弘前の消えた裏旅館街、紙漉町|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

弘前紙漉町旅館遊郭東北地方の遊郭・赤線跡
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おまけー弘前の「現役」エリア!?紙漉町

弘前の色街シリーズ、寿町(北横町)遊郭、駅前界隈に花開いた新開地と続きました。これで弘前編も終わり…と私も思っていました。

が!

「弘前 遊郭」などとググってネット強行偵察をしていると、いくつかのブログには、聞いたこともないような、遊郭と直接関係ないあるエリアの名前が出てきます。しかも、記事によっては「現役」という…元遊郭の北横町でもなく、新開地でもなく、ましてや元々遊郭の北川端町でもない。

その名は紙漉町

名前のとおり紙を漉いていたという地名で、津軽藩時代に越前から和紙職人を呼んで紙を作らせたのがこの町の起源。紙漉きの原資となった湧き水が現在でも湧いています。

現在は、弘前大学の学生寮もある静かな住宅街となっているのですが、そんなところのどこに「現役」の要素が?

弘前紙漉町の隠れ売春旅館の跡

着きましたは、紙漉町のとあるエリア。

土淵川と弘南鉄道の線路がまるで壁のようにそのエリアを囲み、さらにそこに入るには橋を渡るか、裏手を走る1ヶ所しかない踏切を渡るしかない。
鉄道の向こうには、県立弘前高校がそびえています。創立120年の伝統校で、おそらく弘前どころか南津軽地方随一の進学校で弘前大学や東北大学、果ては数人ながら東大や京大合格者もコンスタントに輩出しています。そんな高校の裏に「現役」があったとは。

この区域を国土地理院の地図で改めて見てみると、まさにこれぞ『廓』。

遊郭の「廓」とは、

廓(くるわ):かこいを設けた一定の場所。

『漢字ペディア』

のとおり、「何か」で周りを囲った区域エリアのこと。「何か」が何かは問いません。遊郭も、土塀から自然の川、果ては飛田遊郭の「嘆きの壁」のような、ベルリンの壁を彷彿とさせるコンクリートの壁までさまざま。

遊郭は、くるわに「遊」をつけて歓楽街という意味ですが、「遊」はエンターテイメント(『鬼滅の刃 遊郭編』での「遊郭」の英語字幕は”Entertaiment district”になってました)、「何かで周りを囲った遊びの区域」なら、字面だけで解釈すれば東京鼠園や大阪世界劇場だって、壁で仕切って他のエリア(娑婆)と隔絶しているので「遊廓」です。

閑話休題。

しかも、実際に訪れてわかったこともあります。
『廓』のエリアは橋から見て少しだけ上から見下ろす形になっている。国土地理院の最新兵器、デジタル標高図で地形の凸凹を確認しても、確かに『廓』エリアは少しばかり凸になっている。
そう、ここに目を付けた最初の人は、孫子の兵法の愛読者なのだろうかという、モグリ営業には打ってつけの地理的条件。なぜなら、橋か踏切を見張っておけば、「怪しい人」(警察のガサ入れも含むw)が来たらすぐわかるから。

弘前紙漉町の隠れ売春旅館の跡

この「廓」には、場所には全く似つかわしくない「旅館」が、多い時には5~6軒はあったそうです。
が、私が実際に訪れた2023年3月時点では、「旅館」の建物は若干残っていたものの、「旅館」の看板はすでに存在していませんでした。すでに看板を下ろして廃業したか、がさ入れなどを食らってさらに地下に潜ったかのどちらか。
現場の雰囲気を考えると、おそらくは前者、つまり「廃廓」とみて間違いないでしょう。
写真の建物も、「現役」(?)時代は桜林旅館という名前でした。桜林と書いて「おうりん」、あの王林ちゃんを連想させるネーミングですが、現在は廃業し売家となっています。

かくして、現在に生きた弘前の「私娼窟」は死に絶え、その「死体」を確認したところで、今回の弘前編、これにて読み終わり。

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