管理だったお墓が残っています。
秀勝の墓石は元々ここにあり、上述した「高貴な人の墓」はここから出土されたとのこと。
あるサイトには、この中に「遊女の墓」というキャプションがついた写真があります。

それがこれなのですが、確かに墓石に刻まれた戒名は「信女」なので女性の墓には間違いない。
しかし、これが遊女であるという根拠は何なのでしょうか?何の根拠があって「遊女の墓」と書いたのか?戒名も金がかかるので、遊女に戒名をつけてもらうほどの金があったのか?
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。現物を見た私の口からはそうとしかいえません。

廓跡の夜にはまた灯が点る。
最後に遊郭跡の紅くない灯を見ながら、今回のお話は読み終わり。


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