阪和電鉄の歴史【阪和線歴史紀行】

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伝説の私鉄、阪和電気鉄道

JR阪和線路線

JR阪和線は大阪の天王寺駅と和歌山駅とを結ぶ路線で、今は関西空港へのアクセスラインとしても知られています。しかし驚くなかれ。この阪和線、元は「阪和電気鉄道」という私鉄だったのです。以下、長いので「阪和電鉄」とします。

大阪と和歌山の間には、すでに明治のころから私鉄の南海鉄道(現在の南海電鉄)が開通していました。日露戦争の頃に国が南海を国有化しようと画策したのですが、予想以上の抵抗を受け断念します。

阪和間の新線計画は、そんな中始まりました。阪和電鉄は大正15年(1926)に設立され、阪和間の第二の交通機関として大いに期待されることとなりました。

昭和4年大阪商工大観の阪和電気鉄道の広告

『大阪商工大観』という書物内にあった、阪和電気鉄道の紹介です。
この書物が刊行されたのは昭和4年(1929)で阪和電鉄が開通したのと同じ年のもの。生まれたての鉄道路線の将来展望が生き生きと記載されていますが、国鉄紀勢本線や城東線1とのリンクを上手く活かせば、阪神間の阪神電鉄に対する阪急のような存在になれると胸を張っております。経営者の矜持きょうじがうかがえます。

阪和電鉄の開通広告
(『阪和電気鉄道史』より)


昭和4年7月18日、阪和電気鉄道はめでたく開業とあいなりました。
でも…ちょっと待てよ?
ここで、ジモピーなら、いや、ジモピーだからこそ、引っかかるところがあるでしょう。

阪和線って…和歌山までちゃうのん?

そう、実は最初は「天王寺~(和泉)府中」間の開業だったのでございます。
なぜかと言うと、天王寺駅からの高架線建設に金がかかりすぎ、大阪から和歌山を越える和泉山脈を貫くトンネルを掘る資金が足りなくなったから。腹が減っては戦はできるならぬ、金がなければトンネル掘れぬ。
私がこれを知ったのは高校生の時でしたが、その時にある仮説を建てました。

筆者
筆者

もしかして、阪和線の『和』って和歌山やのーて、『和泉』の『和』ちゃうんか?

さすがにこれは私の考え過ぎでした。

1931年阪和電鉄全通広告
『阪和電気鉄道史』より

その後、資金も調達し工事は進み、翌年の昭和5年(1930)無事に和歌山まで延長。これにて阪和電鉄が全通、現在の阪和線の基礎ができあがりました。
当時の新聞記事によると、現在の和歌山駅にあたる阪和東和歌山駅で全通セレモニーが行われて、鉄道大臣に大阪府・和歌山県知事など600人が出席して盛大に祝ったそうです。

阪和電鉄の映像はほとんど残っておらず貴重ですが、その中でも貴重なものがあります。


(和歌山市立博物館の映像資料より)

阪和電鉄の電車が和歌山市内に入りスピードを下げ、東和歌山駅のターミナルに滑り込むシーンです。当時の阪和東和歌山駅のホームが3面4線の立派なターミナルに対し、省線(国鉄)の方はなんと1面2線。どこの田舎駅やねんと。

1966東和歌山駅構内(旧阪和電鉄側)。右側に切符売り場、左側には売店。奥が改札、その先に阪和線ホーム-1
和歌山市立博物館の資料より

戦後の1960年代の東和歌山駅ですが、旧阪和電鉄のターミナルは駅舎ごと昭和40年代まで流用されていました。阪和天王寺駅に隠れてあまり話題にならない阪和東和歌山駅ですが、たかが和歌山駅といっても天王寺駅並のターミナル駅としての風格をただよわせていました。

阪和電鉄時代の天王寺駅舎

阪和電鉄天王寺駅

阪和電鉄時代の天王寺駅です。Wikipediaにも掲載されている写真ですが、私鉄時代を語る貴重な写真でもあります。阪和電鉄時代は「阪和天王寺」と言う名前で、阿倍野橋北詰交差点の東南角にありました。

私鉄時代の天王寺駅をじっくり見てみると驚くのは、看板広告のバラエティの豊かさ。阪和電鉄を調べれば調べるほど、この会社が広告に非常に力を入れていることがわかります。この会社はいつから広告代理店になったんだ?というほどに。

阪和天王寺駅とナチスの旗

上の写真を拡大して観察すると様々な情報が入ってきますが、その中の一つに「ナチスの旗」があります。
日本の旗と対になってナチスドイツの旗が立っているということは、

「日独防共協定」1936(昭和11)年

「日独伊三国同盟」1940(昭和15)年

のどちらかが締結された時期だと推定できます。画像を改めて解析すると「みかん狩り」「松茸狩」という看板もあるので、秋なのは確定。

が、早秋と晩秋の違いはあれど、どちらの締結も「秋」なんです…

さてどっちだろうかと迷っていたところ…

ヒトラー・ユーゲントと関連するのではないかと指摘が入りました。ヒトラー・ユーゲントについては省略しますが、昭和13(1938)10に大阪を訪問しています。季節広告も秋で一致しているし、おそらくその時の写真ではないかと。

さらに調べると、写真右隅に「泉ヶ丘」という文字が見えます。これは阪和電鉄の子会社が開発した新興住宅地のこと。現在の東佐野駅前に広がる住宅街で、泉北ニュータウンの泉ヶ丘とは全く別ものです。この住宅の分譲は1938(昭和13)年から始まっており、ヒトラー・ユーゲントの来阪と時期とピタリと一致します。

これで1938(昭和13)年秋、10月の写真でファイナルアンサー。『阪和電気鉄道史』やWikipediaの記述と一致します。

天王寺駅

で、阿倍野交差点の東南角にあったという記述を元にして、同じような角度で撮影した現在はこんな感じに。当時の面影は全くございません。

阪和電鉄の伝説-超特急

阪和電鉄超特急
『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より

阪和電鉄の名前を全国に(?)知らしめたもの、それが「超特急」の存在。
阪和電鉄は創立15年、開業11年で消滅と、まれに見る非常に短命な鉄道会社でした。ふつうなら歴史のゴミの山の中に埋もれ、そのまま忘れられていてもおかしくありません。が、阪和電気鉄道の名前を現在でも伝説たらしめている理由の一つが、この「超特急」でした。

和歌山まで全通の1年後、阪和電鉄は満を持して阪和間ノンストップの「特急」の運転を開始しました。
その特急の一部が、昭和8年(1933)9月20日のダイヤ改正でスピードアップ。特急を超える特急という意味だったのでしょう、「超特急」と名付けられました。

阪和電鉄時刻表超特急赤枠入
(昭和11年時刻表より。赤枠は筆者加筆)

「超特急」というネーミングだけでもインパクト強烈ですが、もっと強烈だったのはその速度。
和歌山まで45分というと、同じ区間をJRの特急「くろしお」が今は42~44分で走っているので、なんや大したことないやんと思われがちです。が、それは今の常識と列車の性能での話。当時はまさに弾丸列車、「新幹線もどき」と表現しても言い過ぎではありません。
阪和間61,2kmの表定速度は81.2km/h。戦前ではぶっちぎりの最高記録で、戦後に国鉄の特急「こだま」が抜くまでの日本記録となりました。一説には最高130km/hまで出していたと言われています。

阪和電鉄天王寺駅超特急

「超特急」は阪和電鉄の看板電車の一つとなり、赤で囲んだ部分には、「ワカ山マデ超急四十五分」と書かれています。「超特急」が「超急」と略されていたことも、この看板からわかります。それが市民権を得てたかどうかは別として。

阪和電鉄ー鳳工場で点検中のモタ315
鳳工場で点検中のモタ315『辻圭吉写真集 思い出の汽車電車』より)

しかし、並の車両が130km/hなど出したら、モーターが焼けて空中分解します。「超特急」に使われた列車は、当時としてはオーバースペックなほどの超高性能電車を導入していました。

しかし、これがこれが、思い切り「電車のスピード違反」だったのです。
車に法的な制限速度があるように、鉄道にもちゃんと制限速度が存在していました。当時の法律では、確か90km/hか95km/h以上出してはいけないことになっており、当時の省鉄(今のJR)の看板特急、『燕』の最高速度がこれくらいだったはず。

阪和百景

しかし、実際はそんなのお構いなし。特に関西の私鉄、いや関西の省鉄(大阪鉄道局)でさえもガン無視でした。上の比較図を見ても、阪和のぶっちぎりぶりがよくわかります。本題から離れるので何も書きませんが、阪急神戸線もけっこうな暴走ぶりです。

今の阪和線でも、鳳駅より南は制限速度120km/h2。特急か快速に乗っていると、鳳駅から急にスピードを上げることが体感できます。特に鳳~和泉府中間はほぼ一直線、遅れが生じるとここでいつも快速が先祖返りして超特急化時間調整している「阪和線のボーナスステージ」です。「あの事故」前は、ここでは書けないような速度で走ってました。電車の速度計壊れてるんじゃなかろうかと当時は思ったものです。

鳴り物入りで現れ、登場当初は下り11本、上り14本という頻度だった超特急も、時を経るにつれ本数が減っていき、昭和11年(1936)には下り7本、上り9本、同15年(1940)には下り4本、上り5本のみに。
これは、単に阪和間の高速輸送の需要がそんなになかったこともありますが、支那事変(日中戦争)により工場がフル稼働し工員の通勤輸送が優先された、それによる電力不足などの事情もあったのでしょう。化け物モーターフル回転の超特急は、それだけで電気の大食らいですからね。

後述しますが、阪和電気鉄道は昭和15年12月、南海鉄道に吸収合併されます。が、南海になった後も超特急は存在し、所要時間も45分を保っています。

「超特急」がいつなくなったのかは、南海側にも記録が残っておらず謎のままです。
昭和16年4月、南海発行の時刻表には掲載が確認されています。が、7月の全国時刻表には「超特急」の記載がなくなっているので、おそらくこの時だろうと推定できます。なお、Wikipediaでは同年12月1日を「命日」としています。

阪和線、真の秘密兵器

今でこそ阪和線沿線は関西でも屈指の通勤路線で、混雑率はトップクラスでございます。

早朝に海外から関空に着きそのまま関空快速で大阪市内に向かうと、阪和線の日根野駅で朝6時台から仁義なき椅子取りゲーム、通称「日根野ダッシュ」「大阪日根野の陣」が始まります。

さらに、電車の遅延伝説を数多く残しました。天王寺駅の電車の渋滞が起き、朝夕は踏切が開かずとなり、待ってられるかと遮断機をくぐった人がはねられたり、はたまた特急の遅れが首都圏の交通を麻痺させたり(本当かどうかわかりませんが)
そんな伝説から、ある有名な言葉が生まれました。それが

「また阪和線か!」(意味はここで調べてね)

また阪和線か

Googleでも、「またはん」と入力すると「阪和線か」というワードが検出するほど。「また」で出てた時に比べたら平穏になりましたが…。現在でも、阪和線遅延情報が出ると、

ま た 阪 和 線 か!

という言葉がSNS上で飛び交い、事が重大になるとTwitterのトレンドに出てくることも。

そんな阪和線遅延伝説も、現在は阪和線だけに”はるか”に改善されております。

そんなJR西ご自慢のドル箱路線も、開通した当時は天王寺を離れると畑や原野の中に線路を敷いたが如く。信じられないかも知れませんが、沿線のうち住宅地が見えるのは南田辺までで、あとはお察し。そもそも乗ってくれる客が沿線にいるのか?と心配してしまうほどの原野でした。

南大阪の泉州地区は、堺や岸和田、貝塚など紀州街道沿いに町が形成され、泉州地区の経済を長年潤した紡績工場も紀州街道沿いに建てられていました。そこは南海鉄道(今の南海本線)が既に、旅客・貨物共にがっちり握っていました。

阪和電鉄も、最初の計画路線は紀州街道の近くまで近づいて、南海の客をぶん取ろうと画策していました。が、たぶん南海が邪魔したのか何度かの変更の上、今のルートに。仕方なしに人が少ない無人の野を走ることになりました。

しかしその分、

まっすぐに線路を敷く

スピードが出せる

阪和間を高速で結べる

というメリットもあります。阪和線は今でも直線区間が多いのですが、これは「スピード出せるように」。おまけに、ここぞとばかりに地盤も硬くして「高速志向」に拍車をかけました。だからこそ「超特急」を走らせることが出来たのだろうと。

阪和線、とある都市伝説

堺市民なら一度は聞いたことがある、ある阪和線の「都市伝説」があります。

三国ヶ丘駅の半地下

三国ヶ丘~百舌鳥間は、地下を走っているが蓋をしていない「半地下」状態になっているのですが、その理由が

「天皇陵の横を通ると不敬だから」

という話が伝わっています。くどいですが、堺市民なら聞いたことがあるはずです。堺生まれの私も、昔は信じていました。

が、長じてじっくり考えてみると、「本当に不敬」ならいくつかの矛盾が出てきます。

①三国ヶ丘駅より堺市側からすでに「半地下」になっているが、堺市駅から南側と仁徳天皇陵は何の関係もない。天皇陵と関係ないどころが「半地下」になっている理由は?

②百舌鳥駅付近は地上に出ており、天皇陵を横目に走っている。本当に不敬であれば、百舌鳥駅こそ半地下にすべきではないのか?

③仁徳天皇陵の他にも、上野芝駅のほぼ前に履中天皇陵がある。天皇陵のほぼ前を通り駅を作るのは不敬ではないのか?なぜ仁徳天皇陵だけ超がつく別格扱いなのか?それこそ履中天皇に対する不敬ではないのか。

この疑問を、阪和電鉄研究一筋半世紀の大家、このブログ記事の大出典先『阪和電気鉄道史』の著者、竹田辰男さんに直でぶつけてみました。

すると意外すぎる答えが!

竹田氏
竹田氏

初めて聞きました、そんな話…

生ける阪和電鉄専門Wikipediaが「聞いたこともない」ということは、正真正銘の都市伝説ということ。少なくてもそんな一次資料は見たことありませんと、驚いた顔で教えて下さいました。

筆者
筆者

でもこれ…堺市民、というか阪和線沿線住民の半分は信じてるんじゃないですかね!?

と言ったところ(横にいた別の方も、うんうんと頷いていました)、氏は

(´д゚`)<マ、マジデスカ

こんな顔をしていました。

竹田氏によると、三国ヶ丘駅付近の「半地下」はわざわざ掘ったもので、人工的な下り勾配にすることによって速度を出しやすくしたのだと推定しているそうです。

では、掘った土はどこにいったのでしょうか。そこらへんにポイ捨てしたわけではありません。

実は、意外なところで再利用されているのです。

阪和線上野芝津久野間の土手を走るはるか

上野芝駅~津久野駅間の堤防のような土手…実はこれがそうなのです。ここらへんは中学生の時の縄張りだったので、それこそ何十回、否、何百回見ていますがこれは盲点でした。

これも猛スピードを出せるよう地盤を固めに固めるための盛り土、阪和電鉄、いきあたりばったりのようでかなり計算しているところが魅力的だと、氏は仰っておりました。

仮説!「半地下」が掘られた理由

この盛り土を最新技術を用いて「ブラタモリ」すると、面白いことがわかってきました。

国土地理院のサイトで使用できる「色別標高差地図」なる新兵器を使用すると、赤丸の部分に「盛り土」を確認できます。そして、盛り土がこの地図に浮き出るということは、盛り土部分に比べ地面の標高が低いということ。

上野芝駅と津久野駅の部分は少し標高が高めで、百済川という川沿いにかけては標高が低くなっています(緑色の部分)。
盛り土がないと上野芝駅からいったん下りになり、また高台となるので上り坂となる…高速運転絶対の阪和電鉄にとってはこれはすごい時間と電気代のロス。
そこで、盛り土をすることによって高台と高台の間に橋を架ける形にする。そうすれば「平ら」になり速度を下げずに運転できる…なるほどあれは「橋」と思えばいいのか!

上野芝駅南側踏切から津久野鳳方面
上野芝駅から津久野駅方面を望む

上野芝駅から津久野駅間は少し下り基調となっていますが、「土手」によってその傾斜が和らぎ、和歌山方面は加速しやすく、天王寺方面はスピードロスを防いでいる作りになってる感があります。

で、阪和電鉄研究の大御所に喧嘩を売るつもりで、少し面白い仮説を立ててみました。

竹田辰男氏はこう考えます。

竹田氏
竹田氏

高速化と南海高野線との交差のために三国ヶ丘駅周辺を半地下にした

余った土を上野芝~津久野間の盛り土として再利用した

しかし、私はこう考えてみました。

筆者
筆者

上野芝あたりの凹をどうする?このままだと速度ロス

「土手」で「橋」を築こう!

土どうすんの?

どうせ高野線を跨がないといけないから、

高野線との交差部分を掘って「半地下に。

その土を利用しよう!

「三国ヶ丘駅周辺の半地下」は上野芝の「盛り土」確保のために掘ったという、竹田氏の逆の発想の仮説です。また、津久野~鳳間も盛り土になっているので、そこもなんとかするために、高野線を跨ぐのではなく、当時の常識とは逆の発想、「半地下」にして土を確保。それを例の土手に使った…私はこう推測します。
現在の「半地下」部分が元々平地だったことは、昭和3年(1927)の航空写真から明らか。わざわざ平地を「半地下」にしてまで掘らないといけない理由…それがこれで説明できます。

ちなみに…

色別標高差を現代地図に当てはめてみると、こんな地図ができあがりました。青と緑の部分は縄文~弥生時代まで海、つまり茶と緑の境目が大昔の海岸線でした。阪和線の盛り土の所は昔は入り江だったのです。
(仁徳天皇陵などの)大古墳は海沿いに作られ、外国から来る使節への外交アピールの面もあったという仮説が「ブラタモリ」で披露されていましたが、この地図を見ると古墳が海沿いに作られていることがわかると思います。

阪和電気鉄道、開業早々派手に事故る

無事全線開通し「完全体」となった阪和電鉄さん。パーフェクト阪和電鉄になってさあこれからイケイケや〜!な2ヶ月後、とんでもない事故をしでかします。
その新聞記事がこれ。

阪和電鉄の事故
『阪和電気鉄道史』より

ニュースの原稿風に書いてみると、以下のようになります。

当時の新聞記事より

昭和5年8月23日午後5時15分頃、大阪の阪和電気鉄道の杉本町~仁徳御陵前(現在の百舌鳥駅)で架線故障が発生し、天王寺発東和歌山行き各駅停車が停止信号に従って緊急停車しました。
そこへ後続を走っていた、天王寺発阪和浜寺(同東羽衣)行き臨時急行が停止信号を無視して追突、重軽傷者47人を出し近くの病院に搬送されました。
なお、全員命に別状はない模様です。

Q1:「あれ?浅香に堺市に三国ヶ丘駅は?」
A1:「当時はありません」

これだけでもかなりの大事故です。

死者が出なかっただけが不幸中の幸いでしたが、現場保全の必要があるのに勝手に電車を車庫に送ったり、割れたガラスを片付けたりと、独断で現場を「きれいさっぱりお掃除」してしまいました。それが悪質な証拠隠滅と見なされ、警察から大目玉を喰らったそうです。

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阪和間の料金に見る戦前の物価

開通当時の天王寺からの運賃は、

昭和11年(1936)阪和電鉄運賃

杉本町:10銭
鳳:25銭
土生郷(今の東岸和田):42銭
熊取駅:52銭
信達駅(同和泉砂川):64銭
東和歌山(同和歌山):96銭

阪和間の96銭は、当時南海の難波~和歌山市間が1円だったのでそれを意識して少し安めに設定したのでしょう。南海も阪和の料金設定に合わせ、1円から96銭に下げています。

この価格、今の物価だといくらになるか。

この計算がけっこう難しいのですが、日本銀行が公式に出してる数値に、「企業物価指数」というものがあります。

国の公式なので、テレビや新聞などのニュースでも、昔の値段を現代の価値に換算する時、けっこうこの数値が使われております。
昭和22年以前の場合は、「企業物価戦前基準指数」という指数も使用します。

最新のデータである平成28(2016)年の指数が658.2で、阪和線開通時の昭和5年が0.885であります。
これを元に計算してみると、

658.2÷0.885743.73

これに当時のお金を掛けたら、目安的に今の価格に換算できます。
阪和電鉄の天王寺~和歌山間の運賃でやってみると、

0.9696銭)×743.73713.9771397銭)

現在のJRの運賃が¥840なので、これくらいの価格が妥当なところか!?

しかし、上の物価指数はあくまで机上の理論値。時のリアル価格と比較すると、

昭和11年(1936) 大阪の物価

かけうどん一杯:10~11銭
コーヒー一杯:15銭
朝日新聞の月刊購読料:1円

今の朝日新聞の月刊購読料が約¥4,000、喫茶店のコーヒー一杯¥400と考えると、感覚的な96銭はざっくり¥3,500~4,000と見積もることが可能です。

リアルの日給を比較すると、同じ時期の阪急百貨店の名物食堂の、ウエイトレスの日給(10時間労働)が80銭でした。
また、こんな証言も残っています。

泉南市埋蔵文化財センター企画展昭和の一大観光地砂川
泉南市埋蔵文化財センター企画展「昭和の一大観光地砂川」より

「天王寺までの往復料金は、日給と同じくらい」

正真正銘、阪和電鉄の元社員(運転士)の回想ですが、「往復」とはおそらく天王寺~和歌山間だと思います。同区間の往復料金は1円92銭。当時の東京のガテン系肉体労働の日給が1.52だった時代なので、この証言は当時の平均給与水準に合致。やはり阪和間¥4000くらいの感覚で間違いないかと。

昔の鉄道料金は、中・長距離になると庶民がおいそれと乗れない、なかなかの高嶺の花だったのでございます…いや、今が安いだけか!?

NEXT:永遠のライバル、南海との闘い!
  1. 現大阪環状線天王寺~鶴橋~大阪間。
  2. 天王寺~鳳間は95km/h制限。
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