貝塚の空襲と遊郭の被害
戦争の激化と共に遊郭の営業もままならなくなり、統計書の数字も昭和14年からどんどん下がっていきます。昭和19年頃になると一部の貸座敷は海軍に接収され、隣の佐野町1にあった飛行場のパイロットの宿舎になっていたと地元の方いわく。
そして貝塚遊郭にとっての運命の昭和20年(1945)7月10日。
この日、B29が大阪府堺市・和歌山県和歌山市を空襲しました。堺にあった龍神・栄橋、乳守遊郭がこの空襲で「消失」しています。
この二つに挟まれてあまり話題にされないのが、貝塚市の空襲です。え?貝塚って空襲を受けてたの!?とびっくりする人もいるかもしれません。
(『全国主要都市戦災概況図 岸和田』国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵)
赤で塗った部分が、焼夷弾により被害を受けた地域です。焼けた家屋はもちろん、死者も何名か出ています。
貝塚は空襲を受けたことは事実。しかしなんでこんなところを空襲したのか?
答えはおそらく、「爆弾が余った空襲」(私による仮名)ではないかと。
B29は日本まで空襲に来るものの、一発でも爆弾を多く積むため搭載燃料は基本的に往復分ギリギリ。爆弾を落としMission CompleteなB29は、さっさと帰ろうとします。余裕かまして寄り道したら不時着不可避。
その時、爆弾が余ってたとします。燃費を上げるためには本体重量を軽くする。これは飛行機だけではなく、車やバイクも同じく基本中の基本です。

やべ、爆弾余ってんじゃん!そこらへんに適当に落とせ!
そんな感じで何の関係もないところに落とすこと、実際にあります。故郷や近くの空襲の記録で、「なんでこんなとこに爆弾落としたの?」というところがそれ。貝塚もそれだったはずです。
それを頭に入れ、上の地図をアップしてみます。

なんということでしょう!遊郭の地区が真っ赤っかです。そう、貝塚遊郭は、実は空襲で焼けてしまったのです。

戦後すぐの米軍による航空写真でも、遊郭の半分以上が空襲で焼け、更地になっていることが見て取れます。
おそらく、「捨て焼夷弾」がたまたま遊郭中心部をピンポイント直撃してしまい、焼失してしまったのだろうと。もし万が一、否、億が一遊郭を狙って落としてたら、投弾担当者のスキルは非常に高い。
貝塚遊郭の話を聞こうと声をかけたご婦人がたまたま、この空襲をリアルタイムで覚えており(当時小学生)、焼失したのは上記地図通りで間違いないと断言しました。空襲の時、南の方向へ避難して遊郭が燃えていたことをよく覚えていると。あと、ご婦人も偶然遊郭経営者の子供だったのですが、女郎さんも自分らと一緒に逃げたと証言していました。貝塚市の公式記録にも、近木地区の死者は確かゼロとなっています。
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