加津良遊郭
丸山地区を離れ次に向かった場所は加津良遊廓です。
これは明治からの歴史があって、『全国遊廓案内』にも掲載されている由緒正しい(?)遊廓です。中舞鶴というより、「北舞鶴」あたりの長浜という地区にありました。
時は明治35(1902)年、当時は餘部町という地区の一つだった町民が遊郭地設定の上申、つまり
「うちのとこに遊郭作って~m(__)m」
と京都府知事宛に提出しています。。
その様子が舞鶴市の公式な市史に書かれています。
明治参拾五年七月弐拾九日(←※注:明治35年7月29日)
『舞鶴市史』
遊廓地設定の儀に付上申
不肖上野栄蔵外拾弐名余部町住民を代表し遊廓地設定に関する概略数項を調査し賢明なる委員長閣下に供す希くは速かに御採用あらんことを依て此段上申候也。明治参拾五年七月弐拾九日
京都府加佐郡余部町
町民代表者(一三名連署印)舞鶴新市街委員長
京都府書記官 青木磐雄殿
(以上、原文をわかりやすいようにカナをかなに直しました)
「何でここに遊廓が必要なのか?」ということを、調査書という付録で説明しています。原文のままで書くとかなり長いので、箇条書きにすると以下の通り。
①海軍基地建設で大量の労働者がやって来た結果、どこの馬の骨かわからない輩が善良な地元婦女子をたぶらかし、更にこれまたどこから来たのか私娼がはびこり風紀の乱れが甚だしい。
②風紀の乱れは家庭の乱れにもつながる。遊廓設置により教育上の効果もあり。
③既に遊廓として開業している龍宮は鎮守府や海兵団より遠く、むしろ基地に近いうちの方が遊廓設置場所としてふさわしい。呉は遊郭を海兵団から距離を置いて設置したがために一度失敗しているので、呉の二の轍を踏むべからず。
至極ごもっともな理屈をを並べていますが、要は
遊郭で儲けとる朝代や龍宮の分け前、俺たちにもよこせや
ってことです(笑
請願が通ったのか、その3年後の明治38(1905)年に加津良遊廓が誕生します。朝代や竜宮より一歩遅いスタートでした。
加津良遊郭跡を現在の地図だけ見ると、
なんでこんなところに遊郭が…
と、頭上に「???」が飛ぶ人も多いと思います。
舞鶴に存在していた各遊廓を地図上で落とすと、その疑問は可視化されます。
龍宮遊郭の(強制)移転先の丸山はさておき、朝代・龍宮の遊郭は鉄道駅からさほど離れていません。といっても、龍宮遊郭編でも述べましたが、龍宮は駅からけっこう離れてますけどね…それでも、加津良遊郭よりは全然マシ。加津良など、車以外でどう行けばいいのさ…と今でも途方に暮れてしまいます。
しかし、地図を拡大してみると、加津良地区周辺には海上自衛隊の航空基地、弾薬庫などが近隣にあり、「海猿」養成所の海上保安学校も存在します。もちろん、これらは旧帝国海軍から引き継がれた施設。遊郭跡に向かう道の途中でも、白い制服着た自衛隊員とすれ違うこと数度。日常生活で「海軍さん」と出会う機会はまずないので、新鮮かつ異空間に来たような感じがしました。
加津良遊郭が設置されたのも、こういった海軍さん目当てだったことは状況証拠から明らか。おそらく舞鶴鎮守府から、
ねえ、遊郭作ってくんない?
とお願いされたのかもしれません。
しかし、舞鶴の都市史や海軍史を頭に入れておくと、ちょっと不思議なことがわかります。上述の加津良遊郭設置請願書には、
「既に遊廓として開業している龍宮は鎮守府や海兵団より遠く」
と書かれていますが、実際に場所を調べてみると…
全然ちゃうやんけ!ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )
と激しくツッコミが入ることとなります。全然龍宮遊郭の方が近いのですが…(笑
ところで、加津良遊郭跡を訪ねた時、一時期土砂降りの雨に見舞われました。その際、海軍のことも調べていた私にとって、少し異様な光景を目にしました。
一般隊員はさておき、将来の提督候補の士官(幹部隊員)が傘を差して歩いている…。もしかして旧海軍でいう下士官だったかもしれませんが。
昔の海軍軍人は、水兵から士官まで、雨の日に軍服着たまま傘を差すのは禁止です。雨宿りや、雨降ってきたー!と走ることすら、「海軍軍人としてみっともない」と罰則の対象です。
じゃあ、雨降ったらどうするのかというと。
じゃあゆっくり濡れてこい。軍艦に乗ったらなんぼでも海水浴びるやろ。雨水かぶって風邪ひくくらいじゃ今すぐ荷物まとめて海軍から去れ
「雨もしたたるいい男」をリアルでやっていたのが海軍さん。
何故か海軍大好きだった慶応大学の名塾長、小泉信三が母校応援のため野球の早慶戦を見ていた時のこと。試合途中で雨が降り、選手が慌てて走りながら雨宿りする風景を見て一言。
みっともないな…。その分海軍士官は格好いいよね
と思ったそうです。
旧海軍の伝統を引き継ぎすぎて、
旧帝国海軍そのままやん!
と陸上・航空自衛隊から陰口をたたかれている海上自衛隊も、さすがにこれは継承していないのか。
閑話休題。
その加津良遊廓は「調査書」とは裏腹に海軍の水兵たちで賑わった…かどうかは資料がほとんどないのでわかりません。
大正2(1913)年の営業戸数と女性の数は27戸・91人、大正12(1923)年は28戸・104人というデータが、『舞鶴市史』に残されています。
しかし、やはり舞鶴が鎮守府から要港部に格下げになった影響を受けたか、『全国遊廓案内』では営業戸数20戸、女性の数23人と、数字だけ見るとほぼ壊滅的な打撃です。
また、「龍宮より地の利が有利」と調査書に書かれているものの、
★大正12年
龍宮 :貸座敷数 34軒 娼妓数 205名
加津良:貸座敷数 28軒 娼妓数 104名
★『全国遊廓案内』(推定昭和2~4年)
龍宮 :貸座敷数 29軒 娼妓数 80名
加津良:貸座敷数 20軒 娼妓数 23名
と大きく水を空けられています。
『全国遊廓案内』によると、龍宮を意識しているのか料金は「時間遊び」が1円、「お泊り」が6~7円と龍宮と全く同じ、「同業他社」としてしのぎを削り客の取り合いをしていたことも、何となく数字からわかるような気がします。
また、龍宮遊廓は妓楼に遊女が住みこむ「居稼ぎ制」だったのですが、加津良は置屋があって揚屋に遊女・芸妓を送りこむ「送り込み制」とのことです。
で、時は戦争へと進み戦争が激しくなった昭和18(1943)年、加津良遊廓は海軍の命令で全戸明け渡されて遊廓の歴史として幕を閉じます。
その後、他遊廓は赤線として復活します。が、ここは復活しなかったことが、丸山新地の欄で述べた資料などからわかります。
現在の加津良遊郭跡
加津良遊郭は上述のとおり、舞鶴市内の北の外れ、海上自衛隊の施設や海上保安学校などがある地区の一角にありました。
加津良遊廓があった場所です。地図を見ると、何となく遊廓があった場所が区画整理され道幅が広いことがわかります。
前回の竜宮遊郭もそうですが、Google mapを見とったら何となく「おかしいなここ…」とピンとくる所があります。そのカンは伊達ではない、今でも地形的に遊廓跡として妙な存在感を醸し出している所もあります、たとえ建物が一つも残っていなくとも。
そして、実際に現場へ行ってみると…
うん、やはり郊外の割には不相応な道幅な感じがします。
『舞鶴市史』には開業当初の加津良遊郭の写真が残っているのですが、たぶんこの道だと思われ。
で、周りを見ても建物はすっかりなくなっています。
これが唯一残ってる「古そうな」建物。この格子窓は何となく遊郭時代からの生き残りだとは思います。が、半分はリフォームされており、何とな~~く面影があるかな?って程度です。
これは遊里跡のメインロードらしき道を逆から写したもので、赤矢印の場所がが「上に残ってる建物」の位置です。
止まってる車と比較してもらうと察しがつくかと思いますが、この道がやたら不相応に広いことが改めてわかります。メジャーを持って幅を図ってみたい気分です。
ここが、遊郭の入り口だったかもしれないところです。
それ以外は、見渡す限り往時を偲ばせる建物はないようで、海沿いの住宅街になっていました。竜宮で味を占めたので、地元の人にちょっとヒアリングしようかとも思いましたが、こんな時に限って周りに誰もいない
加津良遊廓の資料がこれ以上ないので何とも言えませんが、ここは日本海の波に歴史ごと洗われて「遺跡」と化した…という感じか!?
「遊郭・赤線跡をゆく」舞鶴三部作、これにて完。
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