【前編】天王寺駅の怪-阪和電鉄の歴史

阪和電鉄阪和線天王寺駅 鉄道史
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■阪和電鉄の伝説-超特急

私鉄時代の天王寺駅をじっくり見てみると驚くのは、看板広告のバラエティの豊かさ。阪和電鉄を調べれば調べるほど、この会社が広告に非常に力を入れていることがわかります。この会社はいつから広告代理店になったんだ?というほどに。

 

阪和電気鉄道(阪和電鉄)の阪和天王寺駅舎

ここで挙げたいのが、阪和電鉄の名前を全国に(?)有名たらしめた「超特急」の看板です。
赤で囲んだ部分には、「ワカ山マデ超急四十五分」と書かれています。「超特急」が「超急」と略されていたことも、この看板からわかります。それが市民権を得てたかどうかは別として。

阪和電鉄は開業10年で消滅と、私鉄としては非常に短命でした。ふつうなら歴史のゴミの中に埋もれたままでもおかしくないのですが、この「超特急」の存在が阪和電気鉄道の名前を、現在でも伝説たらしめています。

「超特急」というネーミングだけでもインパクト強烈ですが、もっと強烈だったのはその速度でした。
和歌山まで45分というと、同じ区間をJRの特急「くろしお」が今は42~44分で走っているので、大したことはないと思われがちです。が、それは今の常識と列車の性能での話。当時はまさに弾丸列車、否、エヴァンゲリオン初号機顔負けの暴走電車でした。

 

阪和電鉄時刻表超特急赤枠入
(昭和11年時刻表より。赤枠は筆者加筆)

ね、ホントに45分で走っているでしょ。

 

阪和電鉄超特急
( 『天王寺鉄道管理局三十年写真史』より)

非常に貴重な、超特急の列車種別板付き写真です。電車の形式からロングシート車でも運転されたようです。

この超特急、真偽はさておき最高で130km/h以上出していたと言われています。東海道新幹線も最初は最高時速210km/hスタート。天王寺~東和歌山(今の和歌山)間の表定速度81.6km/hは、戦前のぶっちぎり最高記録。この記録は26年間破られることがありませんでした。

阪和電鉄ー鳳工場で点検中のモタ315
(鳳工場で点検中のモタ315『辻圭吉写真集 思い出の汽車電車』より)

しかし、並の車両が130km/hなど出したらモーターが焼けて空中分解します。「超特急」に使われた列車は、当時としてはオーバースペックなほどの超高性能電車を導入していました。

しかしこれ、思い切り「電車のスピード違反」だったのです。
鉄道にもちゃんと制限速度があり、当時の法律では確か90km/hか95km/h以上出してはいけないことになっていました。当時の省鉄(今のJR)の看板特急、『燕』の最高速度がこれくらいだったはず。

 

阪和電鉄阪和百景
(『阪和百景』より)

しかし、実際はそんなのお構いなし。特に関西の私鉄、いや関西の省鉄(大阪鉄道局)でさえもガン無視でした。上の比較図を見ても、阪和のぶっちぎりぶりがよくわかります。本題から離れるので何も書きませんが、阪急神戸線もけっこうな暴走ぶりです。

今の阪和線でも、鳳駅より南は制限速度120km/h1。阪和線に乗っていると、鳳駅から快速が急にスピードを上げることを体感できます。特に鳳~和泉府中間はほぼ一直線、遅れが生じるとここでいつも快速が先祖返りして超特急化時間調整している「阪和線のボーナスステージ」です。「あの事故」前は、ここでは書けないような速度で走ってました。電車の速度計壊れてるんじゃなかろうかと当時は思ったものです。

 

後述しますが、阪和電気鉄道は昭和15年12月、南海鉄道に吸収合併されます。が、南海になった後も超特急は存在し、所要時間も45分を保っています。

「超特急」がいつなくなったのかは、南海側にも記録が残っておらず謎のままです。
昭和16年4月、南海発行の時刻表には掲載が確認されています。が、7月の全国時刻表には「超特急」の記載がなくなっているので、おそらくこの時だろうと推定できます。なお、Wikipediaでは同年12月1日を「命日」としています。

◆阪和線、真の秘密兵器

今でこそ阪和線沿線は関西でも屈指の通勤路線で、混雑率はトップクラス。

早朝に海外から関空に着きそのまま関空快速で大阪市内に向かうと、阪和線の日根野駅で朝6時台から仁義なき椅子取りゲーム、通称「日根野ダッシュ」「大阪日根野の陣」が始まります。

さらに、電車の遅延伝説を数多く残しました。今ははるかに改善されたのですが、いったんついてしまったイメージはなかなか拭えず、

「また阪和線か!」(意味はここで調べてね)

という知る人ぞ知る言葉で有名です。Googleの検索画面で「またはん」と入力すると、「阪和線か」というワードが続きます。現在でも、阪和線遅延情報が出ると、

ま た 阪 和 線 か!

という言葉がSNS上で飛び交い、事が重大になるとTwitterのトレンドに出てくることも。

そんなJR西ご自慢のドル箱路線ですが、開通した当時は天王寺を離れると、畑や原野の中に線路を敷いたが如く。信じられないかも知れませんが、沿線のうち住宅地が見えるのは南田辺までで、あとはお察し。そもそも乗ってくれる客が沿線にいるのか?と心配してしまうほどの原野でした。

南大阪の泉州地区は、堺や岸和田、貝塚など紀州街道沿いに町が形成され、泉州地区の経済を長年潤した紡績工場も紀州街道沿いに建てられていました。そこは南海鉄道(今の南海本線)が既に、旅客・貨物共にがっちり握っていました。

阪和電鉄も、最初の計画路線は紀州街道の近くまで近づいて、南海の客をぶん取ろうと画策していました。が、たぶん南海が邪魔したのか何度かの変更の上、今のルートに。仕方なしに人が少ない無人の野を走ることになりました。

しかしその分、

まっすぐに線路を敷く

スピードが出せる

阪和間を高速で結べる

というメリットもあります。阪和線は今でも直線区間が多いのですが、これは「スピード出せるように」。おまけに、ここぞとばかりに地盤も硬くして「高速志向」に拍車をかけました。だからこそ「超特急」を走らせることが出来たのだろうと。

 

堺市民なら一度は聞いたことがある、ある阪和線の「都市伝説」があります。

阪和線の半地下区間

三国ヶ丘~百舌鳥間は、地下を走っているが蓋をしていない「半地下」状態になっているのですが、その理由が

「天皇陵の横を通ると不敬だから」

という話が伝わっています。くどいですが、堺市民なら聞いたことがあるはずです。堺生まれの私も、昔は信じていました。

が、「本当に不敬」ならいくつかの矛盾が出てきます。

■三国ヶ丘駅より堺市駅側から既に「半地下」になっているが、堺市駅から南側と仁徳天皇陵は何の関係もない。天皇陵と関係がないところも「半地下」になっている理由は?

■百舌鳥駅付近は地上に出ており、天皇陵を横目に走っている。本当に不敬であれば、百舌鳥駅こそ半地下にすべきではないか?

■仁徳天皇陵の他にも、上野芝駅のほぼ前に履中天皇陵がある。天皇陵のほぼ前を通り駅を作るのは不敬ではないのか?なぜ仁徳天皇陵だけ超がつく別格扱いなのか?それこそ履中天皇に対する不敬ではないのか。

この伝説、果たして本当なのか。

この疑問を、阪和電鉄研究一筋半世紀の大家、このブログ記事の大出典先『阪和電気鉄道史』の著者、竹田辰男さんに直でぶつけてみました。

すると意外すぎる答えが!

「初めて聞きました、そんな話

生ける阪和電鉄専門Wikipediaが「聞いたこともない」ということは、正真正銘の都市伝説ということ。少なくてもそんな一次資料は見たことありませんと驚いた顔で教えて下さいました。

私

でもこれ…堺市民の、たぶん半分は信じてるんじゃないですかね

と言ったところ(横にいた別の方も、うんうんと頷いていました)、氏は

(´д゚`)<マ、マジデスカ

こんな顔をしていました。

竹田氏によると、三国ヶ丘駅付近の「半地下」はわざわざ掘ったもので、人工的な下り勾配にすることによって速度を出しやすくしたのだと推定しているそうです。

では、掘った土はどこにいったのか。そこらへんに捨てたわけではありません。

実は意外なところで使われています。

 

阪和線上野芝駅

上野芝駅~津久野駅間の堤防のような盛り土…実はこれがそうなのです。これも猛スピードを出せるよう地盤を固めに固めるための盛り土、阪和電鉄、いきあたりばったりのようでかなり計算しているところが魅力的だと、氏は仰っておりました。

 

◆阪和電気鉄道、開業早々に事故る

無事全線開通し順風満帆に見えた阪和電鉄ですが、2ヶ月後にとんでもない事故をしでかします。
その新聞記事がこれ。

 

阪和電鉄事故の新聞記事。杉本町から百舌鳥御陵前駅間
(『阪和電気鉄道史』より)

ニュースの原稿風に書いてみると、以下のようになります。

当時の新聞記事より
昭和5年8月23日午後5時15分頃、大阪の阪和電気鉄道の杉本町~仁徳御陵前(現在の百舌鳥駅)で架線故障が発生し、天王寺発東和歌山行き各駅停車が停止信号に従って緊急停車しました。
そこへ後続を走っていた、天王寺発阪和浜寺(同東羽衣)行き臨時急行が停止信号を無視して追突、重軽傷者47人を出し近くの病院に搬送されました。
なお、全員命に別状はない模様です。

Q1:「あれ?浅香に堺市に三国ヶ丘駅は?」
A1:「当時はありません」

 

これだけでもかなりの大事故です。

死者が出なかっただけが不幸中の幸いでしたが、現場保全の必要があるのに勝手に電車を車庫に送ったり、割れたガラスを片付けたりと、独断で現場を「きれいさっぱりお掃除」してしまいました。それが悪質な証拠隠滅と見なされ、警察から大目玉を喰らったそうです。

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阪和間の料金に見る戦前の物価

開通当時の天王寺からの運賃は、

1936(昭和11)阪和電鉄運賃杉本町:10銭
鳳:25銭
土生郷(今の東岸和田):42銭
熊取駅:52銭
信達駅(同和泉砂川):64銭
東和歌山(同和歌山):96銭

阪和間の96銭は、当時南海の難波~和歌山市間が1円だったのでそれを意識して少し安めに設定したのでしょう。南海も阪和の料金設定に合わせ、1円から96銭に下げています。

この価格、今の物価だといくらになるか。

この計算がけっこう難しいのですが、日本銀行が公式に出してる数値に、「企業物価指数」というものがあります。

国の公式なので、テレビや新聞などのニュースでも、昔の値段を現代の価値に換算する時、けっこうこの数値が使われております。

昭和22年以前の場合は、「企業物価戦前基準指数」という指数も使用します。

最新のデータである平成28(2016)年の指数が658.2で、阪和線開通時の昭和5年が0.885であります。
これを元に計算してみると、

658.2÷0.885743.73

これに当時のお金を掛けたら、目安的に今の価格に換算できます。
阪和電鉄の天王寺~和歌山間の運賃でやってみると、

0.9696銭)×743.73713.9771397銭)

現在のJRの運賃が¥840なので、これくらいの価格が妥当なところか!?

しかし、上の物価指数はあくまで机上の理論値。時のリアル価格と比較すると、

昭和11(1936)年の大阪の値段かけうどん一杯:10~11銭
コーヒー一杯:15銭
朝日新聞の月刊購読料:1円

今の朝日新聞の月刊購読料が約¥4,000、喫茶店のコーヒー一杯¥400と考えると、感覚的な96銭はざっくり¥3,500~4,000と見積もることが可能です。

リアルの日給を比較すると、同じ時期の阪急百貨店の名物食堂の、ウエイトレスの日給(10時間労働)が80銭でした。
また、こんな証言も残っています。

f:id:casemaestro89:20180513105527j:plain
泉南市埋蔵文化財センター企画展「昭和の一大観光地砂川」より)

「天王寺までの往復料金は、日給と同じくらい」

正真正銘、阪和電鉄の元社員(運転士)の回想ですが、「往復」とはおそらく天王寺~和歌山間だと思います。同区間の往復料金は1円92銭。当時の東京のガテン系肉体労働の日給が1.52だった時代なので、この証言は当時の平均給与水準に合致。やはり阪和間¥4000くらいの感覚で間違いないかと。

そう思うと、昔の鉄道料金って高かったのねん。いや、今が安いだけか!?

NEXT:永遠のライバル、南海との闘い!

 

  1. 天王寺~鳳間は95km/h制限。
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