共楽園-帝塚山にあった幻の遊園地

帝塚山共楽園万代池大阪史
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共楽園を作った男

共楽園の創業者は、吉川友治郎という人物でした。
ネットでググった限りでは、吉川が何者かまでには触れていません。が、惜しい、実に惜しい。掘りが足りない。
この人物を深堀りしてみると、非常に興味深い人物だったのです。

小規模とは言え遊園地を作ったほどなので、吉川は地元の素封家の感じがします。が、意外や意外、彼の前職は…。

共楽園小染川友治郎

実は大阪相撲の力士でした。
彼の四股名は小染川友治郎。相撲の歴史、特に力士史に詳しい人は、この名前に見覚えがあるのではないでしょうか。

小染川は千田川部屋に入門し、明治37年(1904)に初土俵を踏んだとされています。
明治44年(1911)に幕内にあがり、身長166㎝ながら(といっても、当時160cm代の力士は珍しくなかった)豪快な押し相撲で当時の人気力士となったそうです。優勝も1回しています。
そして、小結を経て大正4年(1915)、大阪相撲では事実上の最高位である大関の地位にまでにのぼりつめました。
といっても、当時東京・大阪に分かれていた相撲は、実力・人気ともに東京の方が上で、小染川が幕内に入った頃の東西には段違いの差がありました。そういう意味では、小染川の大関も、現在の大相撲の大関ほどの強さはなかったと思われます。
が、大関になって小染川の人気はさらに上がり、人気力士として「大阪相撲の金庫」とまで呼ばれ、当時の大阪相撲の屋台骨として大活躍でした。

大正11年(1922)、すでに師匠の名跡千田川を継いでいた小染川は力士を引退、親方となります。『帝塚山風物誌』には「千太川」と書かれていますが、千田川の間違いです。
親方として次世代の力士を育てるはずでしたが、翌年の「龍神事件」という大阪相撲界の衰退が決定的となった大事件によって相撲界を去り、その後は「米穀商や遊園地の経営など営んだ」とされています。
なお、千田川が相撲界を去って4年後の昭和2年(1927)、大阪相撲は東京相撲に吸収される形で合併、現在の日本相撲協会となります。千田川の年寄名跡は現存し、現在は元小結闘牙が名乗っています。

もっとちなみに、今は相撲名跡の中の名門中の名門、時津風も元は大阪相撲の名跡で、明治大正期は特に気性が荒い力士が放り込まれる「訳あり部屋」だったとか。
大阪で「時津風(部屋の力士)や」と言うと、

あかん、こいつら時津風や!

とヤクザや愚連隊が一目散に逃げ出したほど恐れられていました。
その絶好のサンプルが11代目時津風親方。長い相撲の歴史の中でも一二を争う問題児で、凶悪犯罪以外はひととおりやったというほどだそう。ついには、あまりの素行不良ぶりに親方から「お前は世間の妨げ(迷惑)だ」という意味で「さまたげ」という四股名に変えられたほどでしたが、それでも素行は治らず、ついには満洲で馬賊になったほどの「本物」でした。あまりキャラが濃すぎて、実在の人物なのか疑ってしまうほどです。
現在の九重親方、元大関千代大海が大分、いや「大分の龍二と言えば佐賀県にまで名前が知られていた」(タレントのはなわ氏)ほどのという荒くれ者だったことは有名ですが、さすがにガチ盗賊を経験していない分スケールが小さい(笑
時津風部屋がブランド化したのはあの双葉山が名乗ってからで、双葉が時津風を継いだ時も、

なんであんな名跡を?

と周囲がいぶかしんだほどでした1
時津風部屋と言えば、暴行事件や親方野球賭博事件で世間を賑わせましたが、相撲史を知ると100年回って「先祖返り」している感が否めません。

大阪相撲で大関にまで就いた有名力士なので、小染川はWikipediaにも記載されています。記事は『大相撲人物大事典』(ベースボールマガジン社)という書物のほぼコピペなのですが、そこに書かれた「遊園地」が、まさに共楽園だったのです。Wikipediaも掘りが足りない。

現在は大関どころか、誰とは言いませんが元横綱がちゃんこ屋をやっているくらいなので、元大関が商売してもおかしくありません。この時期の親方も、部屋付きだとお給金だけでは食えず、何かしらの副業を行っていたという話を聞いたことがあるので。
しかしながら、高級住宅街に遊園地を作った事、それが特に夏場に繁盛したのを見ると、事業センスはあったのかもしれません。吉川とは同じ帝塚山のご近所さんで、共楽園の優待券ももらっていた庄野英二も「なかなか事業家的才能の持主だった」と記しています。
それにしても、遊園地を作る金はどこから出てきたのか?
大阪相撲屈指の人気力士、それなりのタニマチがついていたはずなので、
「よし、俺が金を出してやる!」
と大阪の商人が金を出してくれたと想像しています。

共楽園の終焉

共楽園のCEO、小染川こと吉川友治郎は昭和13年(1938)に死去します。享年46歳。
その後の共楽園はどうなったのでしょうか。

1942万代池と共楽園

昭和17年(1942)の航空写真を見ると、昭和3年の航空写真にはうっすらとながら確認できる庭園らしきものが更地になっています。
プールはそのまま残っている模様ですが、稼働していたかどうかは、航空写真では確認できません。

それ以前に、そもそも池の形が変わっていることにお気づきでしょうか。
万代池はもともと、住吉常盤会という団体の持ち物でした。それが昭和15年(1940)に大阪市に貸与されます。
表向きはレンタルになっているようですが、事実上の売却か譲渡と思われます。
その証拠に、大阪市管理になった途端、池の形が変わるほどの大改造が行われます。
現在のように池の中心にある小島へ橋が架かったのはこのころで、「ススキの生い茂った起伏の多い」周囲も市民公園として大幅に整備されました。
良くも悪くもさっぱりしてしまった万代池、そのついでに共楽園も「さっぱり」してしまったのか。それを物語る資料は存在しません。

戦後共楽園の変遷

戦後もそのまま放置されたか、戦後すぐにはプール跡(?)は確認できるものの、周囲は草木が生えて荒れている様子が航空写真からも覗えます。残念ながら住吉区の航空写真はしばし絶え、次の昭和39年(1964)の写真では住宅街になりプール跡が公園のように整備されたかのように見えます。

帝塚山風物誌共楽園

そして現在、プール跡の空地もなくなり、ふつうの住宅街としてなっています。
対岸にあった大阪女子専門学校⇒大阪女子大学も移転の上校舎も取り壊され、現在は老人ホームになっています。ここの校舎、大阪府立貿易専門学校時に一回、府立公文書館時代に一回行ったことがあるのですが、帝塚山の真ん中に建つ洋風建築は威厳さえ漂わせていました。
惜しむらくは、何故一枚も写真を撮っていなかったのだと。

「写真なんか撮らなくても、自分の記憶に、想い出に残っていればいいのさ」

と無駄な格好をつけていた当時の自分を、フルパワーでしばき倒したい気分です。


 

・『住吉区誌』
・『帝塚山風物誌』庄野英二著
・『住吉細見記』梅原忠治郎著
・『都市文化研究24 帝塚山歴史探訪-万代池』
・『大相撲人物大事典』
・『文学界2006年3月号』
・ノムコム(https://www.nomu.com/machikara/4167/)
・国土地理院航空写真
・Wikipedia
  1. 双葉山の答えは「名跡に貴賤はない」だったと伝えられています。

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