飛田新地(大阪市西成区)|おいらんだ国酔夢譚|

飛田新地遊郭の歴史関西地方の遊郭・赤線跡
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飛田新地の戦後史

大阪の遊郭が空襲で軒並み「消失」した中、敷地の南半分が焼けただけの飛田新地は、戦後も途絶えることなく営業を続けていました。
『松島新地誌』にも、飛田のことが少し書かれています。空襲で綺麗さっぱり更地となった松島新地は、戦後になっても営業許可はおろか次の営業地も決まらず、金もない流浪状態に。
しかし、飛田が資金援助して何とか再開できたこともあり、『松島新地誌』には「この恩忘れるべからず」とも書いています。

戦後は場所も移り規模も縮小した松島新地に対して、飛田はほぼそのまま残ったこともあり、「大阪でいちばん新しい」ニューフェイス遊郭がついに「大阪一」、いやもしかして「日本一」の座に就いた瞬間でもありました。

昭和31年(1956)の規模は、業者数203軒、接客婦数:1.350人。松島新地が業者数195軒、接客婦数1,020人となっており、戦前最大の遊廓松島を明らかに数字上で抜いていることがわかります。

このシリーズではお馴染み『全国女性街ガイド』にはどう書かれているか、抜粋してみましょう。

大正5年の暮れに(中略)出発した、廓としては若い方だが、
(註:「遊廓として指定された」のが大正5年で、グランドオープンは大正7年)
半分焼けなかったので廓情緒豊か。
現在でも旧組合164軒に1,560名、新組合23軒に68名。合せて187軒に1,628名の大世帯。九州、四国の出身が圧倒的に多く、代表的な店は桃源荘、日の本、世界など。桃源荘には国宝の鈴が安置されているといった、家つくりは古びたもので、妓はイタリアンカットの若いのが多い。
遊びが350円、泊り1200円が相場だが、ほかに丹前代、風呂代、炭代、扇風機代、おぶ代、なんだかんだと取られるから揚がる前にクギをさすこと。わりに蚊の多い里。
廓周辺は青線の密集地で、廓に入る前に掴まるおそれがあるから、地下鉄の動物園前からハイヤーで70円で廓入りした方が賢明。 (以下略)

引用:『全国女性街ガイド』

この文章、今となっては非常に重要なキーワードを含んでいます。
そのキーワードは「桃源荘」。これは現在の「百番」、『全国女性街ガイド』にも「桃源荘」の後に「前の百番」と記載されています。店の名前のトップに載せるくらいなので、飛田新地トップクラスの知名度だったのかもしれません。
しかし、「桃源荘」にあったという「国宝の鈴」…なんやそれ?
『百番 遊廓の残照』によると「桃山美術館」という美術館の時代もあり、当時のオーナーの菊池氏は美術品のコレクターでもありました。「鈴」は、そのコレクションの一つのことかもしれません。

あと、『全国女性街ガイド』に書いてある「日の本」「世界」を、昭和31年の赤線現役時代の地図で調べてみると、きっちりありました。

飛田新地世界日の本

この二つ、戦前の遊郭時代から、飛田に4店しかなかった「特大見世」でした。残り二つは戦後復活することはなかったのですが、「世界」「日の本」は赤線時代も健在でした。
売防法施行後の昭和35年の住宅地図によると、「日の本」は料亭、「世界」は旅館と、名前の上では転業しています。

飛田世界楼日の本楼跡

現在これらの建物は現存しておらず、Google mapを見ると倉庫と駐車場になっています。

ところで、図書館であるものを発掘してきました。それは昭和29年(1954)の大阪市の職業別電話帳。
赤線のお店の形態は都道府県によって違い、関東は「カフェー」、大分県は「貸席」、岩手県盛岡は「簡易旅館」なのですが、大阪は「貸座敷」!
あれ?貸座敷って…戦後の公娼廃止の時になくなったはずなんやけど?間違えて戦前の電話帳持ってきたか?と改めて表紙見てみても、明らかに昭和29年。GHQによる公娼廃止で遊郭が形だけなくなっても、「貸座敷」は残ったようです。そこにありました、当時のお店の数々が。「遊廓死すとも貸座敷は死せず」。

戦後の飛田新地の営業スタイルは、以下のとおりでした。
貸座敷を「待合」「下宿」として転業させ、そこをカフェーにもして兼業に。「下宿」から「カフェー」に通うおねーさんたちが「待合」でお客さんと…というスタイルになっていくうちに、「下宿」は有名無実の骨抜きにされて事実上戦前と同じ状態になっちゃったと。電話帳にある「貸座敷」は、おそらく「待合」として登録されていたものかと推測します。

店の名前も、売防法施行時の吉原は、ざっと地図を見ても、「ドリーム」「ロビン」「モナミ」「ハレム」「カチューシャ」「スカーレット」「イーグル」「ハッピー」「ナイト」「ホワイトリリー」などなど、横文字の名前がけっこう多い。が、飛田はそんな名前にはなっておらず、かといって遊郭時代の「◯☓楼」でもなく、正真正銘「待合」みたいな名前になっています。

あまりにボロいためコピー不可の電話帳を、図書館の許可を経てデジカメコピー。帰宅後エクセルでまとめてみると、合計132軒の店が登録されていました。
当時の飛田新地の店の数が、『全国女性街ガイド』に書いてある187軒と仮定すると、昭和29年当時の飛田新地の電話普及率はアバウトで70.6%といったところか。
当時は電話を持っているだけでもちょっとした財産でした。やっと戦後の混乱が終わって経済的に成長し始めたこの時期でも、電話加入権はなかなかGETできず、どうしても!という時はヤミで買う時代でした。
昭和30年頃の東京玉の井赤線の電話普及率が13.2%(私の推定)に比べたら、電話普及率7割はかなり恵まれている状態と言えるでしょう。

そんな電話帳の中に、非常にレアなものを発見しました。そこにあったのは……

桃山閣今の鯛よし百番

赤線の現役時代の「百番」の広告でした。
赤線時代は「桃山閣」という名前で、上に申し訳程度に「百番」と書かれています。

昭和31年飛田新地桃山閣百番

赤線時代の住宅地図でも、『桃山閣』だったことが確認できます。

が、『百番 飛田遊廓の残照』によると当時は宴会場、「貸席」ではあるけど「現役」じゃなかったのか!?
…いや待てよ、この時期って『全国女性街ガイド』の著者が取材してた時期と重なるはず(『全国女性街ガイド』は昭和30年発行)。
ここで矛盾が生まれます。まとめてみると、

◆『全国女性街ガイド』
:「現役」の店。名前は「桃源荘」

◆『百番 飛田遊廓の残照』
「桃山荘」という名前の宴会場

◆昭和29年の電話帳
「桃山荘(百番)」で登記。電話帳の項目は「待合・貸座敷」

この中でいちばん信用できる資料は、一次資料である電話帳です。が、これがまた書き方が曖昧でなかなかジャッジできません。単純に多数決なら、2対1で「桃山閣」の勝ちなのですが…。
片や「現役」、片や「宴会場」、真実は常に一つ。ところが、これじゃ天と地ほどの差がある。

従来なら、ただのルポな『全国女性街ガイド』の方を切り捨てることになるのですが、飛田の項は、いやはやなかなか正確な記述なため、間違えていますハイ終わりと切り捨てるわけにもいかない。

赤線時代の写真に残る店の位置

飛田新地の赤線時代の、有名な写真があります。

赤線時代の飛田新地の店
赤線時代の飛田新地の店

昭和30年頃の写真だそうですが、店名の「吉田屋」「三福」が確認できます。
(上の写真は、提灯に「吉田屋」と書かれてある)
どちらも、住宅地図でも電話帳でも存在を確認しました。

飛田新地吉田屋三福

Google mapのストリートビューで確認してみると、残念ながら今は「吉田屋」はマンション、「三福」は新しい民家になり当時の建物は現存していません。

飛田新地大榮

が、「吉田屋」の隣の「大榮」という店の建物は、つい最近まで現存していました。残念ながら現存はしません。

大榮飛田
当時は店としては営業しておらず民家になっていましたが、「大榮」という屋号を確認できました。

飛田新地大門三福

1970年代後半か1980年代前半と思われる飛田新地大門前の写真です。
「三福」は赤丸の位置、大門前という一等地にありました。上の写真が撮影された当時にはすでに、「三福」の建物はなかったことがわかります。昭和35年(1960)の住宅地図でも「三福」の場所は工場になっており、売防法施行でさっさとお蔵替えしたか、店を売り払いその跡に工場が建ったようです。

赤線時代の住宅地図を一軒ずつチェックしていくと、妙なものに出くわしました。

ホークス乙女寮飛田新地

「ホークス乙女寮」の文字が。
ホークスとくれば現在はソフトバンクホークスですが、その前身は南海ホークス。難波駅横(現在のなんばパークス)にあった大阪球場を拠点にしていました。
そこから飛田は、野球選手くらいのアスリートならランニングで通える距離ですが、こんな所…それも飛田新地の敷地内に寮なんてあったのか!?
それか、「ホークス乙女寮」という屋号の店なのか!?謎がまた一つ増えてしましました。

売防法施行で飛田の赤線がなくなった時は、業者数:206軒、接客婦数:1,259人でしたが(大阪府民政局調べ)、もちろん業者は料理屋や待合、旅館などに、他の赤線同様転業していきました。
が、今も飛田が「現役」なことからわかるように、「武士の商法」的に営業不振が続いてマジメに転業しようとした人もどんどん元に戻っていき、現在に至るといったところか。

飛田の「衛星」の戦後

で、飛田新地の話とはちょっと離れそうで実は関連がある話です。
府立図書館所蔵の昭和35年(1960)の西成区の住宅地図があります。昭和35年は売防法が施行されて2年後、いちおう表向きは赤線が廃止になり「クリーン」になっています。が、案の定、ニヤリとしてまうくらい、新地部分の店は「旅館」「食堂」「料亭」と名乗っておきながら怪しい名前ばかり。

赤線時代の屋号のままの店もたくさん残っていた上に、ウワサでしか聞いたことがなかった「アルバイト料亭」の名前も堂々と記載されていました。
で、ヒマなので、新地内はもちろん釜ヶ崎地区の旅館・飲食店などを蛍光ペンで色分けしてみると、ちょっと不思議な「色分け」が出来ました。

西成区山王

西成区の山王には、かつて「南海天王寺支線」という天王寺と天下茶屋を結ぶ路線が走っていました。平成5年(1993)年に廃止になったので、平成生まれの人はこんなとこに電車が走っていたのか!?と驚くかもしれません。当然、私は鮮明に覚えています。乗るご縁は最後の最後までなかったのですが、一度で良いから乗っておけばよかったと後悔しきりです。

色分けすると、興味深いことがわかりました。天王寺支線を境に、北が旅館、南は「スタンド」や「バー」「サロン」の割合が多くなってるのです。
まるで天王寺支線を基準に「北が旅館街」「南が飲み屋街」と棲み分けが出来ているような感じで、それが飛田新地の大門に近づくにつれて多くなっています。
更に飛田新地の大門から紀州街道へ続く道は、「スタンド◯△」という一杯呑み屋みたいなのがかなりの数並んでいました。こうして見ると、飛田新地が「旅館」や「スタンド」という衛星を従える「赤線界の木星」のような感じに見えてきます。
木星も最近の研究によると、衛星が60個くらいあるらしいし。

こちらについては、下記ブログでまとめています。

おわりに

以上、飛田新地の歴史を二回に分けて書いてみましたが、普段は風俗街という視点でしか見られない飛田新地も、深く掘ってみるとなかなか興味深い歴史をお持ちです。飛田ってこんな歴史を持っているのか…と見方が変わった方もいるやしれません。
松島新地はかつて、赤線の灯が消える際に『松島新地誌』という歴史書を遺しました。といっても松島も「現役」なのですが、飛田の組合事務所には誰の目にも触れられていないような資料が眠っている可能性があります。
それを使って”公式歴史書”を作ってみるのもどうでしょう。そんな楽しみを待ちつつ、今回は締めくくりたいと思います。

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・『大阪府統計書』
・『警視庁統計書』
・『大阪市史』
・『上方 第廿八号』-飛田遊廓の沿革-
・『上方色町通』
・『日本歓楽郷案内』
・『大阪府立難波病院要覧』
・『写真が語る「百番」と飛田新地』
・『司馬遼太郎が考えたこと 2』-にせもの-
・『松島新地誌』
・『全国遊廓案内』
他多数

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コメント

  1. 今井清賀 より:

    台湾ブログから飛んできました。初めて訪問させて頂きました。
    電話帳と地図を使っての綿密な考証に引き込まれて、飛田最後の記事まで一気に読ませて頂きました。
    私儀、飛田遊郭の成立について、1902年の大阪万博開催を理由に名護町から退去を余儀なくされた江戸期からの貧民が、堺筋を南下したところにあった「字釜ヶ崎」の木賃宿に流出。既存の宿では収容人数を抱えきれないことから、商機と見た者たちによって木賃宿が急増。集住した男たちの労働力に目をつけた資本はマッチ工場を誘致。労働者化された男たちの、滾るエネルギーと賃金(現金)の交換の場(「情」と言うものを排除して考えると「市場」)として隣接地区に設置されたのが飛田と言う認識をしております。
    ただ、店の位(くらい)付け・変遷、同業者の紐帯状況、あるいはお姐さま方の出身地・年齢・人数、出入りの状態、料金設定など飛田内での詳細事項については認識しておりませんでした。お恥ずかしながら、阿部定が飛田にいたことも…
    記事を読ませて頂き、これらのわからなかったいくつかの点について納得がいきました。ありがとうございます。

    私台湾についても興味があり、また大阪南部(難波〜岸和田あたりの泉州)にも興味を持っている、知りたがりのオヤジです。日曜日の午前、こんな面白いことを書いている方を見つけた!と、フォローさせて頂いた次第です。他の記事も読ませて頂きます。
    ※ところで、年表中「大隈重信国民層」とありますが、「国民葬」ですよね

  2. あきら より:

    梅ヶ枝楼は2020年に解体されたのが残念です。

    祇園乙部は現在も「祇園東」として存続しています。廃止ではありません。
    祇園乙部は映画・祇園の姉妹に出てきますねえ。
    祇園会館は祇園東の関連の劇場です。

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