砂川遊園・奇勝と、ある方の黒歴史

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砂川遊園・奇勝の最期

阪和電鉄が、おそらく社運を賭けていたのではないかと思われる砂川遊園・奇勝ですが、ここが幻・悲劇の遊園地と呼ばれているゆえんは、大きなポテンシャルを持った場所ながら、オープン(昭和10年)から実質7~8年間しか稼働していなかったこと。

昭和12年に起こった支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉がところどころから叫ばれる時代となってきました。
「非常時」によるレジャー自粛の空気もある中、砂川遊園もだんだんと「軍国化」「全体主義化」していきます。

阪和電気鉄道時代の阪和天王寺駅駅舎

上に挙げた阪和電鉄時代の天王寺駅ですが、正面の砂川遊園の上に「挙って体位向上」という文字が見えます。
この時は「非常時」の掛け声のもと、頭脳明晰より体力旺盛の健康体がもてはやされ、男子はお国のために兵隊さんに、女子は立派な子どもを生むためにと体位(体格)の向上が叫ばれました。

話は少しずれますが、当時の情勢がわかる地元のお話を。
昭和15年、砂川奇勝の近所にあった佐野町(今の泉佐野市)の大阪府立佐野実践女学校1の入試当日、受験番号が書かれた名札をつけた受験生がいくつかの班に分かれ、雑草が生えた運動場に集合しました。
校長先生が登場し、班を運動場に配分した後、
「かかれ!」
という掛け声のもとにみんなで草むしり開始。
何の説明も受けていない受験生は、なんでわたしたち草むしりやらされてんの?と首を傾げながら黙々と草を刈っていましたが、これが実は「入試科目」だとわかると、みんな目の色を変えて必死になりました。
そう、この年のこの女学校の入試科目は「草むしり」のみ。頭脳など要らぬ、健康な「兵隊予備軍」を生む健康な身体の方が大和撫子として重要。スタミナはもちろん、効率的な草むしりやチームワーク、積極性が「入試問題」であり「合否基準」だったのです。
ウソのようなホントの、世にも奇妙な入学試験でしたが、これも時代ならではです。

 

そして同年12月、砂川遊園・奇勝を事実上経営していた阪和電鉄は、ライバル…もとい天敵の南海に吸収合併されます。

昭和15年7月18日大阪朝日新聞
(昭和15年7月18日 『大阪朝日新聞』)
で囲んだ阪和の記事の横にあるの「代用食」の記事が時代を感じさせます。もう「贅沢は敵だ」に入っていたのです。

昭和16年『大阪朝日新聞』より
(昭和16年『大阪朝日新聞』より)
阪和電気鉄道は「南海山手線」と改名されましたが、その後の砂川遊園はめぼしい広告もなく、存在感は徐々に薄くなってきました。
駅名も、昭和16年8月1日に「阪和砂川」から「砂川園」と改名されました。

 

昭和17年南海電鉄の広告。砂川園の表示あり

昭和17(1942)年当時の南海山手線の沿線観光地案内ですが、経営は阪和電鉄から南海に受け継がれて「砂川園」と名前を変え、いちおうは存在していたようです。

「砂川遊園」がそれに含まれるのかは不明ですが、右となりの「さやま園」狭山遊園地を指していると思われるので、おそらく遊園地を含めたものだと推定できます。狭山遊園地も名を変えていることから、戦争の非常時に「遊園地」とはけしからん!という、上からの指導(=圧力)があった可能性があります。

泉南市埋蔵文化財センター展示会『昭和の一大観光地砂川』よりパネル1
(泉南市埋蔵文化財センター『昭和の一大観光地砂川』展のパネルより)

昭和17年から先は全くの白紙です。戦争とは言え、この白紙が砂川遊園だけではなく、日本全体の暗い時代を感じさせます。ここがイコール砂川遊園・奇勝の大きな謎でもあります。

この砂川遊園がいつ閉園したのか。「何年何月何日閉園」という確実な資料がいまだ発見されておらず明らかではありません。

 

そして戦争が激化した昭和19年(1944)、「南海山手線」は国営化され阪和線となりました。は阪和線が国有化されます。

戦時中の砂川遊園
(泉南市埋蔵文化財センター『昭和の一大観光地砂川』展のパネルより)
砂川遊園の「美しい花畑はいも畑になった」のですが、その貴重な写真です。食糧が足らずみんなお腹をすかせていたこの頃は、「遊」なんて余裕は全くなく、本当に「生きるために食うのが精一杯」の時代でした。

 

ここで砂川遊園のミステリーが浮かび上がります。

阪和電鉄が「国鉄」となったことにより、阪和→南海のと所有が移った(はずの)砂川遊園と奇勝の所有権はどこへ行ったのか。
展示会には、かすかながらその間接的な記述がありました。

遊園の地主だった田中源太郎は、戦時中か戦後かは不明ながら遊園の土地を文部省に寄付しています。寄付とはなんだか引っかかりますが、それ以上の証拠がないので文字通り受け止めておきます。
その土地は戦後、信達村2に払い下げられていることは確認できました。

しかし、戦後になり復活しないままだった旧砂川遊園に、「遊具」が復活しています。

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(泉南市埋蔵文化財センター『昭和の一大観光地砂川』展内の動画より)
砂川遊園跡の遊具で遊んでいる昭和45年の写真ですが、これらは誰かが戦後に新設したものだそうです。

 

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(泉南市埋蔵文化財センター『昭和の一大観光地砂川』展内の動画より)
展示会では、現時点で唯一残る戦後の旧砂川遊園地や砂川奇勝の映像が流れていましたが、遊園地のような動く遊具がたくさん映っていました。が、砂川遊園は戦争のどさくさに消え、その後公には復活していないはず。もしかして地主が戦後の復活を期して投資したものなのだろうか。
それについては、展示会では何の説明もありませんでした。

 

砂川のその後

砂川奇勝の方は、土地自体は南海電鉄が引き継ぎ1960年代前半まで所有していました。が、いらない子扱いされたのか、昭和37年(1962)に泉南市(当時は泉南町)が数百万円で払い下げ、町長が不動産業者に1億円以上で売却。旧砂川遊園地の部分も昭和39年(1964)、泉南町が不動産会社に、二束三文で払い下げたと泉南市役所発行の広報誌に記載されています3

 

砂川遊園と砂川奇勝1947年航空写真

昭和22年(1947)の航空写真を見ると、この時は遊園地の区画がまだはっきり残っています。

砂川遊園の案内にはなかった、本格的そうな陸上トラックもはっきり形になっています。航空写真でこれだけ残っているのだから、放置プレイのまま手付かずだったのでしょう。

 

砂川遊園あたりを拡大すると、この通り。

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(参考:大阪市立大学論文『昭和初期における大都市圏郊外鉄道の遊覧地開発』

かなり本格的な遊覧地だったことがわかります。

 

砂川遊園と砂川奇勝昭和36年航空写真

しかし、昭和36年(1961)には痕跡すらなくなっています。どこに砂川遊園があったのかさえもわからないくらい、きれいに消えています。

しかし、砂川奇勝の方はまだ手付かずで残っているようです。
この航空写真の1年後、砂川奇勝が売却されたということになります。

 

 

砂川遊園と砂川奇勝昭和42年航空写真

昭和42年(1967)の写真を見ると、遊園地の跡に住宅地が造成されている最中っぽいので、ここが今のような住宅地になったのは、この昭和40年代前半と断言して良いでしょう。しかし、上の映像の遊園地はどこにあったのでしょうか。展示会の説明ではこの写真のどこかにあったはずですが。

また、砂川奇勝も以前と比べ、小さくなっていることがわかります。

砂川遊園と砂川奇勝昭和50年航空写真

昭和50年(1975)には、ほぼ現在と同じ区画になっています。
あれだけ広範囲に広がっていた砂川奇勝がこんなに小さく…なんだか航空写真で変遷を見ていると涙が出てきそうです。

NEXT:現在の砂川奇勝は?実際に行ってみた
  1. 佐野高等女学校→現府立佐野高校。
  2. のちの泉南町⇒泉南市
  3. 『広報せんなん』昭和39年2月号。
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