大阪市西成区山王…人によってはその地名を聞くだけでさぶいぼ(鳥肌)が立つ魔境。
…と昔はそうだったと聞いていますが、実際に行ってみると至ってふつうの大阪の下町の風景が広がる住宅地です。大丈夫、私は何度も足を踏み入れていますが、いまだに五体満足で生きています。
そんな山王の街角に、知る人ぞ知る旅館が建っていました。
旅館『明楽』。外観はずいぶんと年代ものの建物として、こういう建物が好きな大きなお友達の注目を集めていた建物です。
看板もしっかり「明楽」と。揮毫は「露石学人」と読めそうですが、有名な人かどうかはわかりません。
『明楽』を見た人間の脳裏に印象づけるものは、この特徴的な丸窓。
丸窓は大正時代末期から昭和初期にかけて大流行したもので、建物にアクセントをつけるには充分すぎるほどの個性が加わるため、かなりの建物に採用されました。『明楽』が少なくても昭和初期築と推測可能な間接的根拠でもあります。
この丸窓だけでもけっこうなインパクトなのに、よく見るとステンドグラスとなっています。美しいというより艶めかしいと表現した方が適当なほどです。
旅館の内部はどんなものかわかりませんが、「日本間」と「洋室」があったことが、この表示からわかります。「気楽」と「華」が何気に旧字体です。おそらく建築当時からのもので、戦前か昭和20年代のものか。
晩年は旅館としての営業自体を行っておらず、電凸して宿泊の有無を聞いた猛者がおり、「やってません」と明確な回答をいただいたそうです。
一度は内部を見たかったのですが、Twitterのフォロワーさんの情報によると、2011年に中国系マレーシア人によって作られた映画『新世界の夜明け』で内部が一部映っているとのことです。
かつては、この料金の部分にいくらの額が掲げられていたのでしょうか。
ここ界隈は、昭和33年(1958)の売春防止法完全施行以前は、いわゆる売春多発地帯でした。娼婦や、ここ界隈の名物だった男娼が阿倍野の近鉄百貨店前などの道に立ち、男に声をかけて交渉し、成立したら彼ら彼女らの「提携旅館」にドボン。簡易旅館と呼ばれたいわゆる「連れ込み宿」が、ここ界隈でも300軒もあったそうです。
『明楽』がその部類の宿だったのかは、ここでは明確な回答は避けます。
『明楽』の歴史
さて、ここで疑問が浮かびます。『明楽』はいつ作られたのか?
現時点でわかっていることは、『明楽』は西村ハナさんという方が昭和12年(1937)に開いた旅館でした。
彼女は明治33年(1900)に地元(堀江)に生まれ、大正10年(1921)に奈良の旅館で働くご主人と出会い結婚。そのまま奈良に住むことになります。
が、ご主人と昭和12年(1937)と死別し、大阪に帰った西村さんは同年に既存の建物を買い取り『明楽』を開業した…そんな経緯だそうです。
当初は4畳半が4室、8畳が3室、10畳が2室、6畳が3室の計12室。うち4室が洋間で、従業員は女性4名だったと記録にあります。
なんと当時の図面が残っており、黄色で丸をした部分が玄関、赤矢印で示した角は「明るい洋室」「きれいな日本間」と書かれた看板の部分ですね。
明楽は、戦後に大幅な改修が行われました。
右上の緑で囲った部分は、戦前は洗面所とトイレだったのですが、ここを改修して風呂場を作ります。水槽で泳ぐ金魚をモチーフにした全面タイル貼りの浴室には、ある面白いものがあったのですが…それは口授ルします。
ここで、一つの謎が生まれます。
西村ハナさんは、既存の建物を購入したと述べましたが、それでは建物自体はいつ頃の築なのか。
残念ながら、何年何月何日竣工のような明確な資料はないそうですが、それならと間接的にわかる方法でちょっと調べてみました。
まずは昭和3年(1928)の大阪市の航空写真より。赤丸の位置に『明楽』が確認できますが、奥の建物はまだないようです。
赤い四角の部分が『明楽』です。昭和17年(1942)になるとあびこ筋や、現在の大阪市大医学部(と附属病院)も出来て基本的な地理構造が現代とほぼ変わらなくなり、位置がより明確になりわかりやすいと思います。
昭和3年の航空写真と違うところは、南海線側に建物が建て増しされていること。
1階の図面右側(南海線側)、赤で塗った部分は洋間であることが判明しているのですが、おそらくこの洋間部分が1928年〜1942年の間に建て増しされたのではないか。私はそう推定します。
さて、ここで戦争を挟むことになりますが、ここ界隈は果たして戦争で焼けたのか否か。
戦後それほど経っていない昭和23年(1948)の航空写真でも『明楽』はそのまま健在でした。周囲も焼けていない模様なので、ここあたりは戦災の被害を受けていないようです。
こうして見てみると、今でこそあびこ筋沿いから遮る建物がないので道から丸見えの『明楽』も、実は道を深く入った奥まった場所にあったことがわかります。
結局、いつ建てられたのかは判明しませんでしたが、
・昭和3年(1928)には建物自体は存在していた。
・奥の部分は途中で建て増しされた。
ということは確か。あとはわかりません。
なお、西村ハナさんはその後再婚することはなかったようですが、親戚の男女を養子に迎え、跡取りとして旅館の運営などを手伝ってもらい、昭和57年(1982)に81歳で亡くなりました。
『明楽』は養子(男子)が引き継ぎ、奥さんを迎えて二人で旅館を運営してきました。が、晩年は台湾からのバイヤーなど固定客しか受け付けず、彼らもコロナで来日できなくなり、そろそろ潮時か…と閉店を決意したとのこと。
個人的には、形あるものいつかはなくなる、解体されるのは仕方ないと思います。が、この世からなくなる前に、一度だけで良いから中身を見てみたかった。写真に遺しておきたかった。一人の昭和史探偵としてこう願って止みません。
しかし…「その日」は突然やってきた…。
2022年5月31日追記−『明楽』の最期
建物自体もだいぶくたびれており、しかも周囲が再開発の波に呑まれており、無くなるのも時間の問題かな…
とは思っていたものの、まだ数年は大丈夫!と何の根拠もなく楽観的に考えていました。
その間、
明楽が取り壊された!!
というデマツイートも何度か現れ、その度にドキッとしたものでした。
ところが、「その日」は突然やってきたのであります。
明楽の隣の長屋が取り壊しなのは、GW明けから情報が来ていました。ところが、その取り壊しの魔の手が明楽に及んでいました。
内部もこの通り。家主さんも引っ越したかもの抜けの殻でした。2階部分もほぼ完全に壊されています。
玄関横の「日本間」「洋間」の看板が剥がされ、別の方がアップの写真によると、23日くらい時点でステンドグラスも外されていた模様。
これは「死亡宣告」の予兆だったのでしょう。
そして6月に入り…
旅館明楽は誰にも知られることもなくがれきの塊となり、歴史の一部として我々の思い出にのみに残ることとなりました。
しかし、取り壊されて判明したこともあります。
哀れ重機のエサになってしまった明楽ですが、建物の奥になにやらレリーフのようなものが見えます。
これをアップしてみると…
!!!
タイルで描かれた女性の絵が!!!
しかも裸婦…風呂場か?
このモザイクアート、Twitterに晒してみたところ、
東郷青児っぽいな…
という声が複数。さすがはTwitter知、東郷青児なる存在の出現によって明楽の最期は意外な展開に。
東郷青児とは一体誰か、それを調べようとしたところ、フォロワーさんから決定的な情報が。
東郷青児の絵の一つですが、これは…まったく同じじゃないですか!!!
パクリとは言いませんが、これは東郷の絵を明らかにオマージュしたもの。絵心ゼロの私は東郷がいかなる人物かは存じませんが、調べてみると洋画界の超有名人で人気もあったとのこと。明楽が有名画家の絵をタイルで再現…十分にあり得ることです。
しかし、最期の最期で明楽はすごいものをさらけ出してくれたものです。写真だけとは言え、この瞬間を見ることができたことに感謝致します。
『明楽』の遺物を引き取りに…
明楽がこの世から消えて1年少し経った2023年11月、思わぬニュースが私の耳に入りました。
大阪市のある場所で、明楽の風呂場や便所に張られていたタイルの一部が展示されているとのこと。
このように、民家の一角に期間限定でタイルが剥がれた状態で展示されていました。
あの東郷青児のタイル画を飾った一部も!
バラバラになったとは言え、一部でも「遺骸」が残っているだけでも朗報なのですが、ここで信じられないことに。
欲しかったら差し上げます
なんと!欲しい人にはもれなく無料で譲渡とのこと。
私も、こんなチャンスはないと「2切れ」ほどいただいてまいりました。
左はトイレ、右は風呂場の一部でタイルが剥がれて改修の跡があるものです。
最後に
形あるものは、いつか消えてなくなります。それは建物も人間も同じ。なので、個人的には建物が取り壊しになっても、
仕方ないという無常観は持ちつつも、されるに任せます。
しかし、取り壊しの前に内部を見たい人は少なからずいるはず。
なので、最後に有料でいいから公開して欲しかったというのが、偽らざる本音です。
ただ、本稿での唯一の光は、前述したとおりステンドグラスや玄関横の看板などが「撤去」されていたということ。
撤去ということは、家主さんか心ある知り合いの方が、保管・保存目的で取り壊し前に剥がした可能性が高い。
要らないならそのまま残し、重機のエサにされるに任せるでしょうし。
…と推定していたのですが、2023年11月のタイル展示会の際にある情報を聞きました。
看板は娘さんが保存していますよ!
この看板は、捨てられたわけではなく娘さんが保存していたとのことでした。なかなか立派なものだったたけに、「遺品」として遺してくれたというわけですが。
聞きそびれてしまいましたが、ステンドグラスもおそらくは…。
「遺品」をいただいた帰り道、ちょうどバイクでの神戸への帰路(国道43号線)沿いだったので、明楽があった場所へ寄ってみました。
周囲はすっかり変わってしまい、明楽ってどこにあったっけ?と思わずGoogleさんに頼ってしまったほど。何回、いや十数回は訪れた場所なのにどこにあったかわからなかったほど、ここにレトロ建築ファンを魅了した伝説の旅館の残滓はありません。
明楽よ、さようなら。我々の眼を愉しませてくれてありがとう。
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コメント
いつも楽しく見させて頂いております。
私の記憶が正しければ…2018年11月にテレビ朝日系列で放映された「千鳥の路地裏探訪」で、旅館明楽の内部がかなり細かく撮影されていたと思います。誰か録画してないかなぁと、ずっと探していますが見付からず。
個人的には、関西圏に住んでいながら一度も生で見られなかった事を後悔しています。
合掌。
>藤井純子様
いつもご覧いただきありがとうございます。
「千鳥の路地裏探訪」は、ツイッターでも何人かが指摘していましたが、肝心の映像はネット上になかったですね。
誰かが話題にしてるかとも思ったのですが、それもなく「明楽」は我々界隈が騒いでるだけかもしれませんね(笑
でも、中の裸婦のモザイクアート(東郷青洲のレプリカであることが判明しました)だけでもかなりインパクトが強いので、
やはり中を見たかったなーというのは同意見です。