貝塚遊郭(大阪府貝塚市)|おいらんだ国酔夢譚|

貝塚の遊郭関西地方の遊郭・赤線跡
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貝塚遊郭の歴史

江戸時代、貝塚周辺には紀州街道という大坂と和歌山を結ぶ重要な幹線道路がありました。貝塚は紀州街道の大阪と和歌山のちょうど中間地点にあたり、岸和田藩も経済政策として旅籠屋(旅館)を集約させました。
貝塚が宿場町として繁盛するにつれ、旅籠は「泊り茶屋」を併設、「飯盛女」という女性を置いて客にサービスする許可を藩から得て営業していました。これが貝塚遊郭の原形です。当時の史料によると、遊女は「飯盛女」でしたが「おじゃれ」「おしゃらく」とも呼ばれていました。

そんな江戸時代も後期のこと、遊郭にお千代という遊女がいたそうです。本名なのか遊郭での源氏名なのかは不明です。
そんな彼女が病気を患い故郷に帰る途中のこと。貝塚から紀州へと通じる道の途中で彼女は水を欲し、川辺へ寄ると自分の顔が流水に映りました。そこに見えた顔は、見るもおぞましい自分のやつれた姿でした。その自分じゃないような形相に彼女はショックを受け、

遊女
遊女

こんな姿では帰れない!

と自ら命を絶ったという悲しいお話が残っています。
一人の薄幸な女の悲しい結末ですが、それをかわいそうに思った地元の人たちが、ここに彼女の墓を建てて丁重に供養したそうな。

その墓が、貝塚市の山奥に残っています。「遊女の墓」とそのままのお墓は、確かに泉州から紀州へ通じる旧道に存在していました。

言い伝えによると、彼女が亡くなったのが文化10年11月14日、文化10年を西暦に直すと1813年。彼女が亡くなって207年が経っています。

当時の情勢は、外国船が日本近海にあらわれ始め、ヨーロッパではナポレオンが暴れまくっていた時期。当時の光格天皇がお千代の死の4年後に譲位、上皇となります。現在の上皇陛下のご譲位はこの時以来だと日本がざわついたのは記憶に新しい。

周囲に人が住んでいる気配はないのですが(ただし村の跡はある)、今でも地元の人が住んでいるのか、それとも訪れる人が置いたものか、花もちゃんと手向けられ、定期的に掃除もされているようです。

しかし、上の写真のものは比較的最近にできたものらしい。

貝塚遊女の墓

その片隅に申し訳なさそうに鎮座している古い地蔵がオリジナル。
ここを訪ねたのは今年ではない7年前ですが、こうして名前が200年経っても知られ、墓が残っているだけでも、お千代さんはまだ幸せな方かもしれません。

名が知られていることが幸せかどうかは、あの世の彼女に聞いてみないとわかりません。が、名前さえ知られないまま、どこに葬られたかさえも知られないまま消えたほとんどの遊女よりかはマシだろうと思いながら、ささやかなお賽銭を入れて彼女のあの世での幸福を祈りました。

明治以降の貝塚遊郭

時は明治に移り、貝塚は明治6年(1873)「貸座敷遊技免許地」として公認遊郭となります。明治時代の貝塚遊郭の記録は少ないですが、明治14年1月当時には貸座敷数25軒、女郎数72人という記録が残っています1

ちなみに、明治26年明治26年(1893)3月1日当時の娼妓の花代(線香代)は以下の通り。


 

・朝より晩まで 金70銭(14本)
・朝よりヒルまで 金30銭(7本)
・ヒルより晩まで 金40銭(8本)
・バンより朝まで 金70銭(14本)
・バンより鈴まで 金25銭(10本)
・鈴より朝まで 金25銭(5本)
・初線香 金20銭(4本)
(当時の看板の原文通り)

江戸時代の貝塚遊郭は紀州街道沿いにあったとされていますが、やはり主要幹線沿いに遊郭はふさわしくないと移転させられ、大正3年(1914)にミカン畑だったという近木こぎ地区に移りました。現在、「遊郭跡」されている地区です。

遊郭の移転となると、「けがれ」としてふつうはド郊外に移転させられます。日本家屋のトイレは、同じく穢れとして建屋の外れに置かれることがほとんどですが、遊郭が性欲という穢れとして町外れに追いやられたのも、おそらく同じ考えだろうと思います。
しかし、貝塚は展開が違っていました。明治30年に南海鉄道が貝塚駅を開業つくりましたが、遊郭の移転先はほぼ駅前。郊外どころか、逆に立地条件良好の土地に移った栄転となりました。
駅前、もしくは駅から遠くないこういうくるわを、私は「駅前遊郭」と造語しています。

「駅前遊郭」の発展

その「駅前遊郭」のアドバンテージを得た貝塚遊郭は、地方遊郭ながら順調な発展を遂げます。

貝塚遊郭貸座敷数と遊女数の推移

明治、大正、昭和の貝塚遊郭の数字を抜粋してみました。順調に発展していく様子がわかると思います。
昭和12年(1937)に数字のピークを迎えているのは、盧溝橋事件に始まる支那事変(日中戦争)で一斉に召集令状が下り、「筆下ろし」のために賑わったから。
「童貞で死なせるのは忍びない」と入営する前に遊郭へ登楼させ、「おねえさん」の手ほどきを受ける…というのは当時は常識でした。昭和12年以降の数字の伸びは貝塚だけではなく、全国どこも同じ傾向だと思って結構です。

統計書の数字をまとめていると、一つの疑問が浮かびます。
『「花街」異空間の都市史』(加藤政洋著)によると、大正3年に近木地区に移転した際の貸座敷免許者数は32名、娼妓数は60名とあります。加藤氏の著書は私も参考資料にさせていただいているほどクオリティが高く、貝塚遊郭関連のブログでこの数字を引用する人も多い。

加藤氏は『大阪朝日新聞』から引用していますが、『大阪府統計書』の数字を並べるとおかしいことに気づきます。

貸座敷数は合ってるでしょうが、「娼妓60名」は前後年の数字を見ても明らかにおかしい。貝塚の娼妓数推移を明治12年から昭和15年まで60年分並べてみても、前年からほぼ半減した「60名」になった後、翌年ほぼ倍増にV字回復…という劇的な数字の変化はありません(10~15名の減少はある)。

残念ながらネット上の『大阪府統計書』が、事もあろうに大正3年度だけ存在しないのですが(なんで上手い具合にそこだけ抜けてんねん)、前年の数字は翌年の大正4年統計書から推定できます。

大阪府統計書貝塚遊郭娼妓数大正4年

(『大阪府統計書』大正4年 貸座敷及娼妓数より)

前年(大正3年末)から開業34名、廃業31名。前年比3名増の117名の娼妓が在籍…という見方になるので、大正3年は114名という計算が可能です。60名との矛盾は如何。

貝塚が発展した理由

皆さんは、泉州とくれば何を思い起こすでしょうか。だんじり?水なす?いや関西空港?でも、中には「タオル」を連想する人もいるのではないでしょうか。

泉州地区は江戸時代から綿花の生産地で、近代に入り今の泉佐野市在住の発明家の手で紡績機が作られ、西洋風タオルの製造が盛んになりました。
そこで紡績業が一気に発展、10年で海外に輸出、大正はじめには日本のタオルの9割以上を占める無敵のタオル大帝国となりました。岸和田紡績や大日本紡績(ユニチカ)などもここで生まれました。

遊郭も、タオルで一儲けしたブルジョアの皆さんで毎日賑わっていただろうことは、説明するまでもありません。また、市内の置廓に頑として反対していた和歌山市の客を南海電車を通して取り込んだことも、貝塚の発展に拍車をかけました。

東洋の魔女貝塚ユニチカ

1964年の東京オリンピック、「東洋の魔女」こと日本女子バレーボールチームが金メダルを取ったことは、昭和スポーツ史の一部として現在でも刻まれています。そのチームの母体が、当時「大日本紡績」だったユニチカのチームでした。そのチームの本拠地は、実は貝塚。女子たちは貝塚の工場で鬼監督のもと猛訓練を繰り返していたのです。

泉州のタオル大帝国っぷりは、私が高校生の頃まで健在でした。

「タオルに金払う奴なんかアホや」

昔の泉州民はそう豪語していました。泉州民の挨拶代わりは何かとタオル。タオルなんて「もう要らんわ」というほどもらいます…実際、家には一人暮らしなのにタオルだけが40枚くらい不良在庫のように。泉州タオル帝国は、我が家の中では未だ終焉を迎えておりません。
バブル崩壊後は、安い中国産や今治タオルの大躍進に押されて全く元気がない泉州タオルですが、捲土重来を狙って密かに牙を研いでいるのだろう、地元愛が強い私はそう願いたい。

またもう一つ、貝塚には重要なお仕事があったと、私はある推測を立てています。それが、「水間観音への穢れ落とし」
水間寺は厄除け観音として有名で、今でも参拝客が絶えません。私も厄年の際はここで厄除けしてもらいました。

水間鉄道

貝塚からは水間鉄道というローカル鉄道線が水間寺までの輸送を担っています。

信心深い人たちにとって、水間寺の玄関口である貝塚で穢れや煩悩を落とし、きれいな気持ちで参拝したい。そんなこともあるのではないでしょうか。

貝塚空襲と遊郭

戦争の激化と共に遊郭の営業もままならなくなり、統計書の数字も昭和14年からどんどん下がっていきます。昭和19年頃になると一部の貸座敷は海軍に接収され、隣の佐野町2にあった飛行場のパイロットの宿舎になっていたと地元の方いわく。

そして貝塚遊郭にとっての運命の昭和20年(1945)7月10日。
この日、B29が大阪府堺市・和歌山県和歌山市を空襲しました。堺にあった龍神・栄橋、乳守遊郭がこの空襲で「消失」しています。
この二つに挟まれてあまり話題にされないのが、貝塚市の空襲です。え?貝塚って空襲を受けてたの!?とびっくりする人もいるかもしれません。

1945貝塚空襲概況国立公文書館
(『全国主要都市戦災概況図 岸和田』国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵)

赤で塗った部分が、焼夷弾により被害を受けた地域です。焼けた家屋はもちろん、死者も何名か出ています。
貝塚は空襲を受けたことは事実。しかしなんでこんなところを空襲したのか?
答えはおそらく、「爆弾が余った空襲」(私による仮名)ではないかと。

B29は日本まで空襲に来るものの、一発でも爆弾を多く積むため搭載燃料は基本的に往復分ギリギリ。爆弾を落としMission CompleteなB29は、さっさと帰ろうとします。余裕かまして寄り道したら不時着不可避。
その時、爆弾が余ってたとします。燃費を上げるためには本体重量を軽くする。これは飛行機だけではなく、車やバイクも同じく基本中の基本です。

米軍
米軍

やべ、爆弾余ってんじゃん!そこらへんに適当に落とせ!

そんな感じで何の関係もないところに落とすこと、実際にあります。故郷や近くの空襲の記録で、「なんでこんなとこに爆弾落としたの?」というところがそれ。貝塚もそれだったはずです。

それを頭に入れ、上の地図をアップしてみます。

1945貝塚空襲概況貝塚遊郭

なんということでしょう!遊郭の地区が真っ赤っかです。そう、貝塚遊郭は、実は空襲で焼けてしまったのです。

貝塚遊郭空襲被災map

(貝塚市の資料より)

詳細な焼失地図がこれ。赤枠で囲んだのが遊郭の範囲ですが、黒塗りが焼けたところ。貸座敷の半分は焼けています。

戦後すぐの米軍による航空写真でも、遊郭の半分以上が空襲で焼け、更地になっていることが見て取れます。
おそらく、「捨て焼夷弾」がたまたま遊郭中心部をピンポイント直撃してしまい、焼失してしまったのだろうと。もし万が一、否、億が一遊郭を狙って落としてたら、投弾担当者のスキルは非常に高い。

貝塚遊郭の話を聞こうと声をかけたご婦人がたまたま、この空襲をリアルタイムで覚えており(当時小学生)、焼失したのは上記地図通りで間違いないと断言しました。空襲の時、南の方向へ避難して遊郭が燃えていたことをよく覚えていると。あと、ご婦人も偶然遊郭経営者の子供だったのですが、女郎さんも自分らと一緒に逃げたと証言していました。貝塚市の公式記録にも、近木地区の死者は確かゼロとなっています

戦後の貝塚新地-そして赤線へ

空襲で焼けてしまった貝塚ですが、そこは遊郭、フェニックスのように蘇ります。焼けた遊郭がいつから営業再開したのかなどのデータは残っていませんが、おそらくすぐ再開したものと思われます。

一部『貝塚市勢要覧』には当時の「新地組合」の名簿が掲載されています。「カフェー」と記載されているので貝塚の業務形態はカフェーだったことがわかります。
そこに掲載されていた業者(屋号)は以下のとおり。

貝塚赤線の店一覧・幸盛
・梅の家
・竹家
・幸龍
・松家
・千歳
・深川
・花月
・上芳
・繰駒
・第二山村

また、『全国女性街ガイド』にはこう書かれています。

未亡人クラブが多く、大阪に住む女性が出稼ぎに行く。その数は百名を下るまい。(以下略

引用:『全国女性街ガイド』

この数が本当だとすると、赤線の接待婦数は遊郭時代のピーク時の3分の1くらいか。戦前の勢いそのままの紡績会社のサラリーマンが、鼻息を荒くしながら夜の貝塚の赤い灯のもとに消えていった情景が思い浮かびます。

が、ある資料に少し気になる記述が。

近年交通機関の発達と共に遊客の訪れは減少し、寂れつつあるときに売防法の施行となり速やかに解散した

引用:大阪府民生部の資料より

赤線を監視していた大阪府の関連部署の資料なので、ほのかに信憑性がありますが、道路の整備や電車のスピードアップなどで遊客の流れが変わったのかと思われます。

貝塚遊郭赤線空撮

(貝塚市勢要覧 昭和二十九年版より )

貝塚カフェー街を空撮した珍しい写真です。右側が貝塚駅方面、左側が海です。真ん中を縦(東西)に貫く、少し幅が広い道路が遊郭・赤線の大通りで、赤い灯花盛りの頃は道の両脇に女性が並んでいたのだと容易に想像がつきます。

そして、これも貝塚にとっては運命の日である昭和33年(1958)4月1日、売春防止法適用3により店の赤い灯は消え、色街としての歴史は幕を閉じました。

その後は潜り売春が1件検挙されただけで、「旧業者はすべて土着の住民と言うべき永住者であったこと、経済力豊かな農家や他事業者、会社役員など法を犯してまで営業する必要がない」人たちだったこともあり、至って静かだったそうです。

幻の「貝塚ハイカラ街」計画

戦前は岸和田をしのぐ殷賑を極めた貝塚でしたが、売防法による赤線廃止はもちろん、工場移転などによる地場産業の衰退などにより貝塚駅前はさびれる一方だったと言います。赤線時代は、駅から赤線まで150メートルくらいの道を飲食店が軒を連ね、深夜まで賑やかだったと言いますが、それもなくなり「うらぶれた姿を晒している」と雑誌に書かれる始末。

指をくわえて衰退を見守るわけにはいかない地元は、昭和49年(1974)に貝塚復活計画を練り始めます。そこで目を付けたのが近木の旧遊郭。

当時は赤線廃止時の様相がほぼ手つかずで残っており、写真を見ると和風と洋風カフェー建築が入り乱れた、ちょっと不思議なワールドな感じでした。後述しますが、今も時間が止まったかのように、当時の建物がいくつか残っています。

が、昔はもっと残ってたのかと。たとえるならば、『千と千尋の神隠し』に出てくる「油屋」の前にある飲食店街のような雰囲気に近いと言えば近い。

今やノスタルジアとなってしまった大正の爛熟期の姿を再現し、再開発ビルの近代的な姿と対比させながらも、全体として一つのショッピング・センターとして機能させることを考案するに至ったのである

引用:『貝塚近木旧遊郭蘇生計画』

引用:『貝塚近木旧遊郭蘇生計画』

要は遊郭の建物を利用し大正浪漫をテーマにしたショッピングモール、名付けて「貝塚ハイカラ街」。テーマは「灰色の南海沿線に『桜色の貝塚』が出現する」。伊勢の「おかげ横丁」のようなものを作ろうと言うイメージでしょうが、企画側は気合い十分、鼻息の荒さが文章からにじみ出ています。45年前の企画書なのに、読んでいるだけでものすごくワクワクしてきます。

しかし!

作られていないということは、いつか、どこかでポシャったんでしょうね(笑

NEXT:現在の貝塚新地は?
 
  1. 『貝塚むかしばなし』より
  2. 現在の泉佐野市
  3. 施行は昭和32年4月1日だが、特別に適用猶予期間(1年)が設けられた。
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コメント

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