貝塚遊郭跡の今
赤線の灯が消えて62年目、令和2年(2020)の貝塚遊郭跡のメインストリート、「本通り」です。遊郭跡によくあることですが、周囲の道に比べて明らかに広い一本の道がまっすぐ走っている…それが遊郭の中心を走った旧大通り。
ここが現役だった頃、両側には和風洋風の建物が建ち並び、夜には嬌声がBGMとして賑わいの雰囲気を醸し出していたのでしょう。
在りし日のカフェー建築がまだタイムカプセルのように残っています。再開発から逃れた故の結果ですが、逆に言えば貝塚の衰退の象徴とも言えなくもないし、貝塚の60年以上前の殷賑さの面影とも言えます。
遊郭の跡は、前ばかり見ていても見つかりません。
上を見て電柱を見てみましょう。そこには「新地」の文字が。電柱には旧町名が遺跡の土器のように残っていることがあります。今回の「新地」もそう。新地がすべて遊郭ではないのですが、遊郭跡の電柱には「新地(またはシンチ)」の文字が残っていることが多いのです。
ところで。
上述した「遊女の墓」の向かって左側、赤枠部分に貝塚市が作成したパネルがあります。
撮影時期は不明ながら、「貝塚遊郭」と書かれた写真があります。が、これは戦前のではなく戦後の赤線時代、もしくは赤線が廃止になった直後くらいの写真かもしれません。戦後だと遊郭ではなく特飲街(赤線)。素人や一個人がブログで間違えるならスルーするが、公的教育機関が間違えてどないすんねん。この写真の遊郭の根拠は何だと担当者に一度聞いてみたい。ただ、ホントに戦前の写真だったらごめんなさい。
それはさておき、突き当たりにある赤で囲んだ建物は…
その突き当たりの向かって左側にこの建物が残っています。突き当たりからは見えないので写真の建物ではないはずですが、これと同じ様式の建物が突き当たりにあったと推定できます。
一つ、残念なお知らせがあります。
貝塚新地のど真ん中に鎮座していた料亭『深川』、2年前に閉店してしまいました。
ここは空襲で焼けたはずなので建築は戦後のはずですが、さすがは料亭と贅を極めた内部と料理の数々は今でも記憶に残っています。「拝観料約1諭吉」とお金はかかりましたが、こうして閉店すると内部をカメラに収めておいてよかったと感じ入ります。
そのときのブログはこちら。
私が貝塚遊郭の存在を知り、初めて訪れたのは2006年になります。最初に訪れた遊郭・赤線跡は京都の中書島と橋本でした。が、2番目の貝塚(と堺)は地元史との絡みもあり面白さに気づくこととなり、遊郭・赤線史家としての私は貝塚から始まったと言っても過言ではありません。
それから14年、何度かここを訪ねましたが風景は全く変わっていません。ここ界隈だけ時間が止まっているかの如く、何一つ変わっていない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。それは私が判断することではありません。が、赤線カフェー跡がふつうのカフェになったり、どうにか活用しようという動きはなきにしもあらず。60年も経てば建物も歴史の一部、遊郭も赤線も歴史の一部だからそこをテーマにしたものを作れないだろうかと、個人の一感想として感じます。
新しいビルを建てるばかりが再開発ではない、古いものを、それも地域史的には「負の遺産」を正にもっていく、それも再開発ではなかろうか。貝塚の古いカフェー建築は、私にそう教えてくれている気がします。
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