戦後の玉の井
戦争が終わって少したった昭和21年、焼け残ったいろは通り北側を使って「赤線」が成立、戦後の玉の井の歴史はそこを中心に流れていきます。
結果的には、玉の井赤線は昭和33年(1958)施行の売春防止法で灯を消し、更に昭和40年3月1日から施行された第二次地区表示変更で「墨田町」「東向島町」となり、「寺島町」という名前も消えました。今は閑静な住宅街に町工場が点在する、ごく普通の町です。
が、「玉の井」は未だ死なず。
今でも東向島駅の駅名標には(旧玉ノ井)と書かれており、地元の人の強い要望だそうです。
戦後の玉の井カフェー街の規模はだいたい120件くらい、戦前の全盛期の4分の1の規模くらいでした。
昭和30年6月末の警視庁の調査によると、
・店の数:121軒
引用:玉の井挽歌』大林清著より
・女性数:328人
●ショート:300~400円
●時間:500~800円
●泊まり:800~1000円
昭和32年3月、つまり「売防法」施行1年前のデータでは、
・店の数:106軒
引用:『玉の井という街があった』前田豊著より
・女性数:275人
ライバル鳩の街もほぼ同じ値段だったそうですが、上述のとおり戦後は鳩の街の方に客足が移ってしまいます。鳩の街の女性の数は玉の井より少なかったものの、客数も女性一人あたりの稼ぎもリードされ、戦前の「魔窟」の面影はどこにもなかったと本は記しています。
昭和43年(1968)の玉の井の赤線跡を写した写真を見ても、カフェーは「飲み屋」となり赤い灯は完全に消え、健全な街になったかのようです。
予想外のところで蘇った(?)玉の井
玉の井は、昭和33年(1958)の売春防止法施行でその歴史に幕を閉じますが、それから60年、誰も予想しなかったところで玉の井の亡霊が蘇ります。
それは台湾。
台南市の郊外に「玉井」という地区があります。マンゴーの産地として有名で、台湾ではマンゴーと言えば玉井、玉井と言えばマンゴーというくらいの町。そんなマンゴーな町が玉の井の亡霊に取り憑かれたのか。
元々ここは原住民が暮らしていたところで、現地の言葉でタパニ(Tapani)と呼ばれ、「噍吧哖」と当て字されていました。
それが日本統治時代、
難しい漢字は誰でもわかりやすい字に変えます
というお触れで、タパニーに発音が近い「玉井」と当て字されました。
それが戦後に北京語読みされ、オリジナルの”Tapani”は消えてしまったという経緯があります。
同じ経緯で元の名が消えたのが、南部最大の都市高雄。こちらも元はターカウという名で「打狗」という当て字がされていましたが、
”犬をぶっ叩く”なんてお下品につき、改名します
と、読みが同じ東京の高尾から取ろうとしました。が!
高尾って吉原遊郭の高尾太夫を連想してヤダ
と横やりが入り、街の発展を期待するという意を込め「尾」を「雄」に変えて「高雄」に。それが戦後、中国語読みでカオシォン(Kaosiung)となり「ターカウ」は消滅と。
なお、高雄は京都の高雄(山)から取られたと日本人や台湾人の間に広まっていますが、これは俗説(上の経緯のとおり、ただの偶然)で高雄の命名者本人(下山宏民政長官)が否定しています。
閑話休題。
2018年か19年はじめ、野党国民党の議員がこんなことを言い始めました。
玉井は日本人が売春街からつけた汚らわしい名前だ!
台湾人がよく玉の井なんか知ってるな(笑)と逆に関心してしまいましたが、まず「玉井」と付けられたのは大正9年(1920)のことです。これは台湾総督府の一次資料が残っているので明白。
で、上述した玉の井の歴史からわかるとおり、玉の井が玉の井たる姿になったのは、その3年後の関東大震災以降、さらに全国区になるのは昭和初期、具体的には永井荷風の『墨東奇譚』以降。
時系列がめちゃくちゃで、「玉井」と「玉の井」とは何の関係もないことがわかります。
SNSの台湾人クラスタが本件で少しざわついていましたが、彼らも「こいつ何言ってるんだw」と議員の日本統治時代disを見抜き笑っていました。が、その火を消す「消化剤」がなかったところに、私がざっくり玉の井史の中国語解説を差し入れ。ゴミ置き場が少し焼けた程度で鎮火とあいなりました。
私の主専攻は台湾史なのですが、まさか現代台湾情勢で「玉の井」が出てくる、そして近代遊里史がこんな場面で役に立つとは。そして、火をつけた側も、まさか「近代遊里史に理解がある&中国語がわかる(玉の井概略を中国語で説明できる)日本人」がいるとは予想外だったでしょう、ざまぁ見ろってんだい(笑
ここまでで玉の井の歴史をかいつまんだところで、現在の玉の井はどうなっているのか。
さてさてお次は、お待ちかねの玉の井探索!赤線の跡が今も残る玉の井を歩いたその姿とは。
『墨東奇譚』
『玉の井という街があった』
『玉の井挽歌』
『玉の井 色街の社会と暮らし』
『墨田区史』
『墨田区火災保険特殊地図(戦前)』
『東京都全住宅案内図帳 (昭和36年)』
『新評 1970年8月特大号 戦後赤線哀史 私娼解放の拠点〈玉の井〉 / 猪野健治』
『警察新報 1937年4月号』
『あざみ白書』(小林亜星著)
『荷風!Vol.27(2011.3) 玉の井を語る』
『東京人 No.186(2003.1) 色街慕情』(小沢昭一著)
『賣笑婦論考』
『寺島町奇譚』(滝田ゆう著)
『昭和史が面白い 赤線恋しや』(半藤一利他)
コメント
BEのぶ様
初めまして、天王寺駅の怪にノックアウトされた者です。
現在玉の井旧3部に居住しており、その昔は母方の叔父夫婦が同カフェー街で銘酒屋を営んでおりました。
そんな血と育ちから、古めな鉄道と遊郭跡を求めて全国を彷徨っております。
貝塚と言えば遊郭跡と水間鉄道、これからもブログを楽しみに致しております。
>東京YSさん
はじめまして。拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
趣味が合いそうなプロフィールですね、これからどんどん更新していくので、またよかったらお読みいただければと思います。
あと、玉の井のことで何かお聞きになっていたら情報いただけたらなーと。
戦後の地図には旧京成白鬚線跡と東武伊勢崎線、それに3部西端とで囲われた辺りにも旅館が数件記載されていて、現在も遺構が1件残存しています。エリアの線引きには曖昧な面があったのでしょうか。
その点カフェー街は組合が厳しかったこともあり、そうそう散らばらずかなりの密集度だったようです。
叔父夫婦はメインストリートで「けい」(前屋号「金波」後屋号「せいこ」)という店を営んでおりました。
賑わいはメインストリートもさることながら、そこから北へ伸びる二本の路地が特に凄かったそうです(貴ブログ③の写真ですね)。
旅館「錦水」を過ぎてアールの手摺りのある大店「鹿島屋」までの間にこれでもかというくらいの店があり、さらに西へ向かう路地の更にその奥の路地のとば口に貴ブログ⑤でエアコンが飛び出ている遺構「銀月」か「うきよ」?があったわけです。
玉の井も多くの建て替えが進んでいますが、ここは今でも最もディープな一角だと思います。
>東京YSさん
最後に行ったのがかなり前だった上に、まだ遊郭・赤線史研究家の駆け出しの頃だったので、来月玉の井と鳩の街など東京の赤線跡再調査に行こうと思ったら!
コロナで断念せざるを得ません。
夏には収束していると思うのでその頃に行きたいですが、その頃には当時の建物が残っているだろうか(いやもうなくなってるか)、心配です。
その点関西は貴重な物件や街並みがまだまだ多く羨ましい限りです。
実は私も、201系の最後をチェック〜播但線で梅ヶ枝遊郭へ〜和田山駅の機関庫(まだ有りますよね?)まで足を伸ばそうと思ってましたが、やはりコロナで躊躇しています。
先が見えずに困ったもんです。