終戦記念日の聖地巡礼-『時刻表昭和史』を訪ねて

宮脇俊三時刻表昭和史の今泉駅昭和史

8月15日は、言わずと知れた終戦記念日です。
国際的には、「ポツダム宣言」を受け入れた8月14日、大元帥(天皇)陛下による戦闘中止命令が出た8月16日、そして降伏文書に調印した9月2日の方が重要。アメリカは9月2日を「終戦記念日」にしているし、世界史・国際法的には8月15日は別にどうでもいい日なのですが、日本史的にはこの日が区切りとなっています。

それはさておき、8月15日は私の誕生日でもあります。終戦記念日生まれという、ある意味数奇な誕生日を生まれながらにして持った私が昭和史を探究するのは、何かの宿命なのかもしれません。
かくして人生四十数回目の誕生日を、コロナ前には予想だにしていなかった山形県で迎えたわけですが、76年前の同じ日を、同じ山形県で迎えたある人物がいました。

 

宮脇俊三

それが紀行作家の宮脇俊三(1926-2003)
まだ鉄道マニア自体認知されていなかった戦前から乗り鉄に励み、編集者として数々の作家の作品を世に送り出した文字選びのセンスで、乗り鉄を文学にまで高めた人物です。特に「国鉄全線乗車」は彼が広めたと言ってもいいでしょう。
また、晩年は鉄道の廃線跡探索という分野も確立。乗り鉄や旅好きからは神に準じた扱いを受け、「宮脇の前に宮脇なし、宮脇の後に宮脇なし」とも言われています。

 

宮脇俊三の時刻表昭和史

その宮脇の代表作の一つに、『時刻表昭和史』があります。
これは日本では少ない教養小説と呼ばれるジャンルだそうで、鉄道を軸とした文学、歴史の回想録、そして本人の自伝という3つのジャンルが交差した作品です。
私がこの作品と出会ったのかは覚えていませんが、まだ宮脇が生きていた頃に出会ったことは確実です。おそらく1990年代だったのではないかと。
ライフワークとしての昭和史、鉄道史、そして旅鉄として自分の趣向が濃縮されたかのような作品に、今まで味わったことがないような興奮を覚えました。今年、ついに紙ベースから電子書籍にチェンジしましたが、紙ベースは表紙がボロボロになるまで何回も読み続けた作品であり、今まで読んだ本の中でも3本の指に入るほどの面白さでした。
しかし、今でこそ伝説の名著扱いされているものの、刊行当初は教養小説という珍しいジャンルもあってか司馬遼太郎や阿川弘之、北杜夫など「玄人」には絶賛されたものの、読者である「素人」には全くウケず、売上は芳しくなかったそうな。

 

羽越線村上駅

その宮脇は、大東亜戦争末期の頃には居住地だった東京が空襲の危険に晒され、母親などと共に新潟県の村上という地に疎開しました。当時19歳の旧制高校生でしたが、ご時世がご時世なだけに学業は休止中でした。写真は先月電車乗り継ぎのために途中下車した村上駅です。
そこでの生活は、空襲の恐怖に怯えていた東京とはうって変わって平和そのもので、空襲警報が鳴り緊張は訪れるものの、肝腎のB29は訪れず、いつも「空振り」に終わっていました。その上、カボチャばっかりだったものの食料に不足することはなく、東京とはまるで別天地だったと記しています。

昭和20年8月9日か10日、東京に残った父親が疎開先の村上にひょっこりやって来ました。山形県にある炭鉱の視察のため、わざわざ遠回りをして家族の様子を見に来たのでした。当時は列車も艦載機の機銃掃射の標的で、遠出はそれだけで命がけという時代でした。実際、俊三青年がその後父と乗り込む車両には、機銃掃射による(あな)が開いていたそうです。

 

宮脇俊三と時刻表昭和史

8月12日、宮脇青年と父は村上駅を出発、炭鉱があったという山形県最上郡の大石田まで、余目駅で陸羽西線の列車に乗り換え、新庄経由で大石田へ向かいます。調べてみると、具体的な場所は不明ながら、大石田には三和、大林などの炭鉱集落がありました。

羽越本線の車窓

偶然ながら先月、宮脇が乗ったルートを76年後に私がたどることになりました。蒸気機関車+客車とディーゼルカーという違いはあるものの、宮脇父子が見た風景もこれと同じようなものだったでしょう。

彼らは当日中に炭鉱に到着し、翌日に俊三少年が日射病、現在では熱中症でダウンするもミッションは終了したようで、二人は天童温泉で宿泊します。

 

そして「その時」の8月15日。
温泉の宿を出る際、宮脇親子は宿の主人からあることを知らされます。

今日の正午に天皇陛下の重大な放送があるそうです

父は何か重大なことがあるなと子に告げ、

 

「いいか、どんな放送があっても黙っているのだぞ」

引用:『時刻表昭和史』第十三章

とだけ言いました。
宮脇の父は元軍人であり、遣り手の元衆議院議員でもあったので(それ故に東條英機ににらまれ失職)、そのネットワークで何かをつかんでいた、あるいはそれまでの情報を分析・整理して何かを察してはいたのだろうと推察します。

 

終戦の日の宮脇親子のルート

宮脇親子は、天童を8時33分に出発する列車に乗ったとあります。もちろん、同じ時刻の列車は現在存在しませんが、

 

今泉駅聖地巡礼

似たような時間の列車に乗り、76年前の足跡を辿ろうと思います。

宮脇親子の列車は天童から乗り換えの赤湯駅まで直通の列車だったようですが、現在は新幹線の「つばさ」以外は山形でいったん乗り換えとなります。よって、私はいったん山形駅で電車を乗り換え、赤湯駅へ向かいます。

 

奥羽本線と山形新幹線の赤湯駅

宮脇親子は、9時44分に赤湯駅に到着、11時02分の長町か荒砥行きの長町線の列車に乗り換えます。
出発こそ遅発となった私ですが、赤湯には10時4分に到着。私より先に出発していた宮脇親子は赤湯駅で列車待ちのロスタイム。ここで私が追いつきました。

 

 

山形鉄道フラワー長井線76年後の私は、10時47分発ののディーゼルカーに乗り換えます。宮脇親子が乗った長井線は昭和63年(1988)に山形鉄道に移管され事実上の継続。現在では山形県唯一の私鉄となっています。

 

山形鉄道フラワー長井線車内

第三セクターとは言え、車両は清潔でカーテンまでついており、ロングシートとは言えなかなかのレベルでした。車内灯も白熱灯風のレトロな形になっており、少しでも良くしようという努力が見えて好感が持てます。
乗客も、最初は私一人だけだったりしてなんてナメてかかっていましたが、いざ乗ってみると始発の赤湯駅で十数人。途中の宮内駅で最寄りの高校生も10人ほど乗り込み、なんでやねんと悶絶するほどの乗車率となりました。

 

山形鉄道フラワー長井線

長井線は置賜平野をのんびり走っていきます。写真のような光景も、76年前に宮脇親子がまぶたに写したものとあまり変わっていないのだろうか。

宮脇親子は、長井線から村上への帰りのため、米坂線と合流する今泉駅で乗り換えることになりました。昭和20年の長井線赤湯~今泉間の所要時間は28分。令和3年の同じ区間の所要時間は20分。8分短くなっているとは言え、76年で8分はあまり変わっていないような。

 

時刻表昭和史と今泉駅

宮脇親子は今泉駅の外へ出ました。米坂線の列車まで時間があるため、12時にある「重大放送」を聞くためでしょう。
駅舎は、山形鉄道のHPを見ると改装されており、残念ながら終戦当時の建物ではありません。が、位置や外観は基本当時のままで、ここに宮脇親子が降り立ったのだなという、聖地巡礼によくあるリアル感を体験するには十分な風情を残しています。

しかし、宮脇が「今泉駅前の広場」と記した場所は、いざ来て目の前にしてみると予想外に狭い。「広場」とあるようにもう少し広いのかと思っていたものの、

まあこんなもんか

という程度のものでした。感じることは人それぞれなので、私の感覚が絶対とは言い切れません。ただの一個人の主観です。
いや、実は昔はもっと広かったのではないか…という仮説も立ててみました。

 

戦後の今泉駅

昭和24年(1949)の航空写真で確認すると、駅前は何ら変わっていませんでした。よって宮脇親子が見ていた風景で間違いはありません。

 

 

今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。

引用:『時刻表昭和史』第13章

8月15日は雲ひとつない晴れ空だったと全国あちこちの記録に残っていますが、山形もその例外に漏れず、暑い晴れ空でした。

76年後のその日は曇り空。「まぶしかった」とは真逆の空模様でした。今にも雨が降りそうな空でしたが、結局降らずじまいでした。
気温については、宮脇は暑いとも何とも書いていません。が、おそらくは汗が噴き出るような暑さだったと推定できます。山形県、さすがはかつての日本最高気温ホルダーだけあって、暑い時はめちゃくちゃ暑い。
そして76年後、こちらも宮脇が体験したものとは真逆でした。薄手の長袖のシャツを着て、ちょうど良かったほどの「寒さ」でした。誕生日は太陽が恨めしいほどの真夏のはずなのに長袖を着たのは私の記憶に全くなく、おそらく生まれて初めてだろうと思います。

そして正午が近づき、

 

(駅前広場の)中央には机が置かれ、その上にラジオが乗っていて、長いコードが駅舎から伸びていた

引用:『時刻表昭和史』第13章

人々も駅前に集まり、ラジオを半円形に囲みました。

そして正午、「君が代」と共に重大放送が始まりました。実際は「君が代」の前に、

「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」

という説明が入ったのですが、重大放送とは、もちろんのちに「玉音放送」と呼ばれることとなる昭和天皇の声でした。
天皇の声は生放送ではなく、前日に録音されたものだったのは、現在では周知の事実となっています。雑音がひどかったものの、レコードの針が盤に触れる時のザーザーという音は確かに聞こえ、内容も19歳の青年にとっては難解だったものの、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と「万世の為に太平を開かんを欲す」ははっきり聞こえたそうです。
なお、ご存じのとおり、玉音放送は初めて聞く天皇陛下の声という緊張感と、文語による難解な言い回し、そしてノイズが激しく何を言ってるのかわからなかった…と、当時をリアルタイムで体験した人たちの回想にあります。
しかしながら、天皇の放送は正午からの番組の一部に過ぎません。あの放送の後、アナウンサーが玉音放送の解説(事実上の口語訳)と朗読を行っており、それで内容を理解したという人が、一般国民レベルではほとんどだったと言います。

76年後、私は駅前広場を視界に入れながら、頭の中で映像を造り上げていました。76年前と違い、駅舎前には人ひとりおらず、ただ一人通りかかった老人が、こんなところで突っ立って何やってんだという表情を浮かべながら、私の顔を見ていました。

 

 

まもなく女子の改札係が坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行きの米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんな時でも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。けれども、坂町行き109列車は入ってきた。

引用:『時刻表昭和史』第13章

宮脇青年が「信じられない」といぶかしんだのは、ある理由があります。

14日の夜と15日朝に、新聞・ラジオで「重大放送」についてある通知がなされます。

「一億国民は厳粛に必ず聴取しなければならない」

仕事中でも手を休めてこれを聞けということです。

歴史の常識としても、玉音放送は一億全国民が聞いたということになっています。が、列車はやって来た。つまり鉄道員は汽車を動かしており玉音放送を聞いていないということなのです。当時はポータブルラジオなんてあるわけもなく、汽車を動かしているとラジオは確実に聴けません。

宮脇俊三は『時刻表昭和史』の中で、我々の持つ昭和史の常識を破壊するようなことをいくつか書いていますが、終戦の日のこれもその一つ。
彼本人も「時間が止まっていた」などとあいまいにぼかしているものの、一億国民が全員聞いていたはず、いや、聞いていなければならなかったあの玉音放送を聞いていない人たちが、確実に存在したということを示唆しています。

 

昭和二十年八月十五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。

引用:『時刻表昭和史』第13章

ここで、宮脇の記憶が混乱します。

昭和20年9月の時刻表では、玉音放送後の列車は13時52分着、57分発となっています。が、彼は「天皇の放送が終わった後」、12時30分の列車に乗った気がするとしています。確かに、昭和19年(1944)の時刻表には、12時27分着、同32分発の米坂線の列車があります。
正午からの重大放送の中の天皇の玉音放送は4分半ほどですが、正午からの「重大放送」自体は、アナウンサーによる詔書の奉読や文言の解説など続きがあり、フルバージョンで37分半となります。
宮脇は、父が元軍人・政治家であった以上、放送はフルで聞いていたはず、いや聞いていなければならない。なので、「30分発」はおそらく勘違いだろうなと私は推測しています。

本当に12時半に乗ったのか、それとも列車は時刻表とおり13時52分に来てそれに乗ったのか。本文では12時半に乗ったという話で進んでいますが、それは今となってはわからない、なぜならその時、終戦という時代の分岐点にいたのだから。

何にしろ、宮脇親子は米坂線の列車に乗り、坂町から村上へ戻ります。
しかし、私は村上まで行くことはありませんでした。それは先月に果たしており、その必要はないだろうと。

 

玉音放送の想像をたくましくした後、私の方は12時14分発の赤湯行きに乗りその場を離れました。今泉駅のホームを眺めていると、76年前とさほど変わらない駅の風景に、ホームで列車を待つ宮脇親子の姿が見えてきそうでした。

 

今泉駅

JR米坂線のホームは屋根などが改築されてしまっているものの、山形鉄道のホームの方は、まるで国鉄時代から時が止まったかのような姿をとどめています。屋根の骨組みはもちろん、乗り換え案内の看板も懐かしき国鉄フォント。乗り換え案内はさておき、ホームの基本的な構造は宮脇俊三が終戦の日に見たものと変わっていないと思われます。

 

「聖地巡礼」とは、アニメ好きな人がアニメの題材や舞台に使用された土地や建物を訪ねるというものですが、鉄道マニアにも「聖地巡礼」があります。
その中でも、宮脇の「終戦の日、正午の今泉駅」はけっこうメジャーなようで、過去に何人もの人がその日、その時に訪れているようです。
言葉は知っていても、「聖地巡礼」自体には特に興味はなかった私ですが、こうして行動に移して追体験してみると、なかなか良いものだなと感じた今でした。

 

 

 

コメント

  1. 折戸正紀 より:

    いつも楽しみに拝見させていただいています。
    勤務先が高石、自宅が和泉中央駅近くで、この近辺のエッセイも大変興味深く読ませていただいています。
    聖地巡礼、私も3年前の9月ですが、何とか仕事のついでに時間を作って、今泉駅に行ってきました。8月15日でないのは残念ですが、それでも暑い日でした。
    写真等、とても懐かしく拝見させていただきました。
    玉音放送の後の放送について述べられている点は、少し、目から鱗がという気分でした。
    全部聞いていれば、確かに12時半頃の汽車には乗れませんよね。

    ちなみに、私の聖地巡礼の初めは、世田谷の宮脇邸でした。
    2003年2月25日に眺めに行きました。偶然ですが宮脇氏が亡くなられた日の前日です。
    生前の宮脇邸詣でをした最後のファンだと密かに思っています。

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