【前編】飛田新地(大阪市西成区)-消えた遊郭・赤線跡をゆく

大阪飛田遊廓 遊郭・赤線跡をゆく
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飛田新地の斬新な経営スタイル

大阪市内には、遊女数・売上・客数ダントツ日本一の三冠王遊里、松島や、歴史と格式なら吉原以上、創立数百年の超老舗、新町が色街の玉座に君臨していました。新規参入ものが彼らと同じ事をしても、まったく太刀打ちはできません。遊里を一つのビジネス経営として考えると、そんなもの火をみるより明らか。
そこで考えた一つのアイデアは、「遊廓を一つの企業体にしよう」ということ。既存の遊廓は一つに見えて、実は個人営業者の集合体。遊廓全体の運営は自営業者の話し合い(遊郭事務所内には、ヘタな市町村並みの「議会」がありました)に対して、飛田は不動産会社の管理で妓楼も賃貸、いわば廓全体が「株式会社飛田遊廓」の一括管理。
既存の遊里が商店街なら、飛田は巨大ショッピングモールというイメージで間違いありません。

昭和17年飛田遊廓航空写真

昭和17年(1942)の飛田遊廓の航空写真ですが、整然と並べられた妓楼…別記事で私が「遊廓のイ○ンモール」と表現した理由がこれでわかると思います。

遊廓を一つの「企業体」にまとめることはかなり斬新なアイデアで、資本をトップダウンで集中投下できるメリットがあります。
この「飛田方式」の成功は、その後の色街経営のひな形になりました。のちに出来る今里新地や、以前紹介した港新地などの新地の経営、果ては鳥取の倉吉新地なども、飛田と同じ方式を取っています。

もう一つの斬新さは、当時としてはハイカラ…って死語ですが、斬新な建物やサービスで人の目と足を向けさせる戦術を取ったこと。
遊郭ならどこにでもある店構えだけではなく、和洋折衷や洋風、カフェー風の建物も数多く立ち並ぶ、目の保養にもなりそうな建物が並び、中身もダブルベッド装備や洋風の風呂を備えたり、当時としては斜め上の設備を備えた所でした。
それが当たったようで、松島も昭和に入り飛田の影響でモダンな設備に改良した妓楼が現れたと『松島新地誌』に書いており、周りの色街に与えた影響はかなり大きかったものと思われます。

「飛田遊廓の沿革」には、「廓内におけるモダンな設備を整へた妓楼」のリストが書かれています。適当に羅列すると、

大喜楼、梅ヶ枝楼、君が代楼、港楼、福愛楼、河萬楼、マツタニ楼、キング、大和、新大和、角タツタ、第二梅ヶ枝楼、第三梅ヶ枝楼、本家大一楼、東大一楼、三州楼、冨貴楼、巴里
「その他にも色々あるが、以上は主なものを擧げたに過ぎぬ」

どこがどのように「モダン」なのかは書いていないものの、要するに「大阪の他の遊廓とはちょっと違う」って感じな雰囲気だったということでしょう。

その片鱗がうかがえる文献があります。
筆者が東京や横浜、大阪などの歓楽街を歩いた『日本歓楽郷案内』という本があります。お上の逆鱗に触れて発行禁止になり、最近国会図書館から発掘されネット公開された幻の本ですが、飛田新地のことが少し書かれています。

松島よりデカタニック(※1)な気分が濃厚なのは飛田の遊廓である。
色彩も近代的である。玉突場(※2)や、立派な風呂や、ダブルベッドや、支那式の寝台をつけた店もある。洋装した遊女もいる。(中略)遊女だって二千人はいる。花代だって一本十五銭で一時間十本だから、仕切をかけ合って遊ばなくても高が知れている。新興地帯として長足の進歩めざましいものがあるから、更に更に発展することであろう。機転を利かした連中は、早くもこの付近に怪しい構えの家を建て始めた。その抜目なさには只驚くの外はない。
※1:退廃的という意味
※2:ビリヤード場のこと

なかなか「モダン」だったということが、なんとな~くわかります。
作者は東京の人間ですが、「玉突場」「ダブルベッド」「支那式の寝台」が東京の遊廓にはない斬新なものだったのでしょう。でないとわざわざ書かないはずだし。

まあ、遊郭自体が「玉突場」とも言えないこともない…失礼しました(笑

 

また、飛田の「モダン」は娼妓(遊女)たちの髪型にもあらわれていました。
以前記事にした遊廓の娼妓専門病院、府立難波病院の要覧には、娼妓たちの髪型の種類まで統計に出ていました。
彼女らの髪型は昭和に入って髷から洋髪化し始めたのですが、各廓によって傾向がありました。洋髪の先端は飛田がいちばん多く、特に断髪(今でいうショートカット)・耳隠し(同ボブ)の数は飛田がずば抜けていました。
遊廓も「モダーン化」するにつれ、保守的だった新町や松島廓の娼妓(の髪型)も「モダンガール」化していると、病院は分析しています。

 

飛田新地遊廓絵葉書

飛田新地の大門前を写した有名な絵葉書の写真、時期は不明ながら大正時代後期のものだと思われます。
2階建ての建物が整然と並んでいますが、我々が遊廓と想像して思いつく、奇をてらったような「大廈高楼」がないことがわかります。良く言えばシンプルかつ整然、悪く言うと味家がない、目抜き通りなのだからもっと豪華絢爛な建物作ったら良いのにと不思議に思ったりするのですが、これにはあるルールが存在していました。

遊廓の管理は、タテマエは内務省ながら実際は各道府県の判断に任されていました。なので、地方によって独自のルール(条例)があり、それが地方によって緩かったり厳しかったりと、温度差が多少ありました。
大阪の貸座敷取締規則(大正15年改正)は、

大阪府貸座敷取締規則(大正15年改正)
第四条 貸座敷用の建物の構造設備は市街地建築物法令及大阪府令建築取締規則に依るの他左の制限に従うべし。

一 建築は二階以下又は建築面積百六十平方メートル以下とすること

二 屋上には工作物(中略)を設置せざること

(三、四、五、六は省略)

七 異様と認むべきもの又は目立つべき看板、標灯、装飾などの設備を為さざること

八 (省略)

とあります。
つまり、吉原や他の地方のような木造3階建て以上の「木の摩天楼」は規則上作ることができなかった分、内装に凝って差別化を図るしかなかった事情があったのかもしれません。

NEXT→あの女性が飛田で働いていた!

コメント

  1. 今井清賀 より:

    台湾ブログから飛んできました。初めて訪問させて頂きました。
    電話帳と地図を使っての綿密な考証に引き込まれて、飛田最後の記事まで一気に読ませて頂きました。
    私儀、飛田遊郭の成立について、1902年の大阪万博開催を理由に名護町から退去を余儀なくされた江戸期からの貧民が、堺筋を南下したところにあった「字釜ヶ崎」の木賃宿に流出。既存の宿では収容人数を抱えきれないことから、商機と見た者たちによって木賃宿が急増。集住した男たちの労働力に目をつけた資本はマッチ工場を誘致。労働者化された男たちの、滾るエネルギーと賃金(現金)の交換の場(「情」と言うものを排除して考えると「市場」)として隣接地区に設置されたのが飛田と言う認識をしております。
    ただ、店の位(くらい)付け・変遷、同業者の紐帯状況、あるいはお姐さま方の出身地・年齢・人数、出入りの状態、料金設定など飛田内での詳細事項については認識しておりませんでした。お恥ずかしながら、阿部定が飛田にいたことも…
    記事を読ませて頂き、これらのわからなかったいくつかの点について納得がいきました。ありがとうございます。

    私台湾についても興味があり、また大阪南部(難波〜岸和田あたりの泉州)にも興味を持っている、知りたがりのオヤジです。日曜日の午前、こんな面白いことを書いている方を見つけた!と、フォローさせて頂いた次第です。他の記事も読ませて頂きます。
    ※ところで、年表中「大隈重信国民層」とありますが、「国民葬」ですよね

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