キャンプ・サカイの痕跡と引込線跡を探る
今の大阪市立大学は、返還後にかなり整地と建物のリフォームを進めたので、進駐軍キャンプ時代の残骸はほとんど残っていません。
しかし、敷地を掘ったり建物を整理していると遺物が今でも見つかることがあるようです。
旧高商科の建物だった3号館を解体したら日本軍の三八歩兵銃が見つかったり、7年前の2010年にも、2号館の天井裏から米軍の銃の実弾とアルミ製水筒が大量に見つかったこともありました。

連合軍専用線路は、赤線で引いた感じで敷かれていたと思います。

航空写真を見ても、その敷き方の強引さが見えてきます。
駅からかなり強引にカーブを描いたものの、曲がりきれずに民家を削っているように見えます。その後態勢を整えてほぼまっすぐに伸びていますが、高速道路の急カーブを曲がりきれず壁にぶつかり、なんとか道路上に戻って何事もなく走って行った車の軌跡のようです。

線路はここからまっすぐ東へ伸びていました。ここから東へ伸びると、旧阪和貨物線とぶつかるのですが、この道の、少なくても右半分がおそらく連合軍線路の跡ではないかと思います。

線路は、出来た時は今の全学共通教育棟の北側が終点だったようなので、ここあたりに列車が止まってたのではないかと思います。
少しでも跡が残っていればわかりやすいのですが、さすがに60年以上も経っている上に周囲の環境が変わりすぎて目印となるものがほとんど存在していません。さすがにこれが限界でした。
大学キャンパスに残る米軍の跡
しかし、「キャンプ・サカイ」の遺構となると、現在でもこんなものが残っています。

大学のあるところに、ゴミ集積場らしきエリアがあります。

そのうちの一つに、ごみ焼却施設のようなものがあります。これ自体は別に何の変哲もありません。が!

上の方にわずかな英語が残っています。
RESERVED FOR THE COMMANDING OFFICER
直訳すると「司令官のために確保済」ですが、要は司令官専用席というわけですね。
Hijicho-大阪市立大学新聞様によると、ここにはかつて陸上競技場がありました。これは司令官クラスの偉いさんの観閲用席(高台)だったのでしょう。写真は省略しますが、当時の航空写真にも高台らしきものが確認できます。
また、米軍が接収時代に、お祈り用に作ったチャペル(教会)が12~3年前まで残っていたそうですが、こちらは残念ながら現存はしていません。
最後に、市大キャンパス接収年表をまとめておきます。何かの参考にどうぞ。
■昭和18年(1943)12月30日 :海軍が文部大臣を通して大阪市長に商大予科・体育館の一時利用を要請
■ 昭和19年(1944)5月25日 :大阪市と海軍の賃貸契約締結
8月3日 :商大予科・高商科が帝国海軍大竹海兵団大阪分団(9/1に「大阪海兵団」に改名)に引き渡される(同時に、予科・高商科は大学本科校舎へ)
■昭和20年(1945) :8月15日:終戦
10月6日:大阪海兵団撤収
10月7日 :米軍、商科大学を接収。一週間以内の立ち退きを要求し、第二十五師団の隷下の兵舎として使用(キャンプ・サカイの始まり)
(昭和24年(1949):新制大阪市立大学設立)
■昭和25年(1950)6月~ :朝鮮戦争勃発。「キャンプ・サカイ」に駐留していた米軍の一部が朝鮮の出兵。 キャンプ施設の一部が空き、そこに陸軍病院を建設。朝鮮戦争の傷病兵が収容される。
■昭和27年(1952)8月11日 :大学の一部敷地の接収解除。現在の1号館周辺(グラウンドを除く)が市大に返還される。
■昭和28年(1953)7月27日 :朝鮮戦争休戦
9月 :日本側が大学の全面返還を要求(のち却下)
■昭和29年(1954)時期不明 :この頃まで、未返還エリアは病院として使われていたと思われる
6月16日 :米軍の海兵隊基地として使用開始
■昭和30年(1955):接収解除。大学の全面返還
・『大阪市立大学史』
・『接収期杉本学舎の実態と周辺地域の状況について』松本裕行論文
・『今こそ知ろう!大阪市立大学の歴史-Hojicho大阪市立大学新聞
・『接収時と返還時の前後における杉本学舎と杉本町地域に関する記録』補足資料
・『大阪市立大学学舎接収時代史料群』田中ひろみ論文
・『戦争にふちまわされた大学 大阪市立大学』大阪市内で戦争と平和を考える
・『空撮写真で見る米軍接収時の大阪市立大学』
・『国会議事録に見る米軍駐留時代の大阪市立大学』
コメント
私がのぶさんのブログを読むきっかけになった記事をリライトいただいてありがとうございます。
改めて私が持っている資料を見返したのですが、やはり引き込み線を確認することはできなかったので、今回は台風の被害を被ったものとはいえ線路の写真を確認できて感動しました。
進駐軍から返還された1号館等は「まなびや」から大分改修されていたようで、当時の職員も克明に記録していました。
ちなみに、本館地区入って右手にある「旧車庫」は、当時から残る貴重な建物ですので、機会があればご覧になってください。
ときどき読ませてもらってます。
我孫子前にある某高校の校史で、アメリカ兵が遊び(視察?)にやってきた写真がありました。キャンプのご近所だからでしょうね。その縁でアメフト部ができた、とかいうような記述があったかも。そのかわり、校内にあった神社も撤去させられたんですが。
進駐軍専用線ですが、昭和32年発行の地図によると、杉本町駅側からではなく我孫子大橋近くで阪和貨物線から分岐するようになっていたようです。10年後の昭和42年の地図には描かれていないので、この間に廃止されたのだと思います。
検索からこの記事で見つけました。
以前から古い航空写真にある市大の線路らしきものの真実を知りたく思っておりました。
GHQの引き込み線ではと想定はしておりましたが、このブログのおかけで確信を得られただけでなく、多くの知らなかった情報を得ることができました。空中写真以外の写真や、引き込み線とは関係ないものの市大構内の遺構まで知ることができるとは。
読んでいてワクワクしました。本当にありがとうございます。
大阪市大卒業生です。私が学生の頃(今から30年前)は、キャンプサカイ時代のチャペルがありました。毛色の違う木造建築で、確か私が学生当時は保健管理センターだかそんなものだった記憶があります(新入生の時、一度だけ健康診断で行きました)まだ、当時は古い建物も残っていたので、もっとしっかり見ておくべきだったと、このブログを読み後悔しております。まあ、当時は大学生活が楽しくて、それどころではありませんでしたが(笑)そして、杉本町の狭いホーム!私が学生の頃はまだ柵もなかったので、快速が通るときは確かに怖かったですね。
ありがとうございます。