飛田新地(大阪市西成区)|おいらんだ国酔夢譚|

飛田新地遊郭の歴史関西地方の遊郭・赤線跡

大阪市西成区、ここに「現代の遊里」があります。

その名は飛田新地

夜の飛田新地
夜の飛田新地。
蛍のように光るネオンに、男が一人、また一人と「楽園」の光の中に吸い寄せられていきます。そんな光景が、新地の開業以来100年余、今日も続いています。

その名前は全国区となった飛田ですが、その通史となると、体系的にまとめられた書物がないせいか、ほとんど知られていないのが現実。飛田の1世紀にわたる歴史を知った時、ここは風俗街ではなくなります。

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飛田新地-その歴史と設立の経緯

飛田遊郭は、大正7年(1918)の12月に開業しました。歴史だけでも1世紀なのですが、開業当時は大阪の数ある遊郭の中では新参者遊里でした。江戸時代初期からの歴史がある新町や堀江、明治初期に出来た松島と比べると、飛田なんぞ若造どころか青二才遊郭というわけです。

今の南海なんば駅のすぐ北側に、かつて「難波新地」という色街がありました。これが飛田新地の「母親」です。
遊郭というものは「性欲のトイレ」扱いされ、たいていは郊外に作られました。難波新地も元々は郊外中の郊外。明治時代の繁華街はせいぜい道頓堀あたりまででした。今でこそ大阪屈指の繁華街な難波駅周辺ですが、南海鉄道が開通した当時は

「人家は多少あったが多くはねぎ畑だった」

開通五十年』1936年南海鉄道編纂 pp.9

と南海公式社史に書かれるほどのド郊外でした。

明治45年(1912)1月16日午前1時頃、「南の大火」と呼ばれる大火事で難波新地は全焼、廃廓となりました。

大阪難波の百草湯
(大阪市立図書館デジタルアーカイブより)

南の大火の火元は「遊廓の妓楼から出火」が定説となっており、『飛田百番 遊廓の残照』では「貸座敷の遊楽館」と固有名詞まで出していますが、昭和8年に書かれた『上方 第廿八号』の「飛田遊廓の沿革」には湯屋、つまり新地の溝の側にあった『百草湯』の煙突から発した火の粉が原因と書かれています。それが「二十四間ママれた『芙蓉楼』の檜肌葺の屋根」に引火、それがたちまち周りの建物に燃え移ったと。

で、大阪から紅い灯が一つ消えて…とそうは問屋が卸さないのが世の常。失業者になった乙部の業者の救済という建前で新しい廓の建設のウワサが飛び交います。
時は大正時代、遊廓を廃止せよという廃娼論がピークに達し、遊里を新規で作るのにはかなりの抵抗がありました。新遊郭建設反対運動は全国規模になり、国会でも問題になったほどだったのですが、そんな反対運動もどこ吹く風と、家一軒もなかった畑の真ん中に新しい遊郭が作られることになりました。

飛田と言えば、現在は飛田新地も含めた地域の通称となっています。ところが、当時の地名は「堺田」。「堺田遊廓」になってもおかしくないどころか、本来なら「堺田遊廓」と名乗るべきでした。
が、何故か(・・・)「飛田遊廓」になったと。

「同廓の地は前にも記した通り、天王寺村大字堺田が固有の地名で、飛田と称へるのは今宮ガード*1から南の辻の地域だったのだが、それをどういう訳か、廓の名としたのである」


*1「今宮ガード」:今のJR新今宮駅の真下のこと。新今宮駅の開業は昭和39年(1964)、当時駅は存在せず

引用:『上方』第廿八号「飛田遊廓の沿革」

飛田が「飛田」と名乗った理由が「それをどういう訳か」、つまり”わかんない”としていることに、妙な興味が湧きます。『上方』は昭和初期に発行された雑誌なので当事者はまだ現役。当事者に聞いたらええやんと思うのですが、当事者も”わかんない”だったのかもしれません!?
そして、「飛田」の地名は元々「今宮ガードの南の辻」、つまり現在のJR新今宮駅のすぐ南でした。

飛田に新廓を作ったキーパーソンとして、上田忠三郎、中村鼎がいます。彼らは四方八方から反対運動の矢が飛ぶ中、大阪府に盛んにサロン外交を行い、最後は当時の内務大臣一木喜徳郎、内務省警保局長(今の警察庁長官に相当)の湯浅倉平の許可を得ることに成功しました。
…が、一難去ってまた一難。遊郭作る許可はもらったのはいいけれど、今度は金がない。それならと、当時の飛田新地あたりの地主を束ね「阪南土地会社」という会社を作りました。

次に出てきた難問は人間のエゴ。
さて新遊郭設置が確定になって土地の分配になると、「俺に一等地をよこせ」「いや、俺に」「何でうちが端っこなんだよ」という業者同士のエゴがぶつかりあい一悶着、ホンマこいつら勝手やな…と思わざるをえない。
しかし、普通なら

俺が最優先やんけ!

と言っても良い立場にある上田忠三郎が、自分の権利を放棄して同業者に分け与え、自分は阪南土地会社の経営に専念するとして解決しました。
そして大正7年、松島遊廓からの合流組も含めて飛田新地が開業できたわけです。

オープン当時の飛田新地の住所は、西成区どころか大阪市内ですらなく、「大阪府東成郡天王寺村天王寺北・中・南堺田」と村だったのです。のちに大阪市に編入され住吉区旭町4丁目になりましたが、廓内はその通称として、

廓内を東西に通じて五カ所に区分し、大門通と中央に南は弥生町・若菜町、北を山吹町・桜木町と称へ…

引用:『上方』第廿八号 「飛田遊廓の沿革」

という「俗地名」があったそうです。

飛田遊廓の別地名

この記述と道につけられた名前と当時の地図から見た、「俗地名」の推定区分ですが、色分けしてみたら虹のようになってしまいました。
幸い、新地内は道筋が戦前とほとんど変わっていないため、だいたい推理できたりします。

飛田遊郭の急成長

飛田遊廓の変遷を数字で追ってみると、

●大正7年(1918) -グランドオープンの年-
貸座敷数:58軒
娼妓数:92名
※この年の出来事:
・松下電気器具製作所(今のパナソニック)設立
・第一次世界大戦終結

●大正11年(1922)
貸座敷数:132軒
娼妓数:1,512名
※この年の出来事:
・大隈重信国民葬
・日本共産党設立


●大正13年(1924)
貸座敷数:166軒
娼妓数:1,923名
※この年の出来事
・皇太子裕仁親王(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)ご婚礼
・加藤高明内閣成立

●昭和4年(1931)
貸座敷数:215軒
娼妓数:2,646名
※この年の出来事
・羽田空港が開港
・満州事変勃発

●昭和10年(1935)
貸座敷数:234軒
娼妓数:2,995名
※この年の出来事
・天皇機関説問題
・永田鉄山暗殺(相沢事件)

●昭和12年(1937)
貸座敷数:234軒
娼妓数:3,115名
※この年の出来事
・廬溝橋事件
出典:『大阪府統計書』

と、開業から数字がグイグイうなぎ上ぼりなことがわかります。
昭和に入っても衰えは知らず、あの日本一のスーパー遊廓、松島の尻尾をつかみそうな所まで追いつきます。
統計書の数字を丹念に追っていくと昭和12年が絶頂期、同じ時期の統計書の「日本の遊廓ビッグ3」こと松島・吉原・洲崎と比較すると、

飛田新地遊廓

という風に、たった19年で日本の遊廓のナンバー2にまで上っていることがわかります。こりゃもう、たまげたという言葉しか浮かばない。

そんな急成長の時代に、「阿部定事件」で有名な阿部定も、実は飛田で働いていた事実があります。そちらについては下記ブログ記事をどうぞ。

それにしても、飛田がたった20年弱でこんなに急成長したのか?という疑問が浮かびます。ここで、飛田の新参者としての営業戦術が垣間見えます。

飛田新地の斬新な経営スタイル

大阪市内には、遊女数・売上・客数ぶっちぎり日本一の三冠王遊郭、松島や、歴史と格式なら吉原と肩を並べる創立数百年の超老舗、新町が色街の玉座に君臨していました。新規参入ものが彼らと同じ事をしても、まったく太刀打ちはできません。遊郭をビジネスとして考えると、そんなもの火をみるより明らか。
そこで編み出した一つのアイデアは、「遊廓を一つの企業体にしよう」ということ。既存の遊廓は一つに見えて、実は個人営業者の集合体。遊廓全体の運営は自営業者の話し合い1に対して、飛田は土地開発会社(デベロッパー)の管理で妓楼も賃貸、言い換えれば廓全体が「株式会社飛田遊廓」の一括管理。
既存の遊里が駅前商店街なら、飛田は郊外型巨大ショッピングモールというイメージで間違いありません。

戦前の飛田新地

昭和17年(1942)の飛田遊廓の航空写真ですが、整然と並べられた妓楼…まるで「遊廓のイ○ンモール」です。

遊廓を一つの「企業体」にまとめることはかなり斬新なアイデアで、資本をトップダウンで集中投下できるメリットがあります。
この「飛田方式」の成功は、その後の色街経営のひな形になりました。のちに出来る、同じ大阪の今里新地や港新地などの「なんちゃって花街(別名:それって事実上の遊廓ですよね?w)」も、飛田と同じ方式を取っています。

もう一つの斬新さは、当時としてはハイカラ…って死語ですが、斬新な建物やサービスで人の目と足を向けさせる戦術を取ったこと。

和洋折衷や洋風、カフェー風の建物など目の保養にもなりそうな建物が並び、中身もダブルベッド装備や洋風の風呂を備えたり、当時としては斜め上の設備を備えた所でした。
それが当たったようで、松島新地も昭和に入り飛田の影響でモダンな設備に改良した妓楼が現れたと『松島新地誌』に書いており、周りの色街に与えた影響はかなり大きかったものと思われます。

「飛田遊廓の沿革」には、「廓内におけるモダンな設備を整へた妓楼」のリストが書かれています。適当に羅列すると、

大喜楼、梅ヶ枝楼、君が代楼、港楼、福愛楼、河萬楼、マツタニ楼、キング、大和、新大和、角タツタ、第二梅ヶ枝楼、第三梅ヶ枝楼、本家大一楼、東大一楼、三州楼、冨貴楼、巴里
「その他にも色々あるが、以上は主なものを擧げたに過ぎぬ」

どこがどのように「モダン」なのかは書いていないものの、要するに「大阪の他の遊廓とはちょっと違う」という雰囲気だったということでしょう。

その片鱗がうかがえる文献があります。
筆者が東京や横浜、大阪などの歓楽街を歩いた『日本歓楽郷案内』という本があります。お上の逆鱗に触れて発行禁止になり、最近国会図書館から発掘されネット公開された幻の本ですが、飛田新地のことが少し書かれています。

松島よりデカタニック*1な気分が濃厚なのは飛田の遊廓である。
色彩も近代的である。玉突場*2や、立派な風呂や、ダブルベッドや、支那式の寝台をつけた店もある。洋装した遊女もいる。(中略)遊女だって二千人はいる。花代だって一本十五銭で一時間十本だから、仕切をかけ合って遊ばなくても高が知れている。新興地帯として長足の進歩めざましいものがあるから、更に更に発展することであろう。機転を利かした連中は、早くもこの付近に怪しい構えの家を建て始めた。その抜目なさには只驚くの外はない。
*1:退廃的という意味
*2:ビリヤード場のこと

引用:『日本歓楽郷案内』

なかなかの「モダン」ぶりが、文章の行間から匂ってきます。
作者は東京の人間ですが、「玉突場」「ダブルベッド」「支那式の寝台」が東京の遊廓にはない斬新なものだったのでしょう。でないとわざわざ書かないはずだし。

まあ、遊郭自体が「玉突場」とも言えないこともない…失礼しました(笑

また、飛田の「モダン」は娼妓(遊女)たちの髪型にもあらわれていました。
以前記事にした遊廓の娼妓専門病院、府立難波病院の要覧には、娼妓たちの髪型の種類まで統計に出ていました。
彼女らの髪型は昭和に入って髷から洋髪化し始めたのですが、各廓によって傾向がありました。洋髪の先端は飛田がいちばん多く、特に断髪(今でいうショートカット)・耳隠し(同ボブ)の数は飛田がずば抜けていました。
遊廓も「モダーン化」するにつれ、保守的だった新町や松島廓の娼妓(の髪型)も「モダンガール」化していると、病院は分析しています。

飛田新地遊廓絵葉書

飛田新地の大門前を写した有名な絵葉書の写真、時期は不明ながら大正時代後期のものだと思われます。
2階建ての建物が整然と並んでいますが、我々が遊廓と想像して思いつく、奇をてらったような「大廈高楼」がないことがわかります。良く言えばシンプルかつ整然、悪く言うと味家がない、目抜き通りなのだからもっと豪華絢爛な建物作ったら良いのにと不思議に思ったりするのですが、これにはあるルールが存在していました。

遊廓の管理は、タテマエは内務省ながら実際は各道府県の判断に任されていました。なので、地方によって独自のルール(条例)があり、それが地方によって緩かったり厳しかったりと、温度差が多少ありました。
大阪の貸座敷取締規則(大正15年改正)は、

大阪府貸座敷取締規則(大正15年改正)
第四条 貸座敷用の建物の構造設備は市街地建築物法令及大阪府令建築取締規則に依るの他左の制限に従うべし。

一 建築は二階以下又は建築面積百六十平方メートル以下とすること

二 屋上には工作物(中略)を設置せざること

(三、四、五、六は省略)

七 異様と認むべきもの又は目立つべき看板、標灯、装飾などの設備を為さざること

八 (省略)

とあります。
つまり、吉原や他の地方のような木造3階建て以上の「木の摩天楼」は規則上作ることができなかった分、内装に凝って差別化を図るしかなかった事情があったのかもしれません。

飛田遊郭の「衛星」-「オカマ」の故郷

遊郭界の木星が松島なら、飛田はさながら土星ですが、木星や土星に様々な衛星があるように、遊里にも衛星のような非合法の私娼窟が、「おこぼれ」をちょうだいするかのように周囲に形成されていました。私は「衛星型私娼窟(青線)」と造語で表現しています。

「衛星型青線」は、戦後の赤線時代であれば山谷(「惑星」は吉原)歌舞伎町・花園通り(同新宿二丁目)などがありましたが、飛田の「衛星」でもあった山王界隈は戦前からの歴史があり、かつ少し変わった所でもありました。

少し変わったところとは何か。それは…「男娼のメッカ」だったこと。
今の釜ヶ崎(あいりん地区)は日雇い労働者の町ですが、昔は「男娼の町」でした。それも、資料によるとその歴史は大正後期にまでさかのぼることができます。

そんなアホなって?戦後ですが、こんな人がこんなこと書いていたらどうします?

好きものの旅行者たちが、新世界・飛田周辺を歩いてひどい目にあった、という話をときどき聞く。むりもないのだ。背のすらりとした美人に言い寄られてしかるべく交渉して、いざ寝てみると男だったというのである。
この界わいは男娼が多い。かつては、もと陸軍軍曹やもと海軍少尉の男娼もいた。かれらは、戦場で鍛えた勇気もあり、腕力もあった。客が気づいて、
「モノが違うやないか」
とひらきなおっても、腕では負けていなかった。当然、かれらが受け取るべき正当の代価を取り上げた。
べつに私はかれらを悪いとは思わない。間違う客のとんまさに責任がある、というのがこの界わいの論理なのだ。

司馬遼太郎 昭和36年12月のエッセイ

司馬遼太郎が産経新聞社を退職し、専業作家として独り立ちした頃の随筆です。司馬さん、至極当たり前のように書いていますが、すごく貴重な文章を遺してくれていました。


「男娼の街」としての釜ヶ崎(飛田)界隈の顔は、以下の記事をどうぞ。

戦争と飛田

飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し続けた飛田も、昭和12年(1937)から日本は戦争の泥沼にはまって「贅沢は敵だ」の時代へ。「高度経済成長」もここまでで、昭和13年からは国内情勢に比例するように下がっていきます。
松島に同じく、戦争に行く兵士で賑わって一時的な「バブル」になったとは思われますが、全体的な風紀取締の紐がキツくなる一方の時代、遊郭も商売を縮小せざるを得なくなりました。

昭和13年(1938):2,911人
昭和14年(1939):2,706人
昭和15年(1940):2,534人
(※昭和15年松島遊廓の娼妓数:2,569名)
出典:『大阪府統計書』

2000人以上はいるとは言え、昭和12年をピークに数字は減少、「戦争」が陰を落としていることがわかります。

戦前の飛田新地

上に挙げた昭和17年のこの写真が、完全体としての飛田新地の、上空からの「遺影」となります。その後昭和20年3月13日、大通りの南部が戦災で焼けてしまいます。

飛田新地を含む大阪の遊郭が空襲でどうなったかは、下のブログをどうぞ。

NEXT⇒赤線時代の飛田新地
  1. 松島遊廓の遊郭事務所内には、ヘタな市町村並みの「議会」があった。
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コメント

  1. 今井清賀 より:

    台湾ブログから飛んできました。初めて訪問させて頂きました。
    電話帳と地図を使っての綿密な考証に引き込まれて、飛田最後の記事まで一気に読ませて頂きました。
    私儀、飛田遊郭の成立について、1902年の大阪万博開催を理由に名護町から退去を余儀なくされた江戸期からの貧民が、堺筋を南下したところにあった「字釜ヶ崎」の木賃宿に流出。既存の宿では収容人数を抱えきれないことから、商機と見た者たちによって木賃宿が急増。集住した男たちの労働力に目をつけた資本はマッチ工場を誘致。労働者化された男たちの、滾るエネルギーと賃金(現金)の交換の場(「情」と言うものを排除して考えると「市場」)として隣接地区に設置されたのが飛田と言う認識をしております。
    ただ、店の位(くらい)付け・変遷、同業者の紐帯状況、あるいはお姐さま方の出身地・年齢・人数、出入りの状態、料金設定など飛田内での詳細事項については認識しておりませんでした。お恥ずかしながら、阿部定が飛田にいたことも…
    記事を読ませて頂き、これらのわからなかったいくつかの点について納得がいきました。ありがとうございます。

    私台湾についても興味があり、また大阪南部(難波〜岸和田あたりの泉州)にも興味を持っている、知りたがりのオヤジです。日曜日の午前、こんな面白いことを書いている方を見つけた!と、フォローさせて頂いた次第です。他の記事も読ませて頂きます。
    ※ところで、年表中「大隈重信国民層」とありますが、「国民葬」ですよね

  2. あきら より:

    梅ヶ枝楼は2020年に解体されたのが残念です。

    祇園乙部は現在も「祇園東」として存続しています。廃止ではありません。
    祇園乙部は映画・祇園の姉妹に出てきますねえ。
    祇園会館は祇園東の関連の劇場です。

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