前回は弘前の伝統的な遊郭、寿町(北横町)を紹介しました。
弘前の色街はこれだけ…先達のブログをサラッと読んでみても、横並びに同じことが書かれていました。
が!私はここで終わりません。ここで終わっちゃ大枚はたいてわざわざ弘前まで来た甲斐がない。
というわけで、今回は少なくてもググっても出てこない、弘前の「もう一つの遊里」のお話。
弘前の「準遊郭」、「新開地」とは
図書館で資料をあれこそ調べていると、ある不思議な文字に行き着きました。
新開地…長年ひとり遊郭調査兵団やっていると独特の勘が身につきます。
ははぁ〜ん、新開地=私娼窟やな
「新開地」とは、読んで字のごとく「新しく開発された土地」のことなのですが、遊郭を俗に「XX新地」と呼ぶことが多いように(新地=新開地)、その新しい土地には色街などの歓楽街が入ることがありました。
弊ブログでは、「新開地」と名のついた私娼窟、出雲市(塩治新地)や和歌山市鼠島(湊新地)を過去に紹介してきました。
しかも、資料には”特殊”がついている。もう100%どころか300%お墨付き。”特殊”って何やねん、それは察せよ、大人の約束だ。
しかし、ここで疑問が。
さて、「新開地」とは弘前の一体どこだと。図書館司書さんに聞いてみることに。
新開地ってどこ?
福原の横にある…
それは神戸(の新開地)や!
という漫才も相手が青森県人なので期待もできず。
あったとは聞いたことがあるのですが、場所までは…
図書館の中の人も、弘前の遊郭…と言うと
北横町のあそこですね!
と即答、資料くれなんて一言も言ってないのに資料を用意してくれるなど、話わかるやんと私をご機嫌にさせるほど有能臭ムンムンな人だったのですが、「新開地」のことは本当に知らない様子。
弘前市のどこかにあったという謎のエリア、「新開地」を探しに古地図との戦いが始まりました。
試しに軽くググってみると、出てくるのはやはりというかまさかというか、神戸のあそこばかり。弘前から神戸までの最短ルート?そんなん要らんねん。
しかし、この1ヶ月後にその新開地に住むことになったのは何の因縁か。神様の悪戯なら、神様はなかなかユーモアのわかる人だ。
…もうこれは昔の地図を、それこそ目を皿にして探すしかない。
幸い、いくつかの史料比較により駅前近辺とまでは絞ることができたので、そこらへんを探してみると…
発見!
司書さんも、
こんなところでしたか!いやー勉強になりました!
と驚いた様子でした。
ここは戦前の内務省衛生局(現在の厚生労働省)の資料にも「弘前新開地」として記載があり、昭和8年(1933)では店の数22軒に酌婦(事実上の売笑婦)が50人ちょっと。当時の北横町遊郭の貸座敷軒数も同じくらいです。
上の地図にも「極清楼」やら「松葉家」やら「一力」やら、見る人が見ればわかるような香ばしいお名前が並んでおります。
新開地は駅前…と呼ぶには少し遠いものの、徒歩で十分歩いて行ける距離に位置しています。北横町が師団駐屯地を意識して作られた遊里に対し、「新開地」は駅近なので、おそらくターゲットは鉄道要員や旅行者。
弘前にはかつて機関区があり、昭和33年(1958)の配置図を見てみると、現在の弘前駅の5〜6倍の敷地を占めていたかなり大規模な車両基地でした。当時はSLなので、かなりの職員、少なく見積もっても500人以上、駅夫を入れるとおそらく4桁の人員がここで働いていたはず。
昔の鉄道界は完全なる男の世界なので、適当な「遊び場」も必要となります。そこで「新しい歓楽地」こと「新開地」がその名の通り開発されたのでしょう。
さらに、「市と村」の問題もありました。
弘前駅前と「新開地」の場所は、現在こそ弘前市ですが昭和初期までは「和徳村」という弘前とは別の村でした。弘前市は弘前城の周囲でそこが市の中心であり、鉄道は市の郊外どころか、別の町に作られたのです。
弘前駅の位置、今でさえド郊外やなもっと市街地の近くに作れや歩くのしんどいわとは思っていたのですが、そんな関係からだったのですな。
弘前市も、合併しないかと何度も働きかけたのですが、和徳村はかなり歴史が深いというプライドを持ち、
なんで「新参者」と合併しないといけないんだ
と断固拒絶。
いろいろすったもんだの挙句、昭和11年(1936)に合併することとなったのですが、つまり、「新開地」は弘前市ではなく和徳村に作られた遊里だったという見方が可能かと。
実際、昭和5年(1930)の内務省警保局の私娼窟データでの「新開地」には「中津軽郡和徳村字稲田」とあり、弘前の文字はどこにもありません。県外民には、一体それはどこやねん感ムンムンの地名。私もまさかそれが”弘前駅の近く”とは思わず、事前にこの表に目を通しながら全くのスルーでしたし。
そして戦後に入り赤線へ。新開地は「特殊料理店」として記載されていました。
『全国女性街ガイド』の筆者はノーマークだったか、著書には新開地は記載されていません。そんなマイナーというわけではなかったと思うのですが、なぜ見逃したのか、それは謎のまま。
しかし、それ故に完全に忘れられた赤線地帯として、ほとんどの人が見逃していた区域でもあります。
昭和20年代後半の「新開地」の「特殊料理店」の数は、新開楼・常磐楼・一力・千代川・昭和・富士見亭・松葉・店名不明の8軒。同時期の旧遊郭(北横町他)が16軒なのに対し、店の数だけでは倍の差をつけられています。
正直、駅を起点にした交通の利便性は新開地の方がぶっちぎりに有利なので(駅から旧遊郭までは控えめに言っても相当遠い)、戦後は軍という上客を失った北横町が衰え、駅近という地理的に有利な新開地の方が栄えてそうなんですけどね〜。
弘前の「新開地」を歩く
その「新開地」の場所は、現在の地図では赤で塗った場所あたりとなります。
ここあたりの町並みの風景は、戦前と比べてすっかり様変わりしてしまいましたが、駅前から胸肩神社に延びる道筋が全く変わっていなかったのが、場所特定に役立ちました。
上で「駅近」と申し上げましたが、それでも徒歩6〜7分ほど。まあ、北横町遊郭に比べたら「めちゃ近い」んですけどね。
駅から胸肩神社への道路をまっすぐ進むと、クネっと曲がる場所があります。そこが新開地への入り口。
「新開地」の道の一本を写してみましたが、赤線廃止数年後の地図を広げてみると、この道の両側には「割烹」や「バー」に「旅館」が存在しており、おそらく赤線転業ものと思われます。
左側のビルがあるところには、戦後の「特殊料理店」リストにも名前があった「常磐楼」があった場所です。住宅地図でもかなりの敷地を占めていたので、その跡のビルを見ても「新開地」一のお店だったと思われます。
赤線建築あるあるの、「玄関が2つある」意味深な建物。リフォームはされていますが、交差点に向けて玄関の口を開けているなど、それらしい姿を止めています。赤線廃止後の地図でも転業旅館らしい屋号が記されています。
その建物の裏には、お水系のビルがあります。ここには戦前の地図では「極清楼」があった場所で、かつての赤線がお水系のビルに「転生」しているのも、元遊里あるあるです。
「新開地」自体のエリアは、北横町遊郭と比べて広くないので、サラッと回って往事の遺物が残っているか確認しました。
が、特に残っているものはなく、「新開地」という名前と共にすでに歴史の土の下に隠れた「ふつうの街」となっています。
本来なら、「弘前編」はここで終わりなのですが、弘前をあちこち掘っているうちに、実はもう一ヶ所、ちょっと興味深い場所を発見してしまいました。最近まで「現役」だったといういわくつきの場所、そこは…
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